ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

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002『イエメンで鮭釣りを』ポール・トーディ/小竹由美子訳

電話やメールじゃなんだから

ああら!あなたはもうわたしのことなんか忘れちゃったんだと思ってた。

いくらイエメンでも、インターネットカフェへ立ち寄ってちょっとメールするくらいのことができないだなんて、言わないでよね。最近どこかへ行っていて、だから連絡が取れなかったなんて、とても信じられません。(p.291)

<<感想>>

これまでにこのブログで100本を超える感想記事を書いてきた。

が、今回は困った。書くことが大してないのである。決してつまらない作品だったわけではない。それどころか、軽妙なタッチの物語に魅せられて、ささっと読み終えてしまった。

では何故書くことがないのか。それは本作がいわゆるエンターテインメントに属する作品だからだ。

いや、エクリブにもこんな作品ってあるもんだ。

別にエンターテインメントが悪いと思っているわけではないが、どうしても、「面白かったです。」という、小学校低学年の読書感想文並みのコメントしか思いつかない。

そうかといってここでこの記事を閉じるわけにもいかないので、ざっくりとした粗筋と、読みどころを少し紹介してみたい。

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001『ジーザス・サン』デニス・ジョンソン/柴田元幸訳

銀の龍の背に乗って

「お前らにはわからんのだよ。チアリーダーだろうがチームのレギュラーだろうが、なんの保証もありやしないんだ。いつ何がおかしくなっちまうか、わかったもんじゃないのさ」と、自分も高校でクォーターバックか何かだったリチャードが言った。(p.35)

連作短篇集、で良いのだと思う。ただ、一人称の語り手は恐らくは同一人物で、このため、語り手の過去の断片を繋ぎ合わせた中篇小説としても読める作品だ。

舞台はアメリカ。そして語り手は、ちょっとした犯罪やドラッグなんかに手を染めているいわゆるアウトローである。

このためか、少しページを繰ったときの読み味は完全に村上何某の小説――過去に退廃小説を書いていたことなんかすっかり忘れた顔して、経済番組の聞き手を務めていた方――だ。いや、一つの短篇を終えて、次の短篇に取り掛かったときでさ、そうした印象を受ける。

ところが、このデニス・ジョンソンという作家の読み味は、そうした小説とは趣が異なるものがある。

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精読『ダブリナーズ』―03「アラビー」

<<前置き>>

ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』の読書会である"Deep Dubliners"用のメモ。今回は第三回目、"Araby"こと「アラビー」である。なお、いつもどおり訳語は柳瀬訳に拠ることにする。

この記事の目的や本作読解の方針、参考文献などは初回記事をお読みいただきたい。

基本情報

登場人物:7名+α

ぼく、叔父、叔母、マンガンマンガンの姉、亡司祭、マーサー婆さん(質屋の未亡人)他(先生、イギリス人のアクセントの三人組等)

舞台:ノースリッチモンド通り、「アラビー」会場*1

日時設定:テクストからは確定できない*2

語り手:僕(12歳~くらい?)、なお本文は回想である

時系列:3場面に分けたい

・無時間的なノースリッチモンド通りの描写

・冬の短い日々(マンガンの姉編)

・アラビーの土曜日(アラビー編)

概要

叔父叔母とくらしている「僕」は、近所の子どもであるマンガンの姉に恋心のようなものを抱く。ある日、初めてマンガンの姉と会話する。曰く、アラビー(バザーの名前)へ行くのか?と。その日から、僕は土曜日にアラビーへ出かけて、マンガンの姉にお土産を買ってくることに執着するようになる。

『嵌る方法』概略

"blindness"に関するテーマの深堀り。マーゴ・ノリスらの先行研究の紹介。ポストコロニアル的読解の可能性の指摘。"blindness"が閉塞状況を示しているだけではなく、虚構を生成する領域としてのポジティブな機能を有していることをも示しているのではないかとの指摘。

