ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

1-06①『暗夜』残雪/近藤直子訳

 純粋理性批判

あのときはついておらず、風も通さぬ麻布の蚊帳のなかで汗をかきっぱなし、ひと晩じゅう真っ暗な坑道の悪夢のなかで掘っていた。そのときぼくのコオロギの王を失ってしまったのだ。そいつはぼくのポケットから跳び出して坑道の溝に跳びこんだきり、永遠に消え失せた。翌日家に飛んで帰ると、果たしてコオロギは甕からいなくなっていた。(「暗夜」より、p.129-) 

<<感想>>

私はこの手の作品が苦手だ。この手の、というのを残雪(著者名である、念のため)を読んだことのない人にもわかるようにいうと、ようは「カフカ的」な作品、あるいは誤解を恐れずにいえば、寓意のように読める物語、という趣旨である。

苦手というのと嫌いというのとは少し 違って、とうのカフカはどちらかというと好きだけれどやはり苦手である。何が苦手かというと、こういう作品を論じたり、解釈したりするのが苦手なのだ。

ある一定の解釈を示した瞬間に証明責任を負わされそうな被害妄想に陥る。或いは、そもそも、当の作者が込めたのかもしれないあるべき意味と答え合わせをしようとする意識が苦手なのだ。

文学はなぞなぞクイズではないし、プラトンが掘った洞窟でもない。

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『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』ウラジーミル・ナボコフ/富士川義之訳

セバスチャン・ナイトは私だ

きみと一緒の生活はすばらしかった―そしてぼくがすばらしいと言うとき、ぼくは鳩や百合の花、そして天鵞絨(ヴェルヴェット)、さらにその単語のあの柔らかなVと長く引き伸ばしたlの音に合わせて反り上がったきみの舌の反り具合のことを言っているのです。ぼくらの生活は頭韻的でした。(p.161)

Life with you was lovely - and when I say lovely, I mean doves and lilies, and vellvet, and that soft pink "v" in the middle and the way your tongue curved up to the long, lingering "l". Our life together was alliterative...(PENGUIN MODERN CLASSICS,p.98)

<<感想>>

本作の語り手は「セバスチャン・ナイト」の異母弟である。

セバスチャン・ナイトは、夭折した小説家であり、どうも語り手はその伝記を書こうとしているらしい。そして、この『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』こそが、その伝記そのもののようだ。

語り手はセバスチャンと交流のあった人物などから取材を進めていく。また、セバスチャンが書いたとされる作中作からの引用を行う。その取材と引用によって、モザイク式に、少しずつ、セバスチャンの年譜やその作中作の概要が明らかになっていく。そこでは語り手の辿る道と、これらの作中作とが次第に混淆してくる。

ざっとまとめると、本作のプロットは大よそ以上のような仕掛けになっている。

しかし、本作において重要なのはプロットではない。それは作品中で展開される文学論からも、『文学講義』などで披歴されるナボコフ自身の文学観からも明らかだ。

本作において重要なのは、この入れ子上になった技巧的なプロットの上に展開される、素晴らしくも美しいその細部にある。

文学はまずおもむろに千切ったり、裂いたり、潰したりしてから―その愛らしい生臭さを掌のくぼみに嗅ぎつつ、口に入れてよく噛み、舌の上にころがしてじっくり味わうことだ。(『ロシア文学講義 上』河出文庫、p.241)

『文学講義』は、いつでもナボコフ読解のための攻略本である。そのため、以下では『文学講義』ばりに、本作の細部について箇条書き的に記してみる。いわゆるネタバレが本作の価値を貶めることは一切ないが、お嫌いな人はどうぞ続きを読まないようにお願いします。

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1-05『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ/水野忠夫訳

ゴーゴリの二の舞

「どうか証明書を見せてください」と女は言った。

「何を言うのです、結局、そんなことは滑稽なものです」とコロヴィエフは譲らなかった。「作家かどうかを決めるのは証明書なんかではけっしてなくて、書くもの次第なのです!・・・」(p.524)

<<感想>>

作家という人たちは、自身の作品の中に他者の作品を登場させたがる。

例えば、みんな大好き村上春樹も、『ノルウェイの森』の中では(ハルキストの誰もが読んでいない)『魔の山』を登場させる。遠い昔のことだからよく覚えていないけれど、『風立ちぬ』も出てきたっけか。その『風立ちぬ』の中では、書名も作者名もでてきはしないが、『マルテの手記』の一節とほとんど同じの長いパラグラフが登場したりする。これは小説家に限られず、漫画『ナニワ金融道』の主人公の部屋には、作者が敬愛するドストエフスキーの『罪と罰』が描かれていたりする。

 

こうした引用は、先達への尊敬の意の表明のためなのか、読んでいるアピールのためなのか、後世の批評家のための仄めかしのためなのか。ただ、作家たちの心中を想像するのなら、ある種のプレッシャーも感じるはずである。それは、偉大な先達の作品を読み、消化し、あるいは引受けた上で自身の作品が書かれていることの表明に他ならないからだ。こうして小説家たちは、過去の名作という重荷を背負い、文学史の階段をまた一歩登っていくのだろう。*1

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

 

*1:私が、『悲しみよこんにちは』に「文学史がない」と言ったのはこの意味においてである。

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1-04③『悲しみよ こんにちは』フランソワーズ・サガン/朝吹登水子訳

プルーストはお好き?

<<感想>>

ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私に蔽いかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。(p.456)

再読。書棚にある文庫版の奥付を見たところ、どうやら初読時はサガンが本作を執筆したのと同じ19歳の頃だったようだ。同い年、というところからくる嫉妬心や敵愾心のようなものがなくなり、素直に読めたように思える。読む前から☆☆だな!決めつけていたが、☆☆☆にしようか少し悩んだ。

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