ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『失われた時を求めて』第1篇「スワン家のほうへ」マルセル・プルースト/吉川一義訳

語りえぬものについても、沈黙したくない

小さな音が窓ガラスにして、なにか当たった気配がしたが、つづいて、ばらばらと軽く、まるで砂粒が上の窓から落ちてきたのかと思うと、やがて落下は広がり、ならされ、一定のリズムを帯びて、流れだし、よく響く音楽となり、数えきれない粒があたり一面をおおうと、それは雨だった。(第1巻p.230) 

<<感想>>

プルーストを語るのは難しい。

この圧倒的な傑作を前にして、私風情が何か言えることがあるのだろうか。

 

私はいつも、自宅ではハードカバーを、通勤中などの外出先では文庫本を読むことにしている。先日来、外出先で読んでいたのは別の文庫本だった。

ところが、ある日無性に『失われた時を求めて』を読み返したくなって、ふと手に取ったのが運のつきだった。

結局その日以来、他のよみさしの本をおっぽりだして、家でも外でも明けても暮れても『失われた時を求めて』に噛り付いてしまった。

 

しかし本書では、ドストエフスキーの大作のように、夢中になって朝まで読み耽ってしまうということはできない。それは本書がプロットらしいプロットの無い退屈な作品だからではなく、あまりに素晴らしい一節に胸が詰まり、先を継ぐことができなくなってしまう時がしばしば訪れるからだ。

 

本書が万人受けしない、読みにくい作品であることは明らかだ。しかし、一人でも多くの人にこの傑作に触れてほしいと思うから、今日は紹介文のノリで感想を書いてみたい。

 

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

 

 

まず、今日この感想で取り上げるのは、全7篇のうちの第1篇だけだ。

第1篇は、岩波文庫版で全14巻からなる本作の、1巻から2巻にあたる。

続き物の映画や漫画に手を出すように、まずは最初の1篇だけ、そんな気持ちでいいように思う。

この第1篇は次の三部からなり、このうち第一部にのみ節が付される。

 第一部:コンブレー

  コンブレー(一)、コンブレー(二)

 第二部:スワンの恋

 第三部:土地の名ー名

岩波文庫版では、第一部が第一巻、第二部と第三部が二巻に充てられている。

 

冒頭のコンブレー(一)を、心地よく読み進めることが出来る人には、たぶんこの記事は無意味だ。この箇所は、『罪と罰』におけるマルメラードフの長広舌のように、ピュアな読者に断固としたノー、―或いはノンか、ニェットかを突きつける。有名なマドレーヌの場面が登場するが、そこに辿り着くまでに大凡100頁は読み進めなければならない。

そこで、コンブレー(一)や第一巻が退屈な方、途中で挫折してしまった方には、是非とも第一巻を横に放り投げて、第二巻から読み始めて欲しい。

筋がわからなくなる心配はない。第一部と第二部との間には、時系列や舞台の断絶があり、いわば第二部は小説内小説のようなものになっている。だから、前後の繋がりを気にする必要はない。

 

第二部「スワンの恋」は、第一部とは打って変わって、しっかりとしたプロットがある。また、主人公の内省と回想とに終始する第一部と異なり、会話文中心であり読みやすい。この部分だけで一作の小説たりえ、実際、この部分だけを映画化した作品もあるようだ。

話の軸はこんな感じだ。スワンというブルジョワの息子がいる。彼は社交界の寵児で、いつもあちこちの女に手を出している。ところが、ある時から、オデットという名の「好みでもない」高級娼婦にぞっこん惚れだしてしまう・・・。

 

第二部を読み通したら、次はそのまま第三部だ。

第三部では、語り手である「わたし」の少年時代(11歳~14歳くらい)の初恋が語られる。そのお相手は、スワンとオデットの娘であるジルベルトだ。

ここで気がつくのは、中年男の見苦しい嫉妬と、少年の清新な恋とが対蹠されるのと同時に、少年とスワンとが同期している点だ。

例えばスワンは、オデットが住むラ・ペルーズ通りと同名の探検家ラ・ペルーズが話題にのぼっただけで、幸せな気持ちになったりする(第2巻p.345)。

一方の少年は、なにかにつけジルベルト(とスワンその人)が住む通りの名を口にして、父に「なんだってお前は、しょっちゅうその通りのことを話すんだい。」と訝しがられたりする(第2巻p.485)。