(この節は追記をするかもしれない。)

検討

「精読」を謳いながら、今回はあまり精読をしている余裕がないまま読書会当日を迎えてしまった。いや、実をいうと精読自体はそれなりにしたつもりではあるのだが、この記事のこの箇所を書いているのが既に当日の午前3時であり、記事を書いている余裕がないというのが正確なところだ。

このため、既に公式のトピックリストが発表されている。しかし本稿では、やはり当ブログに関心に即した部分について書いていきたい。それでもその関心の一定の部分は、そのトピックリストの関心とも関連するはずである。

まず、私の興味としては、テクスト、あるいは物語の内的世界から離れて、歴史的コンテクストに依拠する読解にはあまり関心がない。また、象徴性を重視するあまり、まるでMMR*3のようにあれもこれも隠喩として捉えるような読み方も好みでもない。

重視したいのはテクストそれ自体、テクストの内的世界、そして他のテクストとの共鳴である。

 

さて、この「アラビー」は、遥か昔にこの『ダブリナーズ』を読んだときに、「エヴリン」と並んで印象に残った短篇の一つであった。それというのも、「アラビー」から「エヴリン」に移行する際の、文体的な落差が激しいためである。

特に今回の「アラビー」は、文学的修辞が強めに効いた文章であり、今回原文を確認したことで、さらにその感覚を強くした。

以下、追記予定の項目と概略だけ列挙して、後日更新します・・・。

 

1.光と音の描写

ガス灯の揺らめき。"blind"と"darakness"。

逆光のシルエットに過ぎないマンガンの姉。顔のないマンガンの姉。鉄柵の中のマンガンの姉。光と雨と性的仄めかし。

2.文章の工夫

アリタレーションやsとhで表される衣擦れの音など。

 Her dress swung as she moved her body and the soft rope of her hair tossed from side to side.

2.他篇との共鳴

自転車と"Wheel"、聖杯、妹のいる司祭。―「姉妹」との共鳴。

ごっこ遊び、ルーティンからの冒険。―「出会い」との共鳴。

同一人物か否かをテクスト内から確定する術はないが、物語の精神として同一のものを持っている。あるいは、これらの篇と共鳴させて読ませるような明確な意図が垣間見える。

3.他のテクストとの共鳴

プルーストにおける「窃視」「聴覚」「視覚」「フェティッシュとしてのアラビーあるいはラ・ペルーズ通り」

4.その他

テクストの余白―「空き家」について

*1:史実としては特定できるそうだ

*2:これも、テクスト外的には特定できるようだ

*3:「マガジンミステリー調査班」であり、マガジン誌で連載されていた漫画のタイトル。ノストラダムスブームに乗っかったトンデモオカルト漫画である。「話は聞かせてもらった。」「人類は滅亡する。」「な、なんだってー!」でお馴染み。詳しくはぐぐってください。

066『私はゼブラ』アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ/木原善彦訳

ああ 心に愛がなければ

テキストは互いに異花受粉するため、何世紀もの時代を飛び越えているのだ。(p.65)

<<感想>>

イラン出身の作者の小説を取り上げるのは、『スモモの木の啓示』【過去記事】に続き2回目となる。

作者のアザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ(長い)は、『スモモ~』の作者のショクーフェ・アーザルと同じく亡命者だそうだ。スペイン、イタリア、UAEに居住経験があり、現在はアメリカとイタリアとを行き来する生活を送っているという。

いきおい本作もイランからの亡命者を主人公に据えた物語となっている。

そして、その設定がなかなかにトんでいる。主人公のゼブラことビビ・アッバスアッバス・ホッセイニは、幼少期より父親から強烈に偏った教育を受けてきたのだ。曰く、ホッセイニ一族は、独学者、反権力主義者、無神論者であると。十に満たない幼少期から繰り返しニーチェを読み聞かされた上で、「文学以外の何ものも愛してはならない」と。

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