ウラジミールの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

『ロビンソン・クルーソー』デフォー/平井正穂訳

物語の命脈

それからもう一つ面白いことは、三人しか臣民がいないのに、三人とも宗派がちがっていることであった。従者のフライデイはプロテスタント、その父は異教徒で食人種、スペイン人はカトリックだった。しかし、ついでながら、私は自分の全領土を通じて信教の自由を許していた。

<<感想>>

思えばデフォーも不幸な作家である。私はかねて、「テキストは読者のもの、作者から強奪せよ」という立場だ。そうは言っても、デフォーほどテキストを強奪され、作品を凌辱され続けてきた作家はいないだろう。代表的な下手人はどちらもヒゲ紳士だ(下手人1下手人2)。

小説の登場人物から、社会科学的な命題を例証しようなどということは馬鹿げている。所詮彼らの、あるいは当時の社会科学の厳密性は、散文的なレベルに過ぎなかったのだろう。昨今では、文化人類学比較文化学といった人々のおもちゃになっている。

さりとて、文学の世界での評判も芳しいとはいえず、小説というに値しないとの烙印を押されている。

ロビンソン・クルーソー』は近代小説のまさに一歩手前まできていたが、そこになにか物足りないものがあるとすれば、性格造形と心理描写であったろう。これを完成し、正真正銘の小説を確立したのはリチャードソン。(『イギリス文学史入門』p.88)

そこで今回は敢えて、本作に見られるデフォーの意図、眼目を考えてみたい。

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『イギリス文学史入門』川崎寿彦著

歴史のお勉強

古典時代から文学とは、有用性(use)を娯楽性(delight)でくるむものとみなす考え方が支配的であったが、市民社会はこの考え方を強めこそすれ、弱めることはなかった。(p.85)

小説は市民階級のためのジャンルである。・・・そして十八世紀をつうじてイギリスの市民階級が成長し、家庭での余暇が増し、字の読める階層がひろがるにつれて、小説というジャンルは根を深く降ろし、枝葉を茂らせていったのである。(p.129)

<<感想>>

本来であれば、次は1-07『ハワーズ・エンド』E・M・フォースターの書評が来るはずである。しかし、ここに来て、ここまで殆どイギリス文学に親しんでこなかったことに気付いた。

当ブログの書評を一つか二つかお読みいただいた方であれば、私が文学史を重視していることをご理解していただいていると思う。それは、文学史全体を丸ごと一書の作品のように捉えているからだ。

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1-06②『戦争の悲しみ』バオ・ニン/井川一久訳

翻訳の悲しみ

キエンは自分の精神の復活、心理的活性の回復を感じた。それは過去への復活だった。過去へ、さらに過去へ―彼の心は過去への溯航距離を日ごとに伸ばすだろう。彼の脳裡に立ち現れる過去の事物と人間の連鎖の中で、彼の精神は絶えず復活を繰り返すだろう。キエンは新たな人生の道を見出したように思った。戦争の悲しみによって消し去られた青春は、その新たな、過去への人生の途上で蘇るかもしれなかった。(p.275)

<<感想>>

想像は良い方向に裏切られた。

戦争モノ、というと、外国映画にありがちな陳腐な戦記モノか、より悪くすると、ひたすらに残虐シーンばかりを並べ立てた反戦モノか、といった印象があったからだ。

この点著者のバオ・ニンはそのどちらにも陥ることなく、見事にベトナム戦争という主題を文学作品に昇華することに成功している。

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注釈について

世の中は桃とりんごでできている

注釈が好きだ!

割注*1も、脚注*2も、後注*3もみんな大好きだ!

「14へ行け」*4などと言われるがまま、あっちへこっちへ行ったりきたり。そんなゲームブックみたいな読書も大好きだ。

本文などは注釈の前に平伏すがいい。そう、ナボコフ先生による『エヴゲーニイ・オネーギン』のように、本文を凌駕してしまえばいいのだ。

断言しよう。世界は注釈できている。

イスラム世界は、宗教と法とが一体となっている。宗教とはクルアーンであり、クルアーンハディースにより注解され、その外側にはイジュマーが、さらにその外側にはキヤースがあると言われる*5

日本法もそうだ。一か条の条文に、夥しい判例や学説が積み重ねられ、社会は少しずつ時を刻んでいく。その集積である書物コンメンタール」の言葉は、ドイツ語の「注釈」に由来する。

そう、注釈とは、人間の知性と文学史の進歩と深化の歴史そのものである。

注釈の量こそが、翻訳者の勤勉さと、出版社の誠実さと、書物の価値とを決定づけるのである! 

債権各論―平成16年民法現代語化 (1) (別冊法学セミナー―基本法コンメンタール (No.186))