 

このコントラストとシンクロとに興味が持てたなら、満を持して第一部に戻ってほしい。

 

そうして読む第一部「コンブレー」は実に豊穣だ。

第二部、第三部で血肉を伴って現れる思想は既にここで展開されている。第二部、第三部で血肉を伴って現れる人物たちは、既にここで別のプリズムを通して描かれている。また、第二部の構成―かばりか、小説全体の構成は、既にここで予言されている。

(1)思想の展開

「コンブレー」にはこんな一節が登場する。

自分の外にある対象を見つめるとき、それを見ているという意識が私と対象のあいだに残り、それが対象に薄い精神の縁飾りをかぶせるため、けっして対象の素材にじかに触れることができない。(第一巻p.194)

また、こんな一節もある。

男のことは容姿だけで判断するといいはる女性でも、その容姿に特殊な生活の発露を見ているものである。そのような女性は、えてして軍人や消防士が好きになる。相手が制服を着ていると、容貌はさほど気にならない。(第一巻p.228)

スワンの恋」を読んでいれば、このいずれの文章にも、思い当たるフシがあるはずだ。スワンは、ついぞオデットという「対象の素材」を見ようとしない。スワンがオデットを愛するようになるのは、オデットとボッティチェリ*1との絵画との類似を発見し、オデットと過ごした時間に流れていたヴァントゥイユ*2の音楽に胸を打たれたからだ。

(2)プリズム越しの人物

パリの社交を描いた「スワンの恋」と、田舎の生活を描いた「コンブレー」で、同じ人物がまるで別人のように描写される。プルーストの狙いは、人物を見る視点が変われば、受け取られ方が全く変わるという命題の例証であり、それは見事に成功している。

その例示になるのは、当のスワンであり、スワンが気に入る曲を作曲したヴァントゥイユである。第二部で登場し、貴族のサロンで嘲笑されるカンブルメール若夫人(第二巻p.329)は第一巻で話題に上る「ルグランダンの妹」その人である。他にも、レ・ローム大公夫人やシャルリュスなども、既に「コンブレー」で(まるで別人のように)登場している。

(3)全体の構成

あとがきでも指摘されるが、「コンブレー」で「わたし」の一家が散歩する「スワン家のほう」(メゼグリーズのほう)と、「ゲルマントのほう」は、ブルジョワ一家のスワン家と、貴族のゲルマント家を対比する。「スワンの恋」で描かれたブルジョワのサロンと、貴族のサロンの対比も、この散歩道の主題反復であり、小説全体の構成を暗示する。

 

こうした主題の反復は挙げだすとキリがない。

スワンがオデットに愛されていた日々をふと、そしてありありと思い出すのはヴァントゥイユの音楽を耳にしたときだ(第二巻p.348)。これは有名なマドレーヌの場面の繰り返しだ。

第三部で大々的に取り上げられる「名」の持つイメージの主題*3も「コンブレー」で取り上げられる。「わたし」が演劇のタイトル(だけ)を眺める場面(第一巻p.172)や、最初に「ジルベルト」という音を聞いた場面がこれにあたる。

そのように私のそばを通りすぎていったジルベルトという名前は、この名前で今しがたひとりの人物として形づくられ、一瞬前までは不確かなイメージにすぎなかった少女に、いつの日か再開できるお守りのように思えた。そのように名前は、まずはジャスミンとストックの上方に発せられ、緑のスプリンクラーからふき出る水滴と同じで、刺すように冷たく通りすぎた。(第一巻p.310)

 

