ヘッセじゃないほうのクヌルプ
「唯一の出口だよ」と彼は言った。「ぼくはゲームを放棄する」(p.260)
<<感想>>
「かまいたちの夜」というテレビゲームをご存知だろうか。
もとは確かスーパーファミコンのソフトとして発売されたのだと思う。
ゲームなど知らんという方のために説明すると、「かまいたちの夜」は、ミステリー小説をゲーム化したもの、いや、スーパーファミコンという機械で読むミステリー小説だったのだ。
次々と文章が画面に表示されていくのだが、テレビゲームだけあって、BGMや背景画像がある。そして、普通の小説との決定的な差異は選択肢が表示されることである。これもご存知の方は限られるかもしれないが、いわゆるゲームブックに似ている。プレイヤー(読者)が選択肢の中から主人公の行動や推理を選び取ることにより、物語は幾筋ものストーリーへと分岐をしていくのである。
ミステリー小説というくらいなのだから、当然殺人事件が起こり、犯人がいる。しかし、大抵のプレイヤーは、初回プレイ時(初読時)には、選択を誤り、犯人の凶行は止まず、ただただ呆然としているうちに、哀れ主人公は恋人もろとも無残にも犯人に殺されてゲームオーバーとなる。
「かまいたちの夜」が面白いのはここからである。当然このゲームは再読されることを前提にしている。プレイヤー(読者)は再プレイ時(再読時)に、誤った選択肢を適切な選択肢に選び替え、少しずつ物語の真相に迫っていくのである。
前置きが長くなったが、ナボコフの読書は、この「かまいたちの夜」に似ている。もちろんナボコフの小説は王道ミステリではないし、作中に選択肢は登場しない。しかし、初読時に完全に置いて行かれること、再読時に初読時の記憶が活きること、これにより少しずつ真相に迫っていくという作業の快楽が、「かまいたちの夜」にそっくりなのである*1。
本作『ディフェンス』も、初読時には全く歯が立たなかった。
この歯が立たなさの原因はおそらく二つある。
一つ目は、ミクロ的な部分。ナボコフの小説の多くに共通するところだが、初読時には意味が取りづらくなるように意図されて書かれている文章が多い。これは、特に各章の冒頭に散見される。
二つ目は、マクロ的な部分。何が書きたかったのか、何を目的として書かれたのか、どのように受け止めれば良いのか、これが全くわからない。『モンテ・クリスト伯』であれば、大掴みとしては「復讐譚」と要約すれば間違ではないだろう。『アンナ・カレーニナ』であれば、「不倫を軸としてさまざまな人間模様を描く」、と要約すれば及第点には達しそうだ。ところが、『ディフェンス』では、チェス小説?ツルゲーネフへのオマージュ?恋愛小説?などと、次々と疑わしい犯人に矛先を向けているうちに、物語はあらぬ方向へと彷徨し、あたかも読者が作者に殺されるが如く、読解に苦しむ幕切れで終わる。
以下では、この二つのわからなさについて、もう一歩踏み込んで考察してみたい。
- 作者: ウラジーミル・ナボコフ,若島正
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/09/19
- メディア: 単行本
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*1:わかりやすいかと思って「かまいたちの夜」で例えたが、ようは死に覚えのゲームならなんにでも似ている。わかる人は、Nethackでも、La-mulanaでも、お好きな死に覚えゲームを思い浮かべて下さい。