ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

『マンスフィールド・パーク』ジェイン・オースティン/中野康司訳

機動戦士オースティン

臆病なファニーから見ると、ミス・クロフォードの乗り方はびっくりするほど上手だった。それから数分後に、ふたりの馬は停止し、エドマンドはミス・クロフォードのそばへ行って何か話しかけ、手綱の使い方を教えるために彼女の手を取った。遠くてよく見えないところは想像力で補ったのだが、ファニーの目にはそう見えた。
<<感想>>

読書感想文は嫌いだった。絵日記は、8月31日に図書館に行って、夏休み中の天気"結果”さえ調べれば、何とか後埋めすることができた。でも読書感想文だけはどうにも原稿用紙が埋まらない。

決して本を読むのが嫌いだったわけではない。むしろ、読書好きな子どもだったように思う。しかし、課題作品を何度読んでも、感想は浮かんでこないのだ。

それが今では誰にも頼まれもしないのに、二進法になった原稿用紙を日々黒く染め上げている。

 

そして、このオースティンの『マンスフィールド・パーク』については、全四十八章中、冒頭の一章を読んだだけで、書きたいことがほとんど決まってしまった。 

マンスフィールド・パーク (ちくま文庫)

マンスフィールド・パーク (ちくま文庫)

 

 

トルストイの『アンナ・カレーニナ』(幸福な家庭は~)や『復活』(春はやっぱり春であった*1)のように、特に印象的な警句で書きだされるというのとは違う。

第一章全体の完成度が見事で、かつ本書におけるオースティンの筆致の美点特質が良く顕れているのだ。(※第一章ではまだ主役級の誰も恋に落ちていない!)

 

新世紀エヴァンゲリオン』を世に送り出した庵野秀明氏は、『機動戦士ガンダム』の第一話の構成・時系列を分解分析し、その完成度に驚かされたという。

本作も『ガンダム』と同じだ。過度に説明的にならずに、読み手を飽きさせず、その先の読解に必要な情報を一度に了解させる。これが隙の無い筆致で見事に描かれている。

 

本書の背表紙では、次のようにストーリー紹介がされている。

虚弱体質で内気な少女ファニーは、准男爵家に引き取られ、叔母のいじめにあいながらもひたすら耐える日々を送っていた。

准男爵家とは、まさに「マンスフィールド・パーク」を所有する家柄であり、准男爵夫人、ファニーの母、そしてファニーをいじめる叔母ノリス夫人が三姉妹という関係にある。

このややこしい関係を導入するために、オースティンは物語の現在時を大きく遡り、ウォード家の三姉妹の結婚譚から描き出す。これにより、主人公の実の両親、後に養父母となる准男爵夫妻、後に主人公をいじめるノリス夫妻との相関関係図を自然に読者に紹介していく。

続いて話は10年後、ノリス夫人と准男爵夫妻とが、貧窮している主人公の両親宅の子どもを引きとる相談をする場面が展開される。これによりオースティンは、まんまと今後の物語の主要舞台、すなわちマンスフィールド・パークに住む准男爵一家の家族構成をも紹介することに成功する。

さらに第一章では、地の文による筆者の評価、会話文による他の登場人物の評価、登場人物の発話自体が読者に与える影響などを巧妙に操り*2、これら主要登場人物の性格造形も済ませてしまう。

ここまで僅か12頁。そして最後、主人公の母、プライス夫人からの手紙を紹介するしめくくりの文章で、主人公がご登場となる―同時に、このたった数行で人物造形とその後の運命も設定完了だ。

・・・長女はすこし虚弱体質で、ひ弱な感じだが、環境が変われば元気に育ってくれると思うと、楽観的な希望を言い添えてあった。かわいそうに!プライス夫人は、環境が変われば子供は元気になると思っているのだろう。(p.21-22)

 

この第一章の巧妙さは、この第一章が「何ではないか」を考えると見えてくる。

例えば、これがディケンズの作品であれば、第一章は、粗野な父のもと、騒々しく下品な環境で育てられるつつも、兄ウィリアムとの兄妹愛でなんとか生き抜く哀れなファニーが描かれて終了だ。主人公がノリス夫人に伴われてマンスフィールドパークへ向かうのが第二章。その第二章では、ノリス夫人の長広舌が哀れなファニーを責める様―恐らくは、悪路に酷く揺られる馬車や、澱んだ天気、ファニーが感じる頭痛などとともに描かれるだろう。准男爵夫妻のご登場は、第三章まで待たなくてはならない。

 

第一章に端的に表れているのは、オースティンが「物語るための環境」を整備するのが実に上手いということだ。「マンスフィールド・パーク」はまさに、被造物たる登場人物たちの動きを観察するために、オースティン―作者という神が創造した箱庭だ。

