ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

『失われた時を求めて』第3篇「ゲルマントのほう」マルセル・プルースト/吉川一義訳

君は、刻の涙を見る

われわれは自分の人生を十全に活用することがなく、夏のたそがれや冬の早く訪れる夜のなかにいくばくかの安らぎや楽しみを含むかに見えたそんな時間を、未完のまま放置している。だがそんな時間は、完全に失われたわけではない。あらたな楽しい瞬間がそれなりの調べを奏でるとき、その瞬間も同じくか細い筋をひいて消えてゆくのだが、以前の時間はこのあらたな瞬間のもとに駆けつけ、オーケストラの奏でる豊饒な音楽の基礎、堅固な支えとなってくれるのだ。かくして失われた時は、たまにしか見出されなくとも存在しつづけている典型的な幸福のなかに伸び広がっている。 (第7巻、p.126)

 

本作『失われた時を求めて』については、どうすればこの大作を攻略することができるのか、という視点でこれまで記事を書いてきた。

今回の第3篇でも、書きたいことが多すぎて到底書ききれない感想は極力控えめにして、読みのポイントを紹介してみたい。

 

立教大学の坂本教授はセミナー【過去記事】の中で、第3篇「ゲルマントのほう」を「ゲルマントの壁」と称していた。

他方、コレージュ・ド・フランスのアントワーヌ・コンパニョン教授は、『プルーストと過ごす夏』の中で、次のようなエピソードを披露している。即ち、第1篇「スワン家のほうへ」では、買った人の半分が挫折をする。 第2篇「花咲く乙女たちのかげに」進んだ人も、その半分が挫折するが、第3篇「ゲルマントのほう」に辿り着いた人は、もう挫折しない、と(同書p.17)。

この相反する二つの評価には、それぞれ一面の真実があるように思う。

確かに、「ゲルマントのほう」では、いよいよプルーストの本領が発揮され、本作のメインテーマともいいうる「時」の主題が押し出される。従って、ここまでプルーストに付いて来た忠実な読者にとっては、いよいよ見どころがやってきたという気持ちがわいてくる。

しかし、「ゲルマントのほう」は、当否はさておいても冗長であることは間違いない。1篇に充てられた分量としては、全7篇のうちもっとも多い。その反面、先に挙げた『プルーストと過ごす夏』においても、「ゲルマントのほう」からの引用は、全7篇のうちでもっとも少ないように思える。

さながら、休憩所の少ない登山道のようなものだ。そこで以下では、長い道のりを過たず踏破できるよう、全体の地図をきっちり俯瞰した後、「ゲルマント山」に見られる絶景ポイントの幾つかをご紹介したい。

 

1.見取り図

今日取り上げる「ゲルマントのほう」は『失われた時を求めて』全7篇中、第3篇にあたり、岩波文庫版では第5巻~第7巻が充てられている。

第3篇は2部からなるが、これまでの篇とは異なり、題は付されていない。また、第二部が唐突に二つの章に分かたれている。

これは、例によって例のごとく予定よりも紙幅がかさんだため、単一の刊本で出版することが困難となったために生じたようである。

すなわち、本来は前の巻に入れたかった部分を「第二部一章」と呼称することにして、後続の巻に登載したわけだ。従って、プルーストが真に区切りを入れたかった個所は、第二部一章と第二部二章の間ということになる。

岩波文庫版では、親切なことにこのプルーストの意図を尊重し、第一部および第二部一章が第5巻・第6巻に、第二部二章が第7巻に充てられている。

だいぶ回りくどい話になったが、ようは構成的には第5巻・第6巻で1セット、第7巻が1セットと捉えるのが良さそうだ。

 

物語の内容面に目を転じると、この第1セット目(5・6巻)と第2セット目(7巻)は非常に良く似た展開となっている。

「わたし」の恋の話→サン・ルーとの親睦→サロンの描写→シャルリュスとの邂逅→死にゆくものの話

どちらのセットもこの順番で話が展開していく。恋愛、友情、社交、同性愛、そして死と、まるで人の(あるいはプルーストの)生老病死のサイクルが繰り返されていくかのようである*1

 

具体的な場面においても、マルタンヴィルの鐘塔を巡る短文が思い出される箇所(7巻p.127)などをはじめ、過去の場面の繰り返しが随所に挿入される。

 

