ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

『ガルガンチュワ物語―ラブレー第一之書』フランソワ・ラブレー/渡辺一夫訳

15cで不良ポストモダンと呼ばれたよ

いかほど深遠な寓喩や理窟があることになさろうと御勝手でござるし、殿も各々方も、お好きなだけ夢を見られるのもよろしかろう。拙僧より見ますれば、打球戯の有様を、判りにくい言葉で描き出しただけのものと心得まするぞ。(58章、p.289)

<<感想>>

第一の犯人はamazonだ。

6年も前に重版された(冬の一括重版)ものなのに、いまだにきちっと在庫を抱えているとは何事か。さらには、レビューも(いつもあてにならないのだが)概ね好評と来ている。

第二の犯人は当然、岩波書店だ。ご丁寧に「読みやすくなった岩波文庫」などと書きよって、新訳(改訳)か何かかと誤解を誘っている。

第三の犯人は私だ。岩波、名訳、そして箱付き!!!

何を隠そう、何も隠していないが、箱入り文庫が好物だ。

我が家の『モンテ・クリスト伯』【過去記事】も、『ドン・キホーテ』も箱入り。

下手の箱好きである。

 

何の犯人かといえば、新訳のちくま版【amazon】では無く、伝統訳の岩波版を選ばせた(選んだ)犯人だ。

 

ガルガンチュワ物語―ラブレー第一之書 (岩波文庫)
 
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『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ/木村浩訳

一物四価

アンナはショールを取り、帽子を脱ごうとしたが、そのひょうしに、カールしている黒髪の一束に帽子をひっかけ、頭を振って、髪を放した。(上巻、p.141)*1

<<感想>>

この記事を書いている現在、当ブログでは20世紀の作品ばかりを紹介している。

そのため、ロシア文学のカテゴリをクリックしても、そこには『罪と罰』もなければ、『外套』もない。

これではせっかくこんなインターネットの辺境の地を訪ねてくれたお客様に失礼だ。

そこで、これから少しずつ、過去に読んだ傑作群の感想も書き綴っていきたいと思う。

その第一弾として取り上げたいのは、『アンナ・カレーニナ』だ。

 

さて、当ブログでは敢えて、紹介している各作品の優れている点を捉えて、「プロット」「思想」「文体」の3つのカテゴリに分類している。

分類の趣旨については、過去の記事で触れた。そして、本作『アンナ・カレーニナ』をどのカテゴリに放り込むかは、そのとき以来からの宿題となっていた。

 

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

 

*1:過去何人かの映画監督と、何万人かの読者に忘れ去られているが、アンナは、黒髪で、巻き毛だ。

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1-12①『アルトゥーロの島』エルサ・モランテ/中山エツコ訳

Oh Freud nicht diese töne!

少なくとも、その当時夢に彼女があらわれたことはぼくの記憶にない。

そのころぼくは、『千夜一夜物語』のような夢を見ていた。空を飛ぶ夢!何千もの硬貨を群衆に投げる気前のよい紳士になった夢!(p.251)

<<感想>>

今回は他の作品の引用から。

いつもと同じように、言っておきたい、いつもと同じように、ウィーンの代表団は招待されていないと。((『キング、クイーン、ジャック』「英語版への序文」より、新潮社版p.429))

いっそのことこの引用だけで今回の感想は終わりにしようかとも思った。

 

ナボコフのいう「ウィーンの代表団」とは、もちろんフロイト(派)のことを指す。

毛嫌いしていたのは、作品を精神分析的に批評する行為なり、作家を精神分析する行為ゆえだろう。

これは、私が本作との関係で「招待していない」と思うのとは少し違う。

 

私が言いたいのは、フロイトの作った物語・神話のヴァリエーションを読まされるのはもういい加減ウンザリ、飽き飽きだということだ。

 