 

例えば、第三章の冒頭ではノリス夫人の夫であるノリス牧師がオースティンに殺される。これは、ノリス夫人の身寄りをなくさせ、マンスフィールド・パークで主人公と同居をさせるためである*3。他にも、ファニーと恋敵との軋轢を生むために老いた馬が、パークの住人を素人芝居に駆り立てるためにある老夫人が、それぞれ死を賜る。

居ては困るが殺せない人物、例えば准男爵やその長男は、舞台俳優が舞台袖に下げられるように、インドや地方に左遷させられる。准男爵ご帰還の場面が、まさに舞台の上であることは象徴的だ。

 

こうしていよいよ環境を整えられた被造物たちは、生命を吹き込まれたかのようにいきいきと動き出すのだ。

 

カメラワークも計算づくだ。例えば第七章、そこまでファニーを軸に語られてきた場面が、こう切り替わる。

ところが、四日目の遠乗りが終わったとき、一行のうち一人だけ、その幸福感がひどく曇らされることになった。その一人とは長女のマライアである。(p.111)

実はこれは、マライアに視点を移すための描写ではなく、主人公であるファニーを後景化するための視点移動だ。このすぐあとの場面では、主人公が慕うエドマンドが、ファニーの体調悪化に気づく場面がおおよそ5頁続く。その下りのあとに、さっとファニーに視点を戻し、こう続くのだ。

ファニーは、この四日間、自分がまったく無視されていると感じ、不満と嫉妬の感情と必死に戦っていたからだ。・・・ところが、思いがけなくエドマンドに親切にされて、突然激しい喜びの感情がこみあげ、自分で自分をどうしていいかわからぬほどだった。(p.117)

先にあげたマライアへの視点移動がなければ、読者はファニーの体調不良に気づいてしまう。エドマンドも慧眼ではなくなり、ファニーが「思いがけなく」親切にされたという印象も薄らいでしまう。実に見事に考えられている。

 

残念なのは、打ち切りに合うか、製作費が底をつくかでもしたように、作品の後半でこうしたクオリティが急激に落ちるところだ。

特に38章以降は、ファニーが舞台袖に引っこみ、お芝居の表舞台はロンドンへ移る。しかし、オースティンのカメラが追いかけるのはあくまでファニーであり、結局舞台裏から表舞台を垣間見るという凡庸な構成に終始してしまう。

 

しかし、こうした欠点を補ってもなお本作は素晴らしい。本作は軽やかにして繊細で、決して詩的ではないが、機微を捉えた文体が魅力的だ。我らがウラジーミルがいうように、「裁縫かごのなかから現れる絶妙な刺繍の逸品」のようである。

 

こうして感想文は書けるようになったが、先生の模範解答にはまだ到底及びもつかないようだ。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆☆

<<背景>>

1814年発表。

米英戦争の火花が散り、フランスではナポレオンが追放された激動の年であるが、マンスフィールドにその戦火が及ぶことはない。本作成立の歴史的背景としては、ジョージ4世による放蕩な摂政時代の風俗を指摘したほうがよいだろう。

 

<<概要>>

48章構成。叙述はいわゆる「神の視点」で行われる。そして、先の一章末尾の引用のように、時折作者視点のコメントが挿入されることもあるし、突然「わたし(=作者)」の感想が入ることもある。

部の概念はないが、出版当初は3巻本で、各巻ごとに章番号が付されていたという。物語の展開を分解すると、大よそ次のような構成になる。なお、冒頭は設定に、幕間は役者の入れ替えに割かれている。

8-10章:サザトン・コート編

13-20章:素人芝居編

22-25章:ディナー編

26-28章:舞踏会編

29-36章:プロポーズ編

38-46章:ポーツマス

48-48章:エピローグ

 

<<本の作り>>

素晴らしい出来栄えだ。やはり翻訳者は優れた研究者であるべきだ。

読み手が欲しい情報、例えば、19世紀初頭におけるイギリスの文化習俗などは、悉く割注で説明が施される。原文でないと通じない皮肉にも手短に解説が付されるなど、実に信頼できる。訳文も日本語としてとても自然で、申し分ない。

ただ、訳者の責任ではないが、帯だけはいただけない

オースティンが恋愛小説をこれほど重厚的に書かなかったら、恋愛は小説のテーマたりえなかったのではないか。―角田光代

 この惹句よりは、馬と淑女を表紙絵に選んだ絵師の方が遥かに上手に本作を捉えている。

 

*1:中村白葉訳の圧勝。

*2:我らがナボコフ先生は、これを細かく分析をし、オースティンの人物描写を四つの類型にまとめている―『文学講義』より

*3:我らがVNは、これを「機能的な死」と呼ぶ―『文学講義』より