ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

1-12①『アルトゥーロの島』エルサ・モランテ/中山エツコ訳

Oh Freud nicht diese töne!

少なくとも、その当時夢に彼女があらわれたことはぼくの記憶にない。

そのころぼくは、『千夜一夜物語』のような夢を見ていた。空を飛ぶ夢!何千もの硬貨を群衆に投げる気前のよい紳士になった夢!(p.251)

<<感想>>

今回は他の作品の引用から。

いつもと同じように、言っておきたい、いつもと同じように、ウィーンの代表団は招待されていないと。((『キング、クイーン、ジャック』「英語版への序文」より、新潮社版p.429))

いっそのことこの引用だけで今回の感想は終わりにしようかとも思った。

 

ナボコフのいう「ウィーンの代表団」とは、もちろんフロイト(派)のことを指す。

毛嫌いしていたのは、作品を精神分析的に批評する行為なり、作家を精神分析する行為ゆえだろう。

これは、私が本作との関係で「招待していない」と思うのとは少し違う。

 

私が言いたいのは、フロイトの作った物語・神話のヴァリエーションを読まされるのはもういい加減ウンザリ、飽き飽きだということだ。

 

昔、心理学の授業で習ったところによると、フロイトの業績に関しては、心理学の世界の内部でも、功罪の「罪」の部分にスポットが当てられることもあるようだ*1

しかし、私に言わせれば、フロイトが殺したのは父親ではなく、後の物語解釈の独創性と物語創作の独創性であり、それ故に罪を負うべきだ。

 

今日、"フロイト"という単語を出さずに、ソポクレスを批評することが果たして可能だろうか。「フロイトをいったん忘れて読みましょう」という言及も含めて考えれば、これは実に不可能に近い*2

 

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)

 

 

今日の読者から見て本作が駄作であることを逃れられないのは、そのフロイトに、物語創作の独創性を殺されているからだ。いや、独創性という点では今日の読者に限られず、死産だったといった方が適切かもしれない。

 

本作は、少年の心理的な成長がテーマとなっている。プロチダという島で生まれた少年の母は、出産と同時に亡くなっている。そして、父からもほとんど育児放棄をされて成長していく。ある日、父が若い新妻を連れて島に帰ってくる。その新妻は、少年と二歳しか歳が違わなかった・・・。こんなプロットで物語ははじまる。

 

続きはこうだ。

「少年は母親を手に入れ、父親のような位置に付こう希求する。少年においては継母がはじめて知る異性であり、ゆえに愛情対象である。子供は父親のような男性になろうとして強くなろうとする。少年はじきに父親を排除したいと思う。しかし父親は子供にとって絶対的な存在であるので、そのうち父親の怖さに気付く。少年は父親への恐れと継母への愛情の間で板挟みになるが、やがてこれを克服して社会へと旅立っていく。」

 

この上の鍵かっこで括った文章は、本作の中盤~終幕への物語の要約である 。が、実はwikipediaエディプス・コンプレックスの項目(参考リンク)の文章をすこーしだけ改変しただけのものである。

そういえば、以前にも同じような理由で『太平洋の防波堤』を酷評した気がする。

 

本作を読むくらいなら、フロイトの同時代人であり、友人でもあるシュニッツラーの『夢小説』の方がなんぼか面白い。

あるいは、楳図かずお先生の諸作品の方が、独創性や、少年(少女)の情動の表現にしても、よほど文学的だ*3

 

お気に入り度:☆

人に勧める度:☆

 

 

<<背景>>

1957年刊行。

作中の描写から、物語の舞台は1930年代末頃と推定される。

フロイトの『夢判断』は1900年、『精神分析入門』が1917年の作品だ。

シュニッツラーの『夢小説』は1926年発表。

イタリア文学と言われてもあまりピンとこないのが正直なところだ。

ウェルギリウス→ダンテ→ボッカッチョの後は、イタロ・カルヴィーノと、ウンベルト・エーコくらいしか知らない。

 

<<概要>>

全8章構成。章の下は節に分かれている。

特徴的なのは、各章各節にそれぞれ題名が付されている点だ。

各章の節数も、節ごとのページ数もかなりまちまちだ。10頁を超える節もあれば、2頁で終わってしまう節もある。

物語は一人称回想体で進む。文章は結構長い。

やたらと「!」が多い主人公の心理描写が長いのに加え、場所や空間の描写が細かい。プルーストのように、比喩が多いために細かいのではなく、描写の情報量が豊富なのが特徴だ。構成が緊密なわけではないが、この点だけ見るとややオースティンを思い出す。

別に性差別をする気はないが*4、少年の情動を示しているのに、成人女性らしさが文体的特徴に滲み出ているのがつらい。 

<<本のつくり>>

本を開いてまずびっくりしたのは、これまでのどの巻とも異なり、本巻だけ二段組な点だ。二段組にしないと本巻に二編収録できないという事情はわかるが、全くもって美しくない。

本を読んでからびっくりしたのが、なぜ本作をセレクトしたのか、という点だ。フロイト全盛の時代ならいざ知らず、とき既に21世紀である。

さまざまな地域の作品を採録したかったとの趣旨はよくわかるが、イタリアならそれこそエーコがいるではないか。

 

 

*1:『抑圧された記憶の神話』という書籍が課題図書だった。この本に対する反批判もあるようだが、これは私の関心とは異なる。

*2:たとえば、有名な千夜千冊は、まさにこの形式でフロイトに言及している。参照先リンク

*3:最高傑作の『わたしは真悟』は2017年にフランス語に翻訳されるやいなや、速攻でアングレーム国際漫画フェスティバルで賞を受賞した。当然の評価だ。

*4:むしろ、紋切型の少年像の本作こそ少年差別なのか?