ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『モンテ・クリスト伯』アレクサンドル・デュマ/山内義雄訳

モンテ・クリスト・ナンバー1

  「学ぶことと知ることとはべつだ。世の中には、物識りと学者とのふた色があってな。物識りをつくるものは記憶であり、学者をつくるものは哲学なのだ。」

「ではその哲学が習えましょうか?」

「哲学は習えぬ。哲学とは、学問の用を知っている天才のみにゆるされるあらゆる学問の総和なのだ。哲学とは、輝きわたる雲だ。キリストが天に昇ったのも、つまりこの雲に足をかけたからのことなのだ。」((一)巻p.370)

≪感想≫

全集買ったはいいが、散発的に届くだけでなかなか全部が揃わなかった。

結局第2集はキャンセルになってしまった。

全部揃うまで退屈だから読んでいたのが本作。

 

私にとっての本作は、なんといっても、なにはなくても、なにはともあれ、そう「葉巻」である!以下は葉巻好きには常識でも、文学好きにはあまり有名でない逸話である。

現在、世界で最も有名といわれている葉巻の銘柄(ブランド)は、「モンテクリスト」という。もちろん、本作にちなんでのことである。命名は、原著刊行から91年後、1935年のことである。

当時、葉巻工場にはレクトールといわれる朗読係がいたという。レクトールの役目は、作業中の葉巻職人たちが退屈をしないように、物語を朗読すること。そんな葉巻職人たちの一番のお気に入りがこの「モンテ・クリスト伯」だったのが命名の由来のようだ。

 

本作の作中にも葉巻はしょっちゅう登場する。モンテ・クリスト伯爵になって絢爛豪華な暮らしを送るエドモン・ダンテスが、来客に振る舞う富のキーアイテムが「ハバナ産の葉巻」である。私はまるで作中のアルベール君のように、垂涎の思いでこの下りを読んだ。単に豪華な食事や、それこそポンパドゥール夫人よろしくワインを愛でてもよさそうなものだが、ここで葉巻を振る舞うのも実はミソの一つである。

本作を彩る歴史的な背景の一つとして、19世紀フランスにおける王党派とボナパルト派の対立がある。ダンテスが投獄されるのも、はからずもボナパルト派の間諜となったことによる。ナポレオン・ボナパルトが後世に与えた影響は多岐にわたるが、実は葉巻もその一つである。そもそもフランスに葉巻が広まったのは、ナポレオンがスペイン独立戦争に際して葉巻を持ち帰ったためといわれている。そして、ナポレオン自身も葉巻を愛した。そう、葉巻はボナパルト派の象徴なのである(ちなみに王党派の象徴は「嗅ぎたばこ」である。)。

 

 嫌煙派の人には申し訳ないが、本作を愛するのなら、葉巻の「モンテクリスト」もぜひ味わってもらいたい。葉巻好きには、普段はたばこ(一般的な紙巻たばこのこと)を吸わないという人も多くいるので、ぜひお試しあれ。

 

脱線はこのくらいにして、本作の感想。

やはり本作は、「偉大な大衆小説」といった評価が正当だろう。

いやがおうにでも読者を強烈に引き込むプロット力には恐れ入る。

ナボコフ先生的にはきっと、こうした読書が許されるのはきっと小学生までである。

自分と作中人物とを同化させたり、出来の悪い冒険物語に夢中になったりするのが許されるのは、子供たちだけだ。『ナボコフの文学講義 上』(河出文庫、p.354)

漫画を読んでいると、作中人物が「説明的なセリフだな」などと自己言及的な突っ込みをいれるシーンを目にするが、まさにデュマはこの「説明的なセリフ」の嚆矢ではなかろうか。極力会話文中心で文章を繋いでいくスタイル。まったく違う分野だが、私は黒沢映画の「隠し砦の三悪人」のテンポを思い出した。本作と同様、現代の大衆物語の範たる偉大な作品である。そういえば黒沢は、ダングラールが受ける拷問(?)シーンを別の映画で直接引用してたっけ。

 

