時間よ止まれ
諸行は無常であり、すべては変わりゆくが、しかしことばは残り、絵も残るのだ。(p.230)
<<感想>>
ヴァージニア・ウルフというと、付きまとって離れないいくつかのイメージがある。
曰く、「モダニズムの旗手」だとか、「意識の流れ」を用いた代表的作家だとか言われて、ジョイスやプルーストとひとまとめに語られたりする。
あるいは、本作『灯台へ』は、岩波文庫版では1冊足らずのさして長くもない作品なのに、やたらと挫折者が多い印象もある。
そこで今回は、ウルフのこうしたイメージ先行の部分を、私なりに解きほぐしてみたい。
まず指摘したいのが、『灯台へ』は新しいだけではなく、きわめて伝統的な部分も持ち合わせた作品だという点だ。
さしずめ、新しそうで新しくない、少し新しい小説といったところだ。
よく、フランスの小説が独立した個人である登場人物の内面の描写に力点があるのに対して、イギリスの小説は、社会や社交風俗の中における人物の描写に力点があるといわれる。
当ブログで取り上げた中では、ジェイン・オースティン【過去記事】も、ジョージ・エリオット【過去記事】も、E・Mフォースター【過去記事】さえも、この例にしっかりあてはまる*1。
本作もその伝統をしっかりと受け継ぎ、複雑な人間関係の波に翻弄される登場人物たちが、精妙に活写されている。
ウルフが新しかったのは、これを十年の歳月で隔てられた僅か二日の物語で表現したところだ。上に挙げたどの作品も、作中では多くの時が消費され、そして結婚や出産、死といった、大きな出来事が登場人物たちに波紋を生じさせる。
ところが『灯台へ』の二日間では、僅かに婚約話こそあれど、結婚も、出産も、死もない。登場人物たちの心を波立たせるのは、灯台行きの話が持ち上がっては消えることや、会食者の一人がスープをおかわりしたことなど、ごくごく平凡事に過ぎない。
それにもかかわらず、これを一個の物語として、あるいは社交風俗の描写として成立させたのが、ウルフ独特の文体なのである。逆に言えば、文体があって作品があるのではなく、文体はあくまで作品のために要請されたに過ぎない。
そして、その文体の要諦は、「意識の流れ」と呼ばれる部分よりも、まずもって、これまでの作家が鳥の目で人々の心理を捉えていたのに対し、これを蟻の目で捉えた点だ。
うちの人、堂々たる貫禄を見せていることでしょう……と思いきや、それどころか!当の人は顔をくしゃくしゃにゆがめ、すごいしかめ面をして、怒りで真っ赤になっているではないか。いったい、なにをいきり立っているの?夫人は頭をかかえた。なにがいけないというの?たんにオーガスタスさんがスープのおかわりを要求した。それだけのことでしょう。しかしスープからまた始めるなど、考えられん、言語道断だ(ということを、夫はテーブル越しに無言で伝えてきた)。(p.122)
これは先にあげた会食中のシーンだが、この「スープおかわり騒動」だけで、このあとたっぷり20行は夫妻の心中が描写されることになる。
灯台へ/サルガッソーの広い海 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-1)
- 作者: ヴァージニア・ウルフ,ジーン・リース,鴻巣友季子,小沢瑞穂
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/01/17
- メディア: 単行本
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*1:ウルフお気に入りのジョージ・エリオット『ミドルマーチ』は、しれっと『灯台へ』の中にも登場する。「・・・うっかり隣に座ったらジョージ・エリオットの話なんかされて、震えあがったものだ。だって、『ミドルマーチ』の第三巻は列車に忘れてきたから、結末は知らないままだった。」(p.126)