ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

1-04③『悲しみよ こんにちは』フランソワーズ・サガン/朝吹登水子訳

プルーストはお好き?

<<感想>>

ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私に蔽いかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。(p.456)

再読。書棚にある文庫版の奥付を見たところ、どうやら初読時はサガンが本作を執筆したのと同じ19歳の頃だったようだ。同い年、というところからくる嫉妬心や敵愾心のようなものがなくなり、素直に読めたように思える。読む前から☆☆だな!決めつけていたが、☆☆☆にしようか少し悩んだ。

本作の魅力はやはり、小品ながら非常に完成度が高い点にあるといえる。

プロットの運び、そこへ至るページ数の配分など、構成がきちんとしており、読者を倦ませない。また、それだけではなく、きらりと光る瑞々しい表現で読者を唸らせてくる。その最たるところはやはり冒頭に引用した本書の書き出しだろう。池澤夏樹氏の解説と同じところを引用するのは気が引けるが、やむをえまい。なお、新潮文庫版の解説によると、著者が一番苦戦したのはこの書き出しだそうだ。

 

サガンの不幸は―おそらくはサガンに限らず小説家の不幸は―、似ても似つかない作中の主人公と同一視されてしまったことだろう。セシルのような小娘には、冒頭の引用のような文章は書けまい。著者の精神分析をするのは好みではないが、サガンはもっとずっと内向的な読者家で、それでいて反抗心を内に秘めたような少女だったのではなかろうか。

 

こうした著者の出自を、池澤夏樹氏は「フランス文化の爛熟」に求めた。ジッド、カミュプルースト、オスカーワイルドらの読書遍歴をもつ少女を生み出した点からいえば確かにそうだ。しかし、著者自身の爛熟には程遠く、やはり本作の背景には「十代の読書」、「十代の読み」が透けてみる。

 

本作は、主人公のセシルが表象する自由・放蕩・反抗のイメージと、セシルの継母候補であるアンヌが表象する秩序・規律・従順のイメージの対立とが軸となっている。先生あなたはか弱き大人の代弁者なのか?的に、主題は明瞭に提示される。そして、先に指摘した通り、プロットも素晴らしく、美しい一文もある。だが小説史はない。

 

本作に欠けている何かが、あるいは本作のようなまとまりを破壊したときに起こる何かが、文学を文学足らしめているものだと思う。ドストエフスキーのように、強烈な思想(と偏った構成)でも良いし、ナボコフ先生のように、偏執狂的な文体(と読みにくい物語)でも良い。文学作品の大海を行く船出の頃に本作に出会った読者は幸福である。しかし、陸地を遠く離れた読者には、既に見た形象しか見いだせないと思う。

 

最後に、本作をセレクトしたことの妥当性について一言。新潮文庫版が爆売れしていることをふまえ、なにゆえ本作なぞを採録したのかという批判を目にする。かくいう私もすでに新潮文庫版を持っていた。しかし、二十世紀を中心に世界文学全集を作ろうという企ての中に、本作の席があることに格別の違和感はない。二十世紀はかつてない自由の(そして同時にかつてない屈従の)世紀であったし、女性の世紀でもあった。その意味で本作は実に二十世紀的な作品といってよいだろう。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆☆ 

 <<背景>>

1954年発表。サガンもお気に入りの『失われた時を求めて』が1914-1927年。

サガンとも親交のあったサルトルの「実存主義ヒューマニズムであるか」が1945年である。この作品の場合、他の文学史的な背景を引用する必要がないことがむしろ残念である。ちなみに、エピグラフに掲げられているポール・エリュアールの『直接の生命』は1932年発表のようである。

<<概要>>

2部構成である。

第1部:6章47頁

第2部:12章69頁

第1部で登場人物たちと、その微妙な人間関係とが導入される。

第2部で主人公の少女セシルの、継母候補アンヌに対する奸計が実行に移される。

第2部の方が各章あたりのページ数も短く、スピード感がある。このあたりの緩急も非常に上手い。

<<本の作り>>

新潮文庫版と同じ朝吹登水子訳。なおのことハードカバーで出す必要があったのかというところだが、いま調べたら新潮文庫版は既に河野万里子訳に改訳されているらしい。

朝吹訳は非常にスムーズに読むことができ、違和感はない。

注釈は地名くらいなもので、ほとんどないが、そもそも注釈の必要性に乏しい文章だといえる。解説は朝吹由紀子氏のものが付いているが、こちらよりも折込の池澤夏樹氏の解説が非常に短いがとても素晴らしい。さすがだ。