それにしても、ブックリストやマイベストなどを掲げる人の中に、刺激的だが凡庸な本作と、退屈だが偉大なあの『ボヴァリー夫人』とを同時に列挙するのを見ることがある。

しかし私の読みでは、両作品まさに対極の存在である。同じ19世紀フランス文学のカテゴリの中で、類似点は売上くらいではなかろうか。この両作品のどちらを愛するかで、ハバツが決まるといっても過言ではない。

ボヴァリー党の私としては、モンテクリストは焚きしめて、その香りを味わうことにしようと思う。

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆

 

 

モンテ・クリスト伯 7冊美装ケースセット (岩波文庫)
 
 ≪背景≫

1844年-発表。舞台は1815年の百日天下の前史に始まる。復古王政期を経て、物語中盤以降はオルレアン期に終わる。

同時代人はバルザックやメリメ。メリメの『カルメン』が1845年の発表である。

前世代は、むしろ散文ではなく詩の時代か。ラマルチーヌやミュッセが活躍した頃である。

本作の時代背景で重要なのは、文学史というよりも歴史の方であろう。

本作がかかれたのは、ブルジョワ王朝のオルレアン期であり、デュマ自身もオルレアン公の庇護を受けた。自由な大衆文化が花開いた頃といっていいだろう。

しかし、本作で凱歌を挙げたボナパルティストが、後にそのオルレアン朝を打倒し、第二帝政に突入していくのは歴史の皮肉だろうか。

≪概要≫

 復讐譚の王道である。大衆向けの連載作品として、会話文中心の文章を特徴とする。

全体は117の章に分かれているが、その上の括りはない。各章には見出しが付されているが、まったく同名の見出しが付されている例もある。

作品中の年代が比較的詳しく書かれており、その時間軸に従えば、おおよそ4部か5部程度にはわけられそうである。

≪本のつくり≫

訳文には若干の古さを感じることもあった。

しかし、おそらくは原文からそうであろう圧倒的な分かりやすさ、読みやすさのため、若い読者も抵抗なく読み進めることができそうである。

具体的な例は失念したが、日本文化固有の名詞に訳出している箇所が数か所あり、若干興ざめであった。

訳注は詩句の直後にカッコ書きで挿入されるスタイル。量は必要にして十分といえそう。

若干残念なのは「美装ケース」である。せっかくセットで買ったのに、むさいおっさんの顔写真一枚で終わりって・・・。『ドン・キホーテ』のケースはよかったのに。

経験があるので慎重に取り扱ったが、実はこのケースは結構脆いのでご注意を。

 

 

 

1-01『オン・ザ・ロード』ジャック・ケルアック/青山南訳

カウンター・カルチャーの「王道」

とつぜん、気がつくとタイムズ・スクエアだった。アメリカ大陸をぐるりと八〇〇〇マイル(12785km)まわって、タイムズ・スクエアに戻ってきていた。ちょうどラッシュアワー時で、ぼくの無邪気な路上の目に、ドル札めざして何百万人もがひしめきあうすさまじい狂気とすごいはったりのニューヨークが飛び込んできた―ひっつかむ、奪う、与える、溜め息をつく、死ぬ、そしてロングアイランド・シティの彼方のろくでもない墓場のような街のどこかに埋葬される。(p.148)

≪感想≫

全30冊の1冊目にして、いきなりの鬼門。

なぜなら、どうもアメリカ文学に対して、水が合わない思いを抱いているからである。

でも、全冊買ったのは、自分からチョイスすることのなかったであろう作品を読むことに魅力を感じたから。予断を排して読み進める。

 

結果、本書には共感ができなかった。読書の目的は共感ではないけれど。

序盤を読み進めているうちには、自分が歳をとって、すっかり「タイムズ・スクエアの住人」になりきってしまったのか思い込み、すっかり落ち込んだ。

 いや違う。そもそも幾分か無軌道だった若い頃でも、きっと共感はできなかった。

そう、本書の帯の惹句には「不滅の青春の書」とあるが、そうではないんだ。本書は「古き悪しき青春の書」か、「過ぎ去りし世代の青春の書」でしかありえない。

先般、ボブディランがノーベル文学賞を受賞した。ボブディラン自身も本書に多大な影響を受けた一人というが、受賞時のディランの態度に関する騒動と、それに快哉を叫ぶオジイサン達にどことなく違和感を覚えた。

