ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ/木村浩訳

一物四価

アンナはショールを取り、帽子を脱ごうとしたが、そのひょうしに、カールしている黒髪の一束に帽子をひっかけ、頭を振って、髪を放した。(上巻、p.141)*1

<<感想>>

この記事を書いている現在、当ブログでは20世紀の作品ばかりを紹介している。

そのため、ロシア文学のカテゴリをクリックしても、そこには『罪と罰』もなければ、『外套』もない。

これではせっかくこんなインターネットの辺境の地を訪ねてくれたお客様に失礼だ。

そこで、これから少しずつ、過去に読んだ傑作群の感想も書き綴っていきたいと思う。

その第一弾として取り上げたいのは、『アンナ・カレーニナ』だ。

 

さて、当ブログでは敢えて、紹介している各作品の優れている点を捉えて、「プロット」「思想」「文体」の3つのカテゴリに分類している。

分類の趣旨については、過去の記事で触れた。そして、本作『アンナ・カレーニナ』をどのカテゴリに放り込むかは、そのとき以来からの宿題となっていた。

 

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

 

 

1.プロット

さて、まず本作は、その重厚長大なイメージに反して、当ブログで取り上げている他のほとんどの作品よりも読みやすい。エンターテイメントとして面白いと言っても良いと思う。

 

エンターテイメントとしての読みに耐えるのは、本作がいわゆる不倫モノであり、そのテーマの卑近さから来るところも大きいだろう。ストーリーはいわゆる一般市民ウケのする昼ドラ的な内容そのものである。だからこそ逆に苦手で、挫折してしまったという方もいるかもしれないが、そういう方には思想的な、あるいは文体的な読みを楽しんでもらいたい。

 

本作は一度読み始めるとずんずんと読み進んでいける。反対に言えば、作品の中に、読み手をぐいぐいと引き込んでいくパワーがある。

この読みやすさの背景の一つには、構成の緊密さがある。本作は新潮文庫版で全三冊と大部ではあるが、8つの大きな編からなり、各編は30前後の章で構成されている。そして、各章は僅か7、8頁たらずでできている。このため、登場人物や舞台などが、まるで万華鏡を少しずつ回転させていくかのように次々と入れ替わり、非常にテンポがよく、読者を飽きさせない。これはやはり、『大いなる遺産』でも触れたように、連載小説ならではの特徴だ。

 

次に注目すべきは、登場人物の一人、スチーヴァことステパン・アルカージッチ・オブロンスキーだ。

主人公アンナの兄にあたる。

彼は確かに愛すべき登場人物かもしれないが*2、ポイントはそこではない。彼が実に見事な狂言回しの役回りを与えられ、巧妙に作者トルストイによって送り込まれている点だ。

オブロンスキーが彼岸と此岸の橋渡しを行うことが、物語進行の原動力となる。

マンスフィールド・パーク』で「機能的な死」について触れたが、彼は丸ごと「機能的な人物だ」(それでいて「キャラ」が死んでないのがまた見事だ)。

 

 

2.思想

続いてこちらは、賛否両論渦巻く部分だ。

本作において、アンナ=ヴロンスキーの関係と、リョーヴィン=キチイの関係が対比的に描かれているのは明らかだ。そのため、トルストイの意図は読者にストレートに伝わってくる。

世の中には、何か(生き方とか?)を学ぼうとして文学に手を伸ばす読者もいるようで、トルストイの意図を額面通りに受け取って賞賛する向きもないではないようだ。

しかし、こうした自己啓発好きのマゾヒストは少数派で、「説教者トルストイ」の側面は、敬遠されがちだ。*3

 

他方で、同じ物語の意味内容でも、人物造形や心理描写、あるいは観察眼といった評価軸もある。あまり顕微鏡の倍率を挙げると、文体に近接してしまうが、ここで触れたいのはもう少しマクロ的な部分だ。

この側面でのトルストイの業績は比類ない。

私が最初に『アンナ・カレーニナ』を読んだときの感想は次のような感じだった。

女性の登場人物の情念まみれぶりが実にリアルだ。ドストエフスキーのような偶像的な女性像とは対照的だ。こんな感覚は、太宰の『女生徒』以来だ。

この感覚は、女性の修羅場に突撃する商売に就いて以降もかわらないばかりか、さらに差し迫って感じる。

特に身につまされるのが、アンナが結局のところ愛児セリョージャよりも、不倫相手のヴロンスキーを優先するところだ。現実の事件でも、大抵の「夫が嫌いになった」女性は息子を捨てはしない。他方、「他の男が好きになった」女性は、息子を捨てることがある。それでも彼女らは、大抵の場合、アンナと同様、それでも息子のことを心底大事に思っているのだ。

ヴロンスキーは、自分がアンナの不幸の原因となっているにもかかわらず、アンナがわが子と会うという問題などは、彼にとってはまったく取るに足らぬことに思われるだろうと、アンナも承知していたからである。いた、ヴロンスキーには、自分の苦しみの深刻さなどを、とても理解する力のないことを、アンナも知っていた。もしこんなことをいいだして、彼から冷淡な調子であしらわれでもしたら、そのためにきっと彼を憎むようになるにちがいないと、承知していた。そして、アンナはそのことをなによりも恐れていたので、わが子に関することは、いっさい彼に隠すようにしていたのである。(中巻、p.595)

 

3.文体

ドストエフスキーには及びもつかないトルストイの美点として大向こうを唸らせているのがこの点だ*4

 

