ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

1-03『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ/西永良成訳

 重いクンデラ試練の道を

あいかわらず四つん這いになっていたトマーシュは、後ずさりし、体を縮めて、ウワーッと唸りだした。そのクロワッサンのために闘うふりをしてみせたのだ。犬は主人に自分の唸り声で応えた。とうとうやった!それこそ彼らが待っていたことだったのだ!カレーニンが遊びたがっている!カレーニンにはまだ生きる意欲があったのだ!

 その唸り声、それがカレーニンの微笑だった。 (p.336)*1

≪感想≫

再読、いや再々読だろうか。15年ほど前に集英社版で読み、気に入りの本の1つだった。著者の小説論である『カーテン』もわざわざハードカバーで買って読み、『冗談』も岩波版が出れば早速買って読んでいた。そして何を隠そう、本ブログのタイトルも、印象深かった本書第7部「カレーニンの微笑」から拝借している。最初は「ウラジミールの呪い」にしようと思っていた。本を読んでいるといつも、ナボコフならどう読むだろう・・・とふと考えているからだ。ただ、ネガティブワードもどうかというところで、クンデラからこのワードを拝借したのだ。本作には引用をしたくなるような部分が多く、引用箇所には悩んだが、「カレーニンの微笑」の箇所をセレクトした。願わくばナボコフ先生が幸福な唸り声をあげられる素敵な作品に出会えますように。

 

ナボコフ先生といえば、クンデラと意外と共通点が多い。両名ともロシアの共産主義に祖国を追われ、事実上母語を奪われ、亡命作家と呼ばれることも多い。自作の執筆の傍ら、精緻な小説論を展開している。フローベールトルストイを激賞している。特に、クンデラは『カーテン』(集英社、2005年、p30-)の中で、『アンナ・カレーニナ』のアンナの死の場面を紹介するが、その引用の仕方も、解釈・評価も、ナボコフの『ロシア文学講義』と そっくりそのままである。初出が1979年-1985年の『小説の技法』で、直接ナボコフの名前を挙げていることからも、クンデラナボコフの作品を読んでいてもおかしくない。かばかりか、読んでいたと考える方が自然である。

しかし、ナボコフがひたすらに細部を愛でるのに対し、クンデラの小説観はこれとは異なる。クンデラによると、人間の可能的な実存を明らかにすることこそが唯一の小説のモラルだという。

 

でた。「実存」。私はこの言葉に違和感を覚える*2

私が哲学科の学生だった2000年代初頭、同世代の学生たちのサルトルへの関心はほとんどゼロに近かったように思う。日本に生まれた。10歳の頃には冷戦もバブルも終わっていた。オウム事件も見てきた。そんな私(や同級生たち)には、「実存」「実存」いうオジサン方の問題意識はもはや通約不可能である。私(や同級生たち)は、最初から「実存」しかありようがない世界に投げ出されているのだから。

その意味で、本書を「実存小説」などとしてカテゴライズしたり、あるいは賞賛したりするのは珍妙である。私に言わせれば、定食屋で定食が出てきて驚くようなものだ。そりゃ定食屋に行って丼もの(『1984年』とかね)や麺類(『マルテの手記』とか?)が出てくることもあろうが、定食屋で出てくるのは定食である。

そう、平たくいうと、本書は人間の生き様とか、人間のありようとかを主題に据えた、ごく普通の(そしてかなり美味い)「小説」なのである。

 

この言葉以外にも、本書の紹介文や書評には、ニーチェパルメニデスといった思想家の名前が登場し、あるいは「プラハの春」という歴史的事実を背景とする小説だという惹句が躍る。しかし、もしこれから本書を読まれる方がいたら、どうかこうした言葉に惑わされないでほしい。ツマやケンを知らなくても、刺身定食は食べられるのだから。

それよりも、本書を読む前にもし別の本を読んだり、思想に触れたりする余裕があるのであれば、是非とも『アンナ・カレーニナ』とカフカの諸作品(一押しは『判決』)を参照してほしい。『アンナ・カレーニナ』を知らないと明らかに伝わらない比喩もあるし、主人公の一人、サビナの幼年期の描写が、著者のカフカ体験から生まれたのは明らかだ。そして何より、著者自身が自身の小説を「小説史」に位置づけられるのを望んでいるからだ。

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆

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存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)

存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)

 
≪背景≫

1984年発表。物語の開始は1966年頃である。本作の主人公たちは、トマーシュ、テレザ、サビナ、フランツの4名。

プラハの春の1968年が描かれ、その5年後にトマーシュたちは田舎に引っ込む。サビナはプラハの春から4年間ジュネーブで過ごし、パリへ行って3年経った頃にトマーシュの訃報を受け取る。そうすると、トマーシュは1975年には亡くなっている。そして、フランツが<大行進>するカンボジア・ベトナム戦争が1977年である。

従って、おおよそ1966-1977年が物語の舞台となっている。つまり、著者は7年前の出来事を、既に<歴史>として捉えることに成功しているのだ。

≪概要≫

クンデラ定番の7部構成。構成論については訳者解説が詳しいのでここでは触れない。

第1部17章50頁

第2部27章60頁

第3部11章66頁

第4部29章64頁

第5部23章96頁

第6部29章60頁

第7部7章48頁

≪本のつくり≫

せっかく再々読するのに、そのまま読むのも勿体ないので、今度は『小説の技法』で予習してから読んでみた。どころがどっこい、私のその計画とは裏腹に、『小説の技法』を踏まえた本書の読解も、いつも書いている構成の分析も、すべて訳者解説で詳細に論じられている。予備知識がないと若干難解かもしれないが、解説のクオリティは高い。読者であれば知りたくなる、最低限のチェコ知識も解説されている。

また、訳者は原著者とも親交があるようであり、翻訳にも信頼がおける。注釈マニアとしては若干物足りないが、必要な量の注釈は付されている。

千野栄一氏訳の集英社版と、西永良成氏訳の本書とを両方読んだが、本書のが圧倒的に好みであるし、初読者には強く本書を勧める。

なにせ、「女のデルタ」という噴飯ものの表現がなくなっただけでも大満足だ。

外国語で卑猥な言葉をもちいても、そのようなものとしては感じられない。訛りのある口調で発せられると、卑猥な言葉は喜劇的になるのだ。(『小説の技法』岩波文庫版、p198)

 

 

*1:トマーシュは主人公の一人、カレーニンはその飼い犬(雌)である。

*2:なお、この言葉にピンとこないひとは、「ありよう」もしくは「人のありよう」と読み替えて読むと、少なくとも本書はスムーズに読めるはずだ。。