ゴーゴリの二の舞
「どうか証明書を見せてください」と女は言った。
「何を言うのです、結局、そんなことは滑稽なものです」とコロヴィエフは譲らなかった。「作家かどうかを決めるのは証明書なんかではけっしてなくて、書くもの次第なのです!・・・」(p.524)
<<感想>>
作家という人たちは、自身の作品の中に他者の作品を登場させたがる。
例えば、みんな大好き村上春樹も、『ノルウェイの森』の中では(ハルキストの誰もが読んでいない)『魔の山』を登場させる。遠い昔のことだからよく覚えていないけれど、『風立ちぬ』も出てきたっけか。その『風立ちぬ』の中では、書名も作者名もでてきはしないが、『マルテの手記』の一節とほとんど同じの長いパラグラフが登場したりする。これは小説家に限られず、漫画『ナニワ金融道』の主人公の部屋には、作者が敬愛するドストエフスキーの『罪と罰』が描かれていたりする。
こうした引用は、先達への尊敬の意の表明のためなのか、読んでいるアピールのためなのか、後世の批評家のための仄めかしのためなのか。ただ、作家たちの心中を想像するのなら、ある種のプレッシャーも感じるはずである。それは、偉大な先達の作品を読み、消化し、あるいは引受けた上で自身の作品が書かれていることの表明に他ならないからだ。こうして小説家たちは、過去の名作という重荷を背負い、文学史の階段をまた一歩登っていくのだろう。*1
巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)
- 作者: ミハイル・A・ブルガーコフ,水野忠夫
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/04/11
- メディア: ハードカバー
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ブルガーコフもまた然り、本作で大量のロシア作品を「引用」する。
プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』、『スペードの女王』、『吝嗇の騎士』*2、ゴーゴリ『検察官』、『死せる魂』、レールモントフ、トルストイ『アンナ・カレーニナ』*3、ドストエフスキー*4などなど。ロシア以外からも、シェイクスピア『ハムレット』、ゲーテ『ファウスト』、セルバンテス『ドン・キホーテ』なども登場する。
特に本作の背骨となっているのは、エピグラフにも掲げられているゲーテ『ファウスト』と、ゴーゴリ『死せる魂』だ。そのゴーゴリに関して、我らがナボコフ先生は、次のように論じた。
ロシアの進歩的批評家たちは、・・・物語全体を社会的抗議と受けとった。しかし、この作品はそれよりは遥かに高度な何物かである。(『ロシア文学講義』(河出文庫、p143))
私には、ブルガーコフもまた、ゴーゴリ同様、社会的抗議として受け取られ過ぎているように思える。
本作には、スターリン政権下で弾圧された作者の遺稿であり、死後長いときを経て日の目を見たという成立背景がある。このため、とかくソビエト批判という文脈が取り沙汰されがちである。しかし、当のブルーガコフ自身が、そうしたオーソライズではなく、書かれたものによって判断されることを望んでいたのは、冒頭の引用部分からも明らかだ。
ナボコフは『死せる魂』について、次のようにも論じる。
何かがひどく間違っていて、すべての人間は軽度の狂人であり、自分たちの目には非常に重要と見える仕事に従事している一方、不条理なほど論理的な一つの力が人間たちを空しい仕事に縛りつけている―これがこの物語の本当の「メッセージ」である。(前同、p.143)
本作にも同様のメッセージを見出すことができる。
まず、本作には「契約書」や「証明書」、つまり「人間たちを空しい仕事に縛りつける不条理なほど論理的な力」のモチーフが繰り返し登場する。
例えば、リホジェーエフは、まったく記憶にないにも関わらず、眼前に出された自身の筆跡の契約書に拘束される。
契約書を見せてもらったいまとなっては、これ以上、疑っているような態度をとるのはまったく失礼であろう。(p.121)
警官に詰問されているボソイの書類鞄からは、悪だくみに嵌められた証拠である契約書が忽然と消え去る。
鞄のなかにはなにもなく、リホジェーエフの手紙も、契約書も・・・なかった。・・・「みなさん!」と議長は逆上してどなった。「やつらを捕まえてください!このアパートには悪魔がいるのです!」(p.153)
こうした人間たちから超越した巨匠は、次のような洞察を披歴する。
「書類がなくなれば、人間も存在しなくなります。だからこそ、私も存在していないのです、身分証すら持っていませんので」(p.433)
冒頭の引用部分にクリアに現れるように、本来は実体によって判断されるべきことがらなのに、オーソリティが独り歩き(まるで『外套』のように)する事態を、作者は繰り返し描きだす。
そして、だからこそ、オーソリティという役職(第五代ユダヤ総督、騎士)であり、人間でもあるポンティウス・ピラトゥスは、オーソリティとしての判断と人間としての判断との間に苦悩する。
ブルガーコフがゴーゴリと異なるのは、こうした苦悩・不条理からの解放も描きだした点である。それは、次の場面に端的に表れる。