昔、心理学の授業で習ったところによると、フロイトの業績に関しては、心理学の世界の内部でも、功罪の「罪」の部分にスポットが当てられることもあるようだ*1

しかし、私に言わせれば、フロイトが殺したのは父親ではなく、後の物語解釈の独創性と物語創作の独創性であり、それ故に罪を負うべきだ。

 

今日、"フロイト"という単語を出さずに、ソポクレスを批評することが果たして可能だろうか。「フロイトをいったん忘れて読みましょう」という言及も含めて考えれば、これは実に不可能に近い*2

 

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)

 

*1:『抑圧された記憶の神話』という書籍が課題図書だった。この本に対する反批判もあるようだが、これは私の関心とは異なる。

*2:たとえば、有名な千夜千冊は、まさにこの形式でフロイトに言及している。参照先リンク

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『キング、クイーン、ジャック』ウラジーミル・ナボコフ/諫早勇一訳

探し物は何ですか 

だから実際には、あの朝フランツはホテルのベッドで本当は目を覚まさずに、新しい夢の層に移っただけだったのかもしれない。(p.178)

<<感想>> 

もし、ナボコフという作家に興味を持って、読んでみようかな、と思っている方がこの記事をご覧になっているのであれば、今日の記事はそんな気持ちを萎えさせること請け合いだ。

 

ナボコフを読むのは本当に苦労をさせられる。

よく引用されるように、ナボコフ自身、「ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ」*1と主張して、読者に再読を要求している。

 

本作も、初読のときはまるでひたすら相手のサーブが返せないテニスをしているような気持ちになった。だが、ただ黙ってベースラインに立っていたわけではない。初読の読書は、再読に備え、相手の球筋をじっくりと見極めるときだ。

初読のときに気になったナボコフの球筋を挙げると、ざっと次のとおりだ。

 

まずはボヴァリー夫人アンナ・カレーニナだ。

主人公の一人、二十歳の若者フランツは、母の従兄である経営者ドライヤーを頼って上京する。ドライヤーの年下の妻、三十四歳になるマルタは、愛に飢え、やがてフランツと不倫関係になり、ドライヤーの殺害を画策する。

こんなプロットの本作からは、当然この二作品が想起される。

 

お次は、「鍵」のイメージだ。

13章構成の本作において、「鍵」という単語がやたらと登場する。それも、特定の鍵ではなく、さまざまな場面でさまざまな「鍵」が、物理的な対象として、あるいは比喩として登場する。

ナボコフで「鍵」といえば、センチメンタル・ジャーニーあたりがヒントだろうか・・・。

 

当然、「トランプ」のイメージも忘れられない。

表題からして『キング、クイーン、ジャック』だし、本文中にもトランプの比喩は数回登場する。ロシア文学でトランプといえば、当然スペードの女王を読み返さなくてはなるまい。

 

スペードの女王だけでなく、『青銅の騎士』もお招きしよう。

ドライヤーとマルタの家のライティングデスクの上には、ちゃっかりとそのものずばり青銅の騎士の像が置かれている(本作には二回登場する。)

 

商品や衣類が擬人化されて動きだしているかのように描写されるシーンは、『鼻』『外套』からの着想だろうか?このあたりもチェックが必要だ。

 

この他にも、本作品には頻出するライトモチーフが色々とある。首と胴体が切り離されるイメージ、タバコ・葉巻・その煙、時計、霧(とくにマルタに帰せられる)などがそうだ。

 

さて、ここまで確認して、さぁ再読!というわけにはまだいかない。

ボヴァリー夫人アンナ・カレーニナスペードの女王の気になった箇所を読み返すのが先だ。ついでに、『文学講義』の中のフロベール論、トルストイ論も読む。これを読みながら、手元に無かったセンチメンタル・ジャーニーの注文もしなければならない。残念ながらHSJMだったので、大枚はたいてマケプレで購入だ。

『青銅の騎士』も読み直して、準備完了。

 

ここからが本当の読書のはじまりだ。

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ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

 

*1:『文学講義 上』河出文庫版、p.57

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