ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

1-07『ハワーズ・エンド』E・M・フォースター/吉田健一訳

冷静と情熱と香気と悪文のあいだ

「・・・あの人の頭は本の滓、文化でいっぱいで、わたしたちはあの人がそんなものは頭から洗いだして本物が好きになるといいと思っているんです。どうすれば生きて行くことに負けずにいられるか教えたくて、さっき言いましたように、毎日の生活が灰色なのに堪えて、そしてそれが灰色をしていることを知るためにはだれか―」 ・・・「だれか、自分が非常に好きな人か、あるいはどこかそういう場所が必要なんじゃないでしょうか。・・・」(p.202)

<<感想>>

マンスフィールド・パーク』のあとに本作を読むと、書き手による文体の差異に強烈に気づかされる。オースティンはほとんど比喩を用いないが、本作では比喩が多用される。会話文主体のオースティンに比べて、地の文が長い。作者の与えた第一原因によって突き動かされる人物たちと、思想の表象としての人物たち・・・。表面的な物語は似ていても、実質はかくも異なる。

 

而して本作では、その物語の表面だけをなぞるような読み方はやり玉に挙げられる。

・・・レオナードの話は本を書いた人間の名前の泥沼で終わった。それはこういうすぐれた人たちのせいではない。われわれのほうが悪いのであって、彼らはわれわれが彼らの名前を一種の道標に使うことを望んでいるのに、われわれが勝手に道標と目的地を取り違えているのである。(p.165)

あるいはレオナードのような人物をさして、次のような発言もなされる。

「・・・わたしは、そういう人たちに必要なのはもっと多くの本を読むことではなくて、ちゃんとした本の読み方を身につけることだっていったんです。」(p.183)

しかし悲しいことに、かくいう本作も、―なんとかメーターなんかを見る限り、どうにもちゃんと読まれてはいないようだ。そしてその原因は解説を書いている池澤夏樹氏にあるように思う。

ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)

ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)

 
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『マンスフィールド・パーク』ジェイン・オースティン/中野康司訳

機動戦士オースティン

臆病なファニーから見ると、ミス・クロフォードの乗り方はびっくりするほど上手だった。それから数分後に、ふたりの馬は停止し、エドマンドはミス・クロフォードのそばへ行って何か話しかけ、手綱の使い方を教えるために彼女の手を取った。遠くてよく見えないところは想像力で補ったのだが、ファニーの目にはそう見えた。
<<感想>>

読書感想文は嫌いだった。絵日記は、8月31日に図書館に行って、夏休み中の天気"結果”さえ調べれば、何とか後埋めすることができた。でも読書感想文だけはどうにも原稿用紙が埋まらない。

決して本を読むのが嫌いだったわけではない。むしろ、読書好きな子どもだったように思う。しかし、課題作品を何度読んでも、感想は浮かんでこないのだ。

それが今では誰にも頼まれもしないのに、二進法になった原稿用紙を日々黒く染め上げている。

 

そして、このオースティンの『マンスフィールド・パーク』については、全四十八章中、冒頭の一章を読んだだけで、書きたいことがほとんど決まってしまった。 

マンスフィールド・パーク (ちくま文庫)

マンスフィールド・パーク (ちくま文庫)

 
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『大いなる遺産』チャールズ・ディケンズ/石塚裕子訳

月刊少年ピップ

まったくいやな天気で、暴風雨だったし、通りはどこもかしこも一面泥、泥、泥だった。来る日も来る日も、茫洋として深く垂れこめる雨雲が東方からロンドン上空へ押し寄せてきたが、東方の雲と風とは無尽蔵だぞといわんばかりに、あいかわらず次から次へと押し寄せてくるのだった。(下、p.118)

<<感想>>

予約をしていたナボコフ先生の『アーダ』新訳版が届いた。

すぐにでも読みたいが、少なくとも二十数冊先まで読む順番を決めてしまっているからなかなか取りかかれない。

ディケンズ作品を読むにあたって、本当はそのナボコフ先生イチオシの『荒涼館』を読みたかった。でも、買い進めている岩波版をアマゾンが2巻までしか持ってこないから(未発売だとかいうちっぽけな理由で)、こちらを読むわけにはいかない。

 

さて、『大いなる遺産』は、『アーダ』のように最初から単行本として世に出る作品と異なり、そもそも月刊連載の作品だった。連載小説の特徴といえば、やはりプロットの推進力だろう。プロットが退屈で読者に飽きられれば、編集者なり請求書なりに直ちに打ち切られてしまう。我が国では『坂の上の雲』も連載作品だし、その他の国では『モンテ・クリスト伯』ももとは連載小説だ。

 

ところが、本作にはその『モンテ・クリスト伯』や同じイギリスの『ロビンソン・クルーソー』などのプロット一本槍の作品とは異なる味わいが秘められている。

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『ロビンソン・クルーソー』ダニエル・デフォー/平井正穂訳

物語の命脈

それからもう一つ面白いことは、三人しか臣民がいないのに、三人とも宗派がちがっていることであった。従者のフライデイはプロテスタント、その父は異教徒で食人種、スペイン人はカトリックだった。しかし、ついでながら、私は自分の全領土を通じて信教の自由を許していた。

<<感想>>

思えばデフォーも不幸な作家である。私はかねて、「テキストは読者のもの、作者から強奪せよ」という立場だ。そうは言っても、デフォーほどテキストを強奪され、作品を凌辱され続けてきた作家はいないだろう。代表的な下手人はどちらもヒゲ紳士だ(下手人1下手人2)。

小説の登場人物から、社会科学的な命題を例証しようなどということは馬鹿げている。所詮彼らの、あるいは当時の社会科学の厳密性は、散文的なレベルに過ぎなかったのだろう。昨今では、文化人類学比較文化学といった人々のおもちゃになっている。

さりとて、文学の世界での評判も芳しいとはいえず、小説というに値しないとの烙印を押されている。

ロビンソン・クルーソー』は近代小説のまさに一歩手前まできていたが、そこになにか物足りないものがあるとすれば、性格造形と心理描写であったろう。これを完成し、正真正銘の小説を確立したのはリチャードソン。(『イギリス文学史入門』p.88)

そこで今回は敢えて、本作に見られるデフォーの意図、眼目を考えてみたい。

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