ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

1-06①『暗夜』残雪/近藤直子訳

 純粋理性批判

あのときはついておらず、風も通さぬ麻布の蚊帳のなかで汗をかきっぱなし、ひと晩じゅう真っ暗な坑道の悪夢のなかで掘っていた。そのときぼくのコオロギの王を失ってしまったのだ。そいつはぼくのポケットから跳び出して坑道の溝に跳びこんだきり、永遠に消え失せた。翌日家に飛んで帰ると、果たしてコオロギは甕からいなくなっていた。(「暗夜」より、p.129-) 

<<感想>>

私はこの手の作品が苦手だ。この手の、というのを残雪(著者名である、念のため)を読んだことのない人にもわかるようにいうと、ようは「カフカ的」な作品、あるいは誤解を恐れずにいえば、寓意のように読める物語、という趣旨である。

苦手というのと嫌いというのとは少し 違って、とうのカフカはどちらかというと好きだけれどやはり苦手である。何が苦手かというと、こういう作品を論じたり、解釈したりするのが苦手なのだ。

ある一定の解釈を示した瞬間に証明責任を負わされそうな被害妄想に陥る。或いは、そもそも、当の作者が込めたのかもしれないあるべき意味と答え合わせをしようとする意識が苦手なのだ。

文学はなぞなぞクイズではないし、プラトンが掘った洞窟でもない。

さて、残雪の文体はカフカ的だ。本人も、カフカからの影響を認め、カフカの研究書も著しているようである。そこで、残雪を直接解釈しようとする試みは諦めて、カフカとの違いに論及したい。

 

私は、カフカの物語を、「個人が社会と向き合う物語」だと感じている。ここにいう「社会」というのは、隣人たちで作る社会という生易しいイメージのものではなく、もっと峻烈で苛酷な化け物じみたもので、行政権力と言い換えてもよいかもしれない。「向き合う」も、参画したり(投企したり?)、あるいは批判したりといったニュアンスではなく、対峙したり、曝されたりというニュアンスだ。扱われるモチーフは、ときには城のような直接的な行政権力のモチーフから、父―パターナリズムの語源であり、家族という狭い社会での行政権力のモチーフまで、その変奏は様々だ。

もっと踏み込んでいえば、ハンス・ケルゼン(カフカと2歳差、同じチェコ生まれのユダヤ人であり、ドイツ法学の権威である)に対する嘔吐感だと言いたいが、これについてはカフカの書評をするときにとっておこう。

 

これに対して、残雪の物語は、「個人が個人と向き合う物語」のように感じた。ここにいう「個人」は、社会の中の個人であるかもしれない。しかし、決して社会そのものと向き合っているわけではない。また、残雪の「向き合い」かたは、内奥に沈潜していくイメージだ。

確かに、本書所収の短編「痕」(ヘン)を読んだときなどは、そこにイデオロギー的な読み込みをしたくなりもした。主人公の痕は、むしろ売りで生計を立てる村人であったが、あるとき、むしろを高額で買い取る行商人が現れる。行商人は定期的にやってくるようになり、次第にむしろを売らずとも金を置いていくようになり、痕は堕落していく・・・。

しかし、カフカとは異なり、残雪の作品には、社会的な、行政的な、権力的なモチーフが登場しない。他方で、残雪においては、待つこと、明けない夜、暗闇、夢、睡眠―抗いがたい睡魔と入眠、閉ざされた小空間、無言の敵意などのモチーフが頻出である。

また、カフカにおいては、主人公を通して社会の側を描写することに力点があるのに対して、残雪においては、社会―より正確には単に外界からの刺激・侵襲に対する個人の反応に力点をおいて描かれているように読める。

 

池澤夏樹氏は、本作所収の短編「わたしのあの世界でのこと―友へ」を指して、文革という背景を読み込んだ。『存在の耐えられない軽さ』プラハの春批判、『巨匠とマルガリータ』スターリン批判、そして本作は文革批判。こうした過剰な思想的な読み込みは、文学を思想の婢女とする行いで、浅薄だ。カントによれば、カテゴリーはすべての経験で前提条件らしいが、昭和オジサンたちにとっては、イデオロギーがすべての経験の前提条件なのだろうか?

 

訳者の近藤直子氏は、残雪の小説を、強い理性によって理性を抑え付け、作家の意図や構成を徹底的に排除することによって、作者自身も知らない心の深みから立ち現れる真実の物語であると論ずる。池澤氏の読みとは対照的であり、私はこちらに賛成したい。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

 
<<背景>>

作者は1952年生の中国人女性。本作は1986-2006年発表の7篇の短編を所収。所収作品は20世紀のものが中心なので、当ブログでは20世紀文学に分類した。 

いわゆる文革の時代は、1966-1976年とされている。文芸解放政策によって、作者がカフカに触れたのは1976年頃、カフカの『城』の執筆は1922年である。

<<概要>>

7作の短編を所収。「痕」(ヘン)と「暗夜」は、30頁を超え、一定の長さがある。掲載順は発表年順である。どの作品も部や章に分かれてはいないが、一部の作品には空行やアスタリスクが挟まり、実質的に節を構成しているものがある。

「阿梅、ある太陽の日の愁い」1986

「わたしのあの世界でのこと―友へ」1989

「帰り道」1993

「痕」1994

「不思議な木の家」1998

「世界の桃源」1999

「暗夜」2006

主人公が男性である「痕」、「世界の桃源」は三人称で描写される。「暗夜」は少年の主人公でかつ、一人称「ぼく」で描写される。他の女性が主人公の作品は、いずれも一人称「わたし」で描写される―「ぼく」も「わたし」もどちらも「我wo」だろうが。如何な残雪といえど、成人男性の内面に沈潜するのは困難なのだろうか?

<<本の作り>>

訳文は平易かつ簡明で読みやすい。もともと本作が難しいのは、文章の意味内容ではなく、物語の意味内容である。註はほとんどないが、註を要するようなものもさして登場はしていないように見える。敢えていえば、人名に註をつけてほしかった。ふつうの中国人の感覚で「あだな」にあたるのか、「敬称付」なのか、たんに「人の名前」なのか、中国に明るくないわたしには判断がつかなかった。

感想でも取り上げたとおり、解説はとても参考になった。