世の中は桃とりんごでできている
注釈が好きだ!
「14へ行け」*4などと言われるがまま、あっちへこっちへ行ったりきたり。そんなゲームブックみたいな読書も大好きだ。
本文などは注釈の前に平伏すがいい。そう、ナボコフ先生による『エヴゲーニイ・オネーギン』のように、本文を凌駕してしまえばいいのだ。
断言しよう。世界は注釈できている。
イスラム世界は、宗教と法とが一体となっている。宗教とはクルアーンであり、クルアーンはハディースにより注解され、その外側にはイジュマーが、さらにその外側にはキヤースがあると言われる*5
日本法もそうだ。一か条の条文に、夥しい判例や学説が積み重ねられ、社会は少しずつ時を刻んでいく。その集積である書物「コンメンタール」の言葉は、ドイツ語の「注釈」に由来する。
そう、注釈とは、人間の知性と文学史の進歩と深化の歴史そのものである。
注釈の量こそが、翻訳者の勤勉さと、出版社の誠実さと、書物の価値とを決定づけるのである!