いわゆる「意識の流れ」的な表現手法は、ジョイスを大きく先取りしたといわれる。

また、形をかえた主題の糸―たとえば「夢」や「鉄道」など、が連なるさまは、フローベールの文体を彷彿とさせる。

これらの詳細についてはぜひとも後掲の書籍をお読みいただきたい。

 

私からは、先に触れたアンナの人物造形、心理描写に関連して、顕微鏡の倍率を挙げ、次の文章をご紹介したい。

ペテルブルグで汽車が止って、プラットフォームにおりたとたん、アンナの注意をひいた最初の顔は、夫の顔であった。<<あら、まあ!なんだってあの人の耳はあんなになったんだろう?>>夫の冷やかな堂々たる押しだしを、とりわけ、今びっくりして目を見張った丸帽子の鍔をささえている耳の軟骨部をながめながら、アンナは心の中で思った。(上巻、p.215)

わが家で、アンナを出迎えた最初の人間は、むすこであった。

・・・むすこも夫と同じように、なにか幻滅に似た感じをアンナに呼びおこした。アンナはむすこを、実際よりもっといいように想像していた。(上巻、p.222)

 

4.客体としてのトルストイ

さて、それぞれの角度から『アンナ・カレーニナ』の、そしてトルストイの魅力を検討してみたが、私が一番の魅力だと考えているのは、この3つのどれでもない。

実は、一番の魅力は、トルストイその人や、『アンナ・カレーニナ』を題材にした作品を読む楽しみにあると思っている。

文学と文学の、あるいは文学と批評との間主観性

 

20世紀の文学を読んでいると、トルストイを読んでいないとわからない、あるいは、トルストイを読んでいるとより楽しめる作品が頻出する。

例えば、バーリンの有名な『ハリネズミと狐』*5は楽しめない。クンデラの『小説の技法』だって、読者が『アンナ・カレーニナ』を知っていることを前提にしている。

 

特に私がシビれたのは、ナボコフ先生の以下の”読み”だ*6

雪の重みで、巻毛のような枝をすべてたらしている、庭園の白樺の老樹は、まるで新しい荘重な袈裟で飾りたてられたみたいであった。(上巻、p.58)

すでに述べたように、トルストイの文体は、実用的(「寓意的」)比喩が豊富である一方、主として読者の芸術的感覚に訴える詩的直喩や隠喩がふしぎなほど見あたらない。この白樺の木は例外である(少し先に「太陽」や「ばら」の比喩が出てくる)。これらの老樹はまもなくキティのマフの毛皮の上に少量の輝かしい霜の針を落とすだろう。(河出文庫版『ロシア文学講義』上巻、p.158)

「あなたにほめていただくなんて、光栄ですわ。だって、こちらでは今でも、あなたがすばらしいスケーターでいらしたという評判ですもの」黒い手袋をはめた、かわいい手で、マフにおちた*7霜の針を払いおとしながら、キチイはいった。(上巻、p.62)

 

なんという創造力、なんという読解力だろう。トルストイは、自分の創造した世界の中に、マフに霜の針を落とすような事物が存在していたことを忘れてはいない。邦訳版で4ページも飛んでいて、本筋とは何ら関係がなくとも、だ。そして、ナボコフはこんな些細な表現上の工夫も読み落とさない。

 

天才トルストイは、後世の天才達によって論じられる。こうして、客体としての天才になっていることが、トルストイの最大の魅力だ。

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆☆

 

<<背景>>

1875-1877連載。

ボヴァリー夫人』から20年後のことである。

今回は感想が長かったのでこの辺で。

 

<<本のつくり>>

私が読んだのは木村浩訳の新潮文庫版だ。19才の私でも読み通すことができたくらい、平易な訳文だ。

この他、手に入りやすいものを含めると、以下の三つから選べる。

岩波文庫中村融訳1989年

新潮文庫木村浩訳1998年

光文社古典新訳文庫、望月哲男訳、2008年

おおよそ10年おきに新訳が出ていることからしても、本作が文学史上いかに重要か、そしていかに人気があるかが伺える。

 

*1:過去何人かの映画監督と、何万人かの読者に忘れ去られているが、アンナは、黒髪で、巻き毛だ。

*2:ちなみに私はカレーニン氏のほうがお気に入りだ

*3:むしろ、日本の読者で思想好きというと、大抵は懐疑論者か厭世家かニヒリストだ。そのため、国内ではどうしたってドストエフスキーに注目が集まることが多い。明治期以来、我が国でロシア文学というとトルストイ派とドストエフスキー派が拮抗していたが、白樺派の時代も今は昔、昭和以降は大江やファッションドストエフスキイストの村上某氏をはじめ、ドストエフスキー派が隆盛を極めている。

*4:ちなみに、我が国ではドスト派に軍配が上がって久しいようにも思えるが、世界的にはトルストイの方が遥かに評価は高いように思える。いや、"遥かに"であれば、"高かった"で文末を締めて、"高い"ならば、"やや"で修飾するほうがいいのかもしれない。論拠1論拠2

*5:ただし、同作品が主に取り上げるのは『戦争と平和』のほうだ。

*6:かの若島御大もお気に入りのようだ。【参考

*7:ちなみに、マフとはマフラーのことではない【参考】。キチイがつけていたのは、"ひも付き"のものであるから、リンク先のようなものだろう。ネットショップのようなので、リンク切れ御免。