ウラジミールの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

作品の分類について

わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼子になるのか、ということ。『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(岩波文庫、p.37)

「彼は「ポルノ」の定義を知らないが、右手に持っているものが確かに「ポルノ」であると知っている。」

引用元が思い出せないが、確かロン・フラーか、ロナルド・ドウォーキンによるものだったと思う。いずれも法哲学者である。

文学についても同様である。しかし、ポルノとは違って(あるいは同様に?)私にとっての文学と、ほかの人にとっての文学は異なるものなのかもしれない。

例えば、桑原武夫大先生(古っ!)は、「・・・すぐれた文学とは、われわれを感動させ、その感動を経験したあとでは、われわれが自分を何か変革されたものとして感ぜずにはおられないようなが文学作品だ、といってよい。」『文学入門』(岩波新書、p.59)などといっている。すなわち、その思想性や、モラリティの新規性を重視しているのようだ*1

他方で、我らがナボコフ先生は、細部しか愛でない。

文学に何を求めるか、これは畢竟読み手の自由であり、その作品のプロットを楽しむ健全な読書を否定する気もない。

私自身は、プロットを楽しむ健全な読書家の時代を経て、ドストエフスキーの思想性に感銘を受け、昨今はもっぱらナボコフ先生に呪われている嫌いがある。

そこで、せっかくだから感想を書くついでに、紹介する作品をこの3つの要素のどれが強いのか、強いてカテゴリーわけをしてみることにした。

 

ふと考えると、『アンナ・カレーニナ』のように、そこそこプロットも面白く、本人はハリネズミのつもり書いたけど、実は狐だったようなケースだと困りそうだ。この楽しい悩みは、『アンナ・カレーニナ』の記事を書くときまで取っておこう。

 

*1:赤と黒』が優れた文学作品であることは疑いなく、『モンテ・クリスト伯』は大衆通俗文学なんですってよ。