 本書の若者たちは、エスタブリッシュメントたちの価値観に乗り切れないが、結局はお定まりのセックス、ドラッグ、音楽、そしてスピードに埋没していく。

こうした若者たちは、今の世の中にだって一定程度はいるだろうし、むしろ本書以降極めて王道的な「グレ方」でさえある。

しかし、90年代に多感な頃を過ごした酒鬼薔薇君世代の私には、どうにもこうした価値観は、古臭い、ともするとイケてないものに映る。

実際、パリピって言葉だって、「リア充」と同じで、どことなく揶揄の色彩を含んでいる。しかも、この言葉は、エスタブリッシュメントからの異物規定の語というよりは、どちらかというと若者言葉のはずだ。つまり、いまの若者たちだって、パリピな生き方を自分たちの世代のイケてる価値観として受け入れていないのだ。

私は社会学者ではないから、じゃあわれわれ世代のカウンター・カルチャーが何なのかはピンとこない。ただ私の実感としては、15歳児にバイクを盗まれる人の悲しみや、夜の校舎で壊された窓ガラスを補修する人たちの怒りを恐れる、より内向的で、より陰鬱なカルチャーだと思う。

少なくとも私にとっては、本書よりは『地下室の手記』のがよっぽど青春の書だ。

ただ、本書が20世紀という時代の一つの断面であることは間違いなさそうだから、きっとこのチョイスは間違っていない。

本書を手に取る人は、本書に代表される価値観との距離によって、少し自分の輪郭をはっきりとさせることができそうである。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆☆

 

オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)

オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)

 
 ≪背景≫

1957年発表。舞台は1940年代のアメリカ。

ティファニーで朝食を』が1958年だから、作者ケルアックはカポーティの同時代人であり、フィッツジェラルドヘミングウェイの後続の世代。

オン・ザ・ロード』は"ビート・ジェネレーション"の代表的著作と言われているから、その意味でも"ジャズエイジ"のフィッツジェラルドの後続にあたる。

 ≪概要≫

物語はアメリカ版弥次さん喜多さんである。

当世風にいうとパリピであるディーン(弥次さん)とサル(語り手、喜多さん)との旅情記である。

構成は5部構成。それぞれ複数の章立てから成り、各部各章に題は付されていない。

第1部から第4部までは、目的地と参加メンバーを異にする4つの旅のお話である。

第1部14章:NY→NYの大陸一周

第2部11章:NY→フリスコ(サンフランシスコ)

第3部11章:フリスコ→NY

第4部6章:NY→メキシコシティ

第5部は後日譚といった体で、章立てがなく、数ページで終わる。

≪本のつくり≫

訳文は自然であり、違和感なく読み進めることができた。

特に物語の中で重要なキーワード"ビート"については、訳語・訳文にカタカナルビを振る形式で原語がその変化形であることが示されており、わかりやすい。

訳注は豊富。巻頭にアメリカの地図と、おおよその旅程図が示されているのがよかった。アメリカの地理によほど明るくない限り、こうした配慮はありがたい。

 

 

このブログのテーマ

念願かなって作り付けの本棚(家付き)を手に入れた。

フローベール(フ3-1)にナボコフ(ナ1ー2)が寄り添ったのに、妻が「いいね!」と言ってくれなかったから今日は本棚記念日じゃない。

 

腹いせに、これも念願だった池澤夏樹=個人編集 世界文学全集を買ってきた。

もちろん全部。

 

 

本と向き合ったときのその煌めきが零れ落ち、いつか霞の向こうに消えてしまうのが勿体ないから、せめてブログを書くことにした。

 

せっかくだから、第1集の1巻から順番に読むことにする。

きっとたくさん寄り道するだろう。