ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

1-06②『戦争の悲しみ』バオ・ニン/井川一久訳

翻訳の悲しみ

キエンは自分の精神の復活、心理的活性の回復を感じた。それは過去への復活だった。過去へ、さらに過去へ―彼の心は過去への溯航距離を日ごとに伸ばすだろう。彼の脳裡に立ち現れる過去の事物と人間の連鎖の中で、彼の精神は絶えず復活を繰り返すだろう。キエンは新たな人生の道を見出したように思った。戦争の悲しみによって消し去られた青春は、その新たな、過去への人生の途上で蘇るかもしれなかった。(p.275)

<<感想>>

想像は良い方向に裏切られた。

戦争モノ、というと、外国映画にありがちな陳腐な戦記モノか、より悪くすると、ひたすらに残虐シーンばかりを並べ立てた反戦モノか、といった印象があったからだ。

この点著者のバオ・ニンはそのどちらにも陥ることなく、見事にベトナム戦争という主題を文学作品に昇華することに成功している。

その成功のカギは、1.多層的な語り―視点の移動、2.複線的な時系列の配置や、3.嗅覚や触覚に訴える情景描写、4.戦闘や暴力それ自体に割かれる分量が意外なほど抑制的であること、にあると思われる。特に重要なのは1.と2.だろう。

 

本書は基本的には主人公のキエンを中心とする三人称視点で進行していく。これが第一の視点である。

主人公キエンは、戦後、軍を退役して物書きになる。キエンが書くこの作中作はどうやら本書と同じく、ベトナム戦争の体験に取材した作品のようであり、「俺」という一人称で記述される。第2章の冒頭、突如文章がこの「俺」人称視点となるが、これはおそらく作中作の記述という趣旨だろう。これが第二の視点だ。

一番驚いたのが、最終章である第8章になって、突然「私」が登場することだ。しかも、この「私=作者」ではないことを示すために、「私」がキエンを知る退役軍人、即ち作中人物であることが強調される。これが第三の視点である。

この他にも、三人称視点のまま中心軸がキエンから、その上階に住む唖の女性に移動することもある。

バオ・ニンは、この作中作というアイテムと、視点移動という技を駆使することにより、本書の記述それ自体を論評し、自己批判し、読解することにより、次々と相対化していくのである。特に第8章は丸々「私」による作中作の批評に充てられており、その意図は明らかである。

 

視点よりもさらに複雑なのが時系列である。本書の現在時は基本的にはキエンが退役後、文筆活動を行っているときである。しかし、その現在時についても、必ずしも時系列に沿って進行をしない。さらに、本書は分量にして半分以上が回想シーンに充てられている。当然回想であるがゆえ、それは作中の時間の流れに沿っては生起しない。また、現在時から、戦後・退役前にキエンが遺骨収集をしている頃に、遺骨に触発されて戦時を回想していたことが回想されることもある。

難読のように聞こえるかもしれないが、読み進める分にはエピソード集のような感覚で、混乱することなく読み進めることが可能である。

バオ・ニンは、こうした複線的な時系列を用いることで、時系列上先に来る事件を物語終盤に配置することと、冒頭にも引用した過去への復活というモチーフを浮かび上がらせることに成功した。

 

面白いのが、こうした複雑な時系列自体や、過去への復活というモチーフについても、先の視点移動というワザによって、鋭い自己批判に晒されることだ。さながら自己批判永遠回帰である。

 

このように論じると、さも私が本書を高く買っているかのように思える。しかし、これらの諸点は、本書が文学の名に値することを証明したに過ぎない。世界にはあるいは過去には、名立たる文学作品がひしめいており、本書がそれらに伍するとまでは感じられない―ましてや世界で十指に入ろうとは・・・

 

冗長な部分があったり、読み進めるうえでの構成が単調だったり、類似した文章が繰り返されたり、ひとことで言えば退屈だ。しかし、それも全て自己批判されているのでその永遠には立ち入らず、超然としておくとする。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆ 

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

 
<<背景>>

1991年発表。作品内の記述から、舞台は1988年以降のベトナムであることが特定できる(p.413と、主人公の40代という年齢から)。

感想中にも書いた通り、本作の大半は回想であり、1965-1975年のベトナム戦争下での事態が記述される。

<<概要>>

8章構成。章の上下の区切りはなく、章題もない。

1章-7章まではほぼ同じ分量だが、第8章は数ページと短く、実質的にエピローグと言ってよい。

感想でも触れたが、本書のキモは第8章だ。これにより本書自体の相対化に成功するとともに、凡庸な読者に対して鋭い警告を発している。

<<本の作り>>

注釈は非常に豊富だ。訳文も平易かつ明瞭だ。とても素晴らしい・・・

と思っていた。しかし、解説を読んでこの 評価は根底から覆された。

 

未知の言語から訳された書物の読書は、外科手術に似ている。

読者=患者は、ひとまずはその専門家たる訳者=医者に全幅の信頼を置くしかない。反対に、信頼がなくては読む/切られることはできない。当の読書=手術の良し悪しも、無知な仔羊には客観的な判断を下す知識はなく、主観的な信頼感の揺らぎで評価が左右される。

その意味で本書は最悪だ。全身麻酔から目覚めた後に、無免許医であることを告げられた気分だ。

問題は3つ挙げられる。1.複線的な時系列がミソである本作を、何のためらいもなく時系列順に要約して解説していること、2.作品と史実とを混淆していること、3.過去に底本を"正した"こと、即ち底本から逸れて訳したことを認めていること。

私はめるくまーる版では、事実関係に限ってそういう誤訳ないし歪曲を原作に照らして極力正したつもりだが、改訳を試みる場合は是非とも原作に忠実な、しかも原作の精神と文学的香気を失しない訳文にしたいと心がけていた。(p.530、解説より、強調は私)

どうやら訳者には現実と虚構の区別が付かないらしい。小説の中にいかなる"事実"があるのだろうか?訳者は存在しないヨンヴィルの天気を調べて、仮に当日大雨であったなら、農事共進会にどしゃ降りの描写を付加するのだろうか?

作者はしばしば「俺」という一人称を使っていて、文章形式も明らかに自伝的である。とはいえ私には、この小説の主人公が作者の分身だと言い切る自信はない。(p.499、本文第8章より)

原著者が、作中人物に作中作をこのように評させることによって、間接的に自身の作品があくまでフィクション―被造物であることを強調しているのに。

私は正しい患者の反応として、ただただ驚愕と怒りと不信を覚えた。調べたところ、どうも訳者はそもそもがジャーナリストで、文学畑の人物ではないようだ。

・・・逆に少し安心した。