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続きを読む003『通話』ロベルト・ボラーニョ/松本健二訳
七回目のベルで受話器を
彼女の声はいつものように冷たかった。・・・話し下手な人によくある、無関心な口調で自分の人生を語るあの声、余計なところに感嘆符を置き、傷をほじくり返してでも話すべきところで黙り込んでしまうあの声だった。(p.184)
<<感想>>
毀誉褒貶の激しい作家という印象がある。
作家ボラーニョの代表作は『2666』であるとされている。そして、その異様な見た目からも耳目を引いた同作については、激賞する人もいれば、冗漫なだけの作品としてこき下ろす人もいる。ちなみに、私が初めて「鈍器」、「鈍器本」という表現を聞いたのは、この本が発売された頃のことだったように思う。
さて、『2666』を過剰評価だとする人の中には、ボラーニョの神髄は短篇にあり、この『通話』こそが傑作という意見もある。『2666』から読むのは荷が重い(物理的にも)ので、今回はこの『通話』に手を付けてみることにした。
続きを読む『ブルーノの問題』アレクサンドル・ヘモン/柴田元幸・秋草俊一郎訳
悪い夢ならば早めにさめてと
気さくな英語話者の隣人がエレベーターに乗りこんできて、中西部のままならない天気について会話を切り出そうとするなか、父は11と18(そこが口数の多いアメリカ人の行き先だった))のボタンを押しつづけていた――あたかも、それがこのクソみたいな多言語世界を終焉させ、バベルの塔なんてものが愚かにも建てられたせいで歴史が間違った非人間的な方向へとほどけだす以前に私たちみんなを連れ戻してくれるボタンであるかのように。(p.118)
<<感想>>
当ブログでアレクサンドル・ヘモンの作品を取り上げるのは二回目。この作家の『愛と障害』【過去記事】の感想を書いたことがある。
『愛と障害』は連作短篇集であったが、こちらの作品は頭の二文字が消えた短篇集になっている。連作の文字が無くなったとはいえ、各短編はいずれもヘモンその人を思わせる人物が語り手となっている。
ここで作者ヘモンについて簡潔に述べておこう。ヘモンはボスニア・ヘルツェゴビナに生まれたユーゴスラビア人である。サラエボ包囲の始まったまさにその日にアメリカに滞在しており、母国に帰れなくなった結果、亡命を余儀なくされた人物だ。
このため、本作もいわゆる亡命文学とカテゴライズすることが可能だ。
各短編についての言及に入る前に、全体の感想を記しておこう。
まず、本作は若書きならではの魅力に溢れている。若書きというと、往々にして作品を軽侮する表現であるが、これは私の意図とは異なる。むしろ、若さゆえ、作家生活の初期の頃の作品であるがゆえに、欲張りで、テーマ性に富み、実験的な内容も我儘にやってやろうという野心にあふれた作品集だ、といいたいのである。
そして何より、「当たり」の作品の比率が高い。だいたい短篇集というと、玉石混交というか、緩急や温度調整のために入っているのだと疑いたくなるような作品が入ることが多い。ところが本作では、どれもヒットかホームランかといえる、水準の高い作品ばかりで占められている。
以下、各短編の紹介では、気に入ったものに+印、特に良かったものに★を付している。
続きを読む『それぞれの少女時代』リュドミラ・ウリツカヤ/沼野恭子訳
その顔さえ白くぼやけて
ヴィクトリヤが、双子の片割れであるガヤーネを初めて憎らしいと思ったのがいったいいつだったのか―出生以前なのか、以後なのか―それは、だれにもけっしてわからない。(p.33)
<<感想>>
ウリツカヤはどうしてこんなにつまらないのに、こんなにも面白いのだろう。
安心して欲しい。これは私からウリツカヤへ送る最大級の賛辞だ。
ではいったいウリツカヤのどこがつまらないのだろうか。それは、ウリツカヤの手法が、物語の描き方が、全くもって古色蒼然、100年前から何の進歩もしていないように思えるからだ。
彼女に送られる賛辞に「現代のトルストイ」というものがあるが、これは全く当たっている。話は早速横道にそれるが、ロシアの場合、ここに代入される名前はプーシキンであっても、ドストエフスキーであってもならず、トルストイでなければいけない。プーシキンでは偉大過ぎるし*1、ドストエフスキーは「未来の予言者」であり、「われらの同時代人」であるから、未来に再来することがあってはならないのだ。
別の本で、彼女が尊敬する作家に挙げる人物が、ナボコフ【過去記事】とプラトーノフ【過去記事】であると知って、ぶったまげたものである。それは彼女が作品の中で、こうした作家たちの書く新しい文体を少しも真似ていないように思えたからだ。
さてでは、ウリツカヤのいったい何がそれほど面白いのか。それは、描かれている内容が圧倒的に新しいことによる。この意味において、「現代のトルストイ」という表現は全くふさわしくなく、むしろ酷い侮辱でさえある。彼女は、トルストイも書き得なかった、書こうともしなかったことこそを自身の文学の主題に据えたのだから。
続きを読む002『イエメンで鮭釣りを』ポール・トーディ/小竹由美子訳
電話やメールじゃなんだから
ああら!あなたはもうわたしのことなんか忘れちゃったんだと思ってた。
いくらイエメンでも、インターネットカフェへ立ち寄ってちょっとメールするくらいのことができないだなんて、言わないでよね。最近どこかへ行っていて、だから連絡が取れなかったなんて、とても信じられません。(p.291)
<<感想>>
これまでにこのブログで100本を超える感想記事を書いてきた。
が、今回は困った。書くことが大してないのである。決してつまらない作品だったわけではない。それどころか、軽妙なタッチの物語に魅せられて、ささっと読み終えてしまった。
では何故書くことがないのか。それは本作がいわゆるエンターテインメントに属する作品だからだ。
いや、エクリブにもこんな作品ってあるもんだ。
別にエンターテインメントが悪いと思っているわけではないが、どうしても、「面白かったです。」という、小学校低学年の読書感想文並みのコメントしか思いつかない。
そうかといってここでこの記事を閉じるわけにもいかないので、ざっくりとした粗筋と、読みどころを少し紹介してみたい。
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