インターミッション
公開セミナー「新訳でプルーストを読破する」【過去記事】の公式twitter【参考リンク】にて、映画「スワンの恋」がテレビ放送されると知ったので、せっかくだから鑑賞してみた。
ところで、私は普段ほとんど映画は見ない。このため、俳優の名前も知らなければ、映画の「書誌情報」として何を掲げるのが適切かもわからない。
ともあれ、本記事は『失われた時を求めて』の原作は読んだことがある人向けの「スワンの恋」評という、(逆ならまだしも)どこに需要があるのか検討もつかない記事になるからら、勝手気ままに文学のコードで評してみたい。
さて、原作ファンによる、映像化作品評などというのは、往々にして愛してやまない原作を好き勝手にされたことに対する不平不満うらみつらみで埋め尽くされるのが通常である。
ところがどっこい、意外な見どころが多くて、素直に楽しむことができた。
概要を先に述べると、本作は大筋でプルースト『失われた時を求めて』の第一篇第二部、岩波文庫版でいうところの2巻(全14巻)の一部を約2時間にまとめた物語ということができる。
文学と映画という異なる表現形式間で、原作の異同を論じようとすると、人間と象の「違い」を探す話になって不毛だ。それよりも、映画ならではの美点と欠点とを探し求めるのが面白そうだ。
1.視覚情報の凄さ
まず、本作の美点として真っ先に挙げなくてはならないのが、街の風景や建築、室内の家具・調度・装飾、登場人物の衣装等々、歴史的背景を踏まえた視覚情報が実に充実しているところだ*1。
この点は、まさに"Eureka!"であり、原作を繰り返し読んだ人であっても、ひと目映像を目にした瞬間、その目を見開かされるはずである。なるほど19世紀後半のフランスというのはこういう町並みで、このような人々が暮らし、サロンというのはこんな情景だったのかと、映像が持つ情報量の豊富さにただただ圧倒されるばかりである。
翻って気付かされるのが、プルーストがその膨大な量の文章で微に入り細を穿って情景を描写していると見せかけて、その実、場面・事象の客観的側面について、如何に何も描写していないか、という点である。
しかし、これは何も、プルーストの主観・意識重視、客観・事物軽視だけが原因とは限らない。文学作品という表現形式それ自体が、まるでソフトウェアの世界におけるライブラリのように、読み手の知識・経験・記憶あるいは共通了解に大幅に依存しているということだ。
例えば、日本の読者を想定した作品であれば、ひとまず舞台を江戸の大名屋敷と設定してさえしまえば、武家造りの建築様式の特徴や、江戸期の武士階級の装束についてまで描写せずとも、ほとんど読者が、どこかの大河ドラマで見たような光景を想像してくれることになるのと同じである。
反対に言えば、海外文学を読むに際しては、作者が暗黙のうちに要求していた参照項、ライブラリが、デッドリンクにならないよう、読み手は作中の舞台に関する知識の収集に努める必要がありそうだ。
2.人物造形の浅さ
他方で、原作を読んだ後で圧倒的な物足りなさを感じるのが、人物造形、特に映画では主人公という扱いになる、スワンの内面に対する掘り下げの浅さだ。
映画版のスワンは、平たくいうともう端的にキモいストーカー気質か、独占欲の強さだけが際立つDV男に成り下がっている*2。
これはもちろん、独白はありえても「地の文」が存在しえない映画という表現形式が責任を負うというべきなのかもしれない。
しかし私が注目したいのは、「長さ」あるいは「時間」の問題である。
映画だと、スワンがオデットと知り合い、最初の「カトレア」を経て、フォルシュヴィル男爵への嫉妬が始まり、遂にはオデットを探して夜の街を駆けずり回るに至るまでが、実時間にしてものの1時間数十分で体験される。
ところが、文学であれば、ノンストップで読み続けたとしても、軽くその5倍はかかって然るべきだろう。
ここで思い至るのが、本作がとかく「長い」ことには、この「長さ」だけが与えうる独特の意味、あるいは効果があることである。読み手は、物語の内容を現実の時の流れとともに感得するがゆえに、スワンの心理の微妙な移り変わり(或いは、最終的には「時」そのものという本作の主題)を掴み取ることができるのだ。
3.オデットとチッポラとジョットと
こんなオデットはオデットじゃない!
映像化されたときの定番のクレームである。ところが本作では、原作にわざわざ、ボッティチェリの「モーセの試練」に描かれたチッポラ似ているとの(スワンによる)指摘がある分、より配役のツラさが際立つ。
正直私には、映画のオデットは、チッポラというよりも、同じくプルーストが愛したジョットの「ユダの接吻」に描かれたユダのように見えて仕方がなかった。
映画中のオデットの顔は、権利の問題があるのでこちらでご覧を。(画像検索)
《モーセの試練》
画面下中央やや左、二人組の女性の左、小首を傾げた女性がチッポラである。
《ユダの接吻》
画面中央、イエスに接吻をする黄色い装束の男性がユダである。
逆説的ではあるが、ここで身につまされるのが、文学がいかにズルいか、という点である。地の文でひとこと、「絶世の美人」であると指定すれば、各人各様の「絶世の美人」が各人の中で創造される。これにより、アンナ・カレーニナは文学という表現形式にある限り、いつだって黒髪の美人でいられるのだ。
文学は、前期1.で指摘した情報量を捨て去った見返りに、読者の創造力との協働という武器を獲得しているのである*3。
4.その他
このほか気づいた点としては、監督なり脚本家なりによる、全体としての原作『失われた時を求めて』への愛情が伝わってくる点である。
「スワンの恋」のプロットだけ表現したいのであれば、必要なのはスワンとオデット、フォルシュヴィル男爵、せいぜいがところヴェルデュラン夫人の「少数精鋭」くらいなもので、物語構成上、シャルリュス男爵を登場させるのが便宜であることは理解できる。
ところが、「スワンの恋」の映像化というのには必要のない登場人物までもが、多数登場しているのだ。その数は多く、ゲルマント公爵夫妻(夫も)、ゲルマント大公、カンブルメール若夫人、などのメンバーに始まり、わざわざジルベルトも登場させ、エメやレミまでもが登場する。これを原作への愛情(あるいは、原作ファンへのアピール)といわずしてなんといおう。
具体的なカット・ショットの次元でも、サン=トゥーベルト侯爵夫人のサロンと思しき場面で、演奏中に蝋燭を吹き消すシーンが登場したり*4、先にもあげた、チッポラの絵のカットが登場したり、「公爵夫人の赤い靴」のエピソードで幕切れとなったりと、原作ファンが思わずニヤリとする場面も多い。
映画という性質上やむをえないのかもしれないが、スワンがやたらと街中を移動するがゆえに、やたらとレミの登場シーンが多いのが笑えた。
最後に、本作のレイティングがどうなってるのかは知らないが、お茶の間には割りと不向きな映画であるので、他人に原作を勧める方便として本作を用いるのであれば、注意をされたい。オデットとの「カトレア」シーンや、スワンが娼婦を買うシーンなど、かなり描写がストレートで、バンバンまさぐるし、バンバン腰を振っててびっくりした。80年代は大らかだったのだろうか。