こうして、寄せては返すさざなみのような主題たちに身を任せる快楽こそが、本書の楽しみの一つだ。そして何より楽しいのが、そのさざなみの中に見出される真珠のような、稀代の美文名文を発見した瞬間だ。冒頭にも一つ引用したが、最後にもう一つ、私の胸を詰まらせた犯人を紹介して記事を終わりにしたい*4

たしかにこの自然の一角、たとえば庭の片隅にしてみれば、しがない一通行人たる夢みる少年に長いこと眺められたおかげで―群衆にまぎれた一介の回想録作家に見つめられた国王と同じで―、まさかその少年のおかげでじつにはかない自分の特徴が生き延びることになるとは想いも寄らなかったであろう。しかし生け垣沿いにただようサンザシの匂いもやがて野バラにあとをゆずり、小道の砂利を踏みしめる足音もなんら反響がなく、川の水が水生植物にあたって生じる泡もすぐに破裂するとき、それらをすくいあげて継起する幾星霜を超えさせたのは私の昂揚のなせるわざである。(第一巻p.391)

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆(容易に勧めることはできない。)

 

<<背景>>

1913-1927年執筆。作中年代の特定については研究者が一つの論文として扱うレベルのややこしいテーマなのでやめておく。大よそ19世紀末~20世紀初頭のフランス(パリ、海岸リゾート、田舎町)が舞台だ。

作品は基本的に一人称の回想体である。

プルーストが受けた影響についても専門家の助けが必要そうだ。当ブログで過去に取り上げた中では、ジョージ・エリオット過去記事】を好んでいたという話が有名だ。

後世の文学に与えた影響の計り知れなさは、このブログにこれまで感想を書いてきた作品たちだけでも十分に証明できる。

『オン・ザ・ロード』の最終版で、主人公の片割れディーンが読んでいるのは本作だ。クンデラは、本作を捉えがたい過去の瞬間を測定しているものと評した。サガンはといえば、そのペンネーム自体、本作に登場するサガン大公から名づけられたものだ。セバンスチャン・ナイトの本棚には、ちゃっかりと「見出された時」(本作第7篇)が忍ばされている。ニザンだって、本作をあてこすっている。

 

<<概要>>

今回は感想で概要に触れたので割愛する。

 

<<本のつくり>>

私は岩波文庫版で読んでいる。これは文学作品の文庫化のお手本といってよいと思う。

あるいは、限界だろうか。

プルーストが引用する大量の絵画が次々と引用されている。しかも、極力プルースト本人が見た版からの引用というこだわりぶり。注釈もきわめて豊富で、文庫一巻あたり200個を超えるのが当たり前だ。

まことに訳者には頭が下がる。

他の翻訳と比べたわけではないが、本訳書単体でみたとき、素晴らしい訳業であることは、感想の中で引用した文章からも明らかだ。

一巻のあとがきを見ると、原著では一文のものを、翻訳の際に区切ったことを訳者が認めている。

これは正直非常に残念だ。私の好みでいえば、どんなに読みづらくなっても、一文は一文で読みたかった。しかし、ここまでの訳注が付せる当代きっての研究者が断念したのであるから、きっと仕方がないのだろう。

なお、私が学生の頃、プルーストといえばふつう集英社のヘリテージシリーズだった。しかし、競うようにして岩波文庫光文社古典新訳文庫が本作の刊行を開始して、翻訳をチョイスしなければならないという新たな悩みができてしまった。

岩波・光文社は2017年時点でまだ完結になっていないので、最後まで読みたいなら集英社になる。【追記】無事に完結したため、今は岩波文庫で最後まで読むことができる。

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第1巻p.305より「サンザシ」*5

 

第2篇の感想は以下で。 

 

この他、『失われた時を求めて』についての記事は以下で。

 

*1:こっちは実在

*2:こっちは架空の人物

*3:VNの『ロリータ』のあの有名な冒頭の一場面が、この主題を意識していないとは到底思えない。

*4:サンザシの場面は長すぎて引用ができなかった・・・(第一巻p.305)

*5:GFDL,Creative Commons Attribution ShareAlike 2.1 Japan License