「おまえは自由だ!自由だ!彼がおまえを待っているのだ!」(p.567)
誰かが巨匠を自由にしたのだ、たったいま、みずから創造した主人公に自由を与えたのと同じように。(p.570)
この場面では、本作の主人公である作家の手によって、作中作の主人公であるポンティウス・ピラトゥスに自由が与えられる。即ち、先に取り上げた苦悩や不条理から人々を解放してくれるものは、創作という営為によることが示されている。
実に文学オタクに刺さりやすいメッセージである。
『巨匠とマルガリータ』が、スターリン圧政下という社会情勢があったからこそ生成されたことは恐らく疑いえない。しかし、その作品の射程は、凡そ「社会」を営む人間一般と、創作という営為それ自体にまで及ぶのではないだろうか。
お気に入り度:☆☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆(露文好きな人向け)
<<背景>>
1928-1940年執筆、完全版は1973年発表。作中年は特定されていないが、ペテルブルグではなくレニングラードであること、ソビエト連邦作家同盟のパロディのような組織が登場することから、1934-1940年頃とみて良さそうだ。
同じウクライナ出身でもあるゴーゴリの『死せる魂』の第1部は1842年発表。第2部は本作同様、死後の発表となる。
ゲーテ『ファウスト』の第1部は1808年、第2部はやはり死後である1833年発表。
亡命を選んだナボコフ先生が1899年生まれ、亡命をしなかったブルガーコフは1891年生まれ、自殺を選んだマヤコフスキーが1893年生まれである。
<<概要>>
物語は2部構成とエピローグ。各部は章で区切られ、章には題が付される。
第1部:1章-18章
第2部:19章-32章
エピローグ
第1部は狂言回しの役どころの<宿なし>イワンを軸に物語が展開する。『アンナ・カレーニナ』でいうところのオブロンスキーだ。イワンの物語と、ヴォランド一党によって不幸な目にあう人々の物語がミルフィーユ状に展開される。そこに時折、ポンティウス・ピラトゥスの物語が挟み込まれる(2章・16章)。なお、2章はヴォランドの語りであるが、16章には語り手がいないため、16章は作中作(巨匠の作品)と考えることができる。試みに第1部の構成をぶっこ抜いてみる。
- イワン
- ピラト
- 被害者:ベルリオーズ
- イワン
- イワン
- イワン
- 被害者:リホジェーエフ
- イワン
- 被害者:ボソイ
- 被害者:ヴァレヌーハ
- イワン
- 被害者:ベンガリスキイ
- イワン
- 被害者:リムスキイ
- イワン
- ピラト
- 被害者:プロホル、ワガニコフスキイ支部の人々、ラーストチキン
- 被害者:ポプラフスキイ、ソーコフ、クジミン教授
第2部でようやく主役のひとり、マルガリータが登場する。すると一転、第二部は終始マルガリータが軸の物語となる。
また、本作は5月の水曜日の夕方に始まることが特定できる。600ページ近い物語は、同じ週の土曜日の夜中までで、わずか4日の物語である。第1部が金曜の午前中まで、第2部が金曜の正午から始まる。
せっかくだから登場人物も整理しよう。
[作家とその周辺]
ベルリオーズ・・・モスクワ作家協会幹部会議長
イワン・・・その指導を受ける詩人
ポプラフスキイ・・・ベルリオーズの叔父
ボソイ・・・ベルリオーズの住むアパートの居住者組合議長
[ヴォランド一党]
ヴォランド・・・見た目は40代、髪はブリュネット、右の目は黒、左の眼は緑色。
コロヴィエフ=ファゴット・・・チェックのジャケット、騎手の帽子、鼻眼鏡
ベゲモート・・・大柄な黒猫、もしくは猫そっくりの男
アザゼッロ・・・燃えるような赤毛、牙を生やし、山高帽に縞のスーツにエナメル靴
ヘルラ・・・裸の魔女
[ヴァリエテ劇場]
リホジェーエフ・・・支配人
リムスキイ・・・経理部長
ヴァレヌーハ・・・総務部長
ベンガリスキイ・・・司会者
ソーコフ・・・ビュッフェ主任
ラーストチキン・・・会計係
プロホル・・・演芸委員会議長
[巨匠とマルガリータたち]
巨匠・・・主人公、精神病院に入院する
マルガリータ・・・その愛人
ナターシャ・・・その小間使い
ニコライ・・・マルガリータの邸宅の1階に住む男
ストラヴィンスキイ・・・巨匠が入院する病院の教授
プラスコーヴィヤ・・・同准医師
<<本の作り>>
翻訳に特別違和感は感じなかった。
しかし、本書は注釈が圧倒的に不足しており、問題だ。
例えば、ブロッケン山という言葉が登場する(p.385)。これには注が付されるが、「ドイツのハルツ山脈にある山。」とだけ書かれておしまいである。なんと不親切な。ブロッケン山は、エピグラフに掲げられる『ファウスト』の舞台であるし、かの有名なヴァルプルギスの夜が行われる地でもある。これがわからないと、なぜブロッケン山が登場するのかの理解ができない。
あるいは、「自分が気絶するか、しないのか、それが問題だ」という文章(p.299)。これも、原語が読めない読者には、果たしてシェイクスピアのかの有名な一文のもじりなのか、そうでないのかの判別がつかない。注で補われてしかるべきだ。