すなわち、構成的に見ても、具体的な場面のレベルで見ても、過去の反復というのが一つのテーマとなっていることがわかる。もちろんこれは、この小説全体のテーマでもあるのだ。

「わたし」にとっても、読者にとっても未来である第4篇以降を読むときには、もはやこの第3篇こそが思い出や時の記憶を構成する一つの要素になっていることに気付かされる。

この読書体験の味わいは、過去が蓄積すればするほど、物語が進めば進むほどに深まっていくのだ。

 

2.ゲルマント夫人と時

本篇攻略にあたって立ちふさがるのが、「ゲルマント家」をはじめとする「貴族」の面々だ。

人に説明できるほどフランス史に明るいわけではないが、次のポイントを抑えておくだけでも、大分理解が捗るに違いない。

(1)小説の舞台となった時代は、既に第三共和政下であり、政治制度としての貴族制は無くなっていた。このため、貴族の特権も既にない。貴族には没落する者もあれば、土地をはじめとする世襲財産のおかげで豊かに暮らすものもあるし、ノルポワのように身分というよりは才覚で政治の世界で活躍する者もいる。

(2)フランス貴族には「王」に爵位を与えらえた伝統貴族と、「皇帝(ナポレオン)」に爵位を与えらえた帝政貴族とがいた。政治的には、王党派は二派に分かれ、これにボナパルティストと共和派とを加えて主要な4派となる。

(3)もともとの爵位の階梯の順序は、「公侯伯子男」であり、「大公」はその上のランクになる。しかし、かつて爵位の売買が行われたり、ナポレオンによって帝政貴族が創設されるなどしたため、この頃序列は既に崩壊している。作中の時代では、先の順序にとらわれず、「家名」の良しあしが、貴族の位を決定づけている

(4)貴族は姻戚関係が広いため、一つの家柄や一人の人物が、いくつもの爵位を同時に有していることがある。このため、さながら落語家の襲名のように、相続などを契機として、一人の人物が違う爵位で呼ばれるようになることがある*2

(5)「ゲルマント家」は、作中に登場する架空の家名で、社交界の中でも屈指の名家とされている。その家系図は、巻頭に詳しく記載されているので大助かりである。誰それは誰それの叔父だの伯母だのとややっこしいが、ようはざっくりと「親戚」であるととらえておけば、大きな問題はない。

 

さて、そんなゲルマント家の中でも、中心人物はやはりゲルマント公爵夫人であるから、ここで彼女の役割について考察したい。

私が思うに、ゲルマント夫人は、時の結晶である

 

ゲルマント夫人*3の名は、「わたし」にとってフランスの歴史(あるいは伝説か)そのものである。第1篇「スワン家のほうへ」をご記憶だろうか。少年の「わたし」は、幻灯機によって浮かび上がったジュニヴィエーヴ・ド・ブラバンの物語を見て過ごす(第1巻、p.37)。あるいは、コンブレーの教会には、『エステルの戴冠』のタピスリーが飾られている(第1巻、p.144)。いずれも、ゲルマント家の祖先がそのモデルであるとされていた(第1巻、p.369、p.144)。

幻灯もタピスリーも「わたし」にとっては少年期の思い出であるから、青年期に交流するゲルマント夫人は、フランスの歴史の体現であると同時に、「わたし」自身の歴史における過去からの使者に他ならない。

さらにいえば、幻灯とタピスリーのエピソードは、『失われた時を求めて』の物語全体の冒頭に位置している。即ち、読者の体験のなかでも、かつて非現実的な人物であったゲルマント夫人が、今こそ本篇で実体を伴って描出されることになるのだ。

このように、ゲルマント夫人は3つの位相において、時を跳躍し、時を表象する人物として描写されている。

なお、ここで注意したいのは、どちらもモデルとなっているのは、「夫人」である点だ。従って、「わたし」にとって時を表象するのは、ゲルマント公爵ではなく、ゲルマント公爵夫人となる。

 

3.死と喜劇と

次は夫であるゲルマント公爵に目を転じて見よう。ゲルマント公爵はいかにも喜劇的な人物だ。

失われた時を求めて』では、警句や箴言のような表現が頻出するが、それに負けじと喜劇的な箇所も多い。「ゲルマントのほう」でもそうした箇所は多く登場し、このゲルマント公爵やブロックなどは、喜劇要員として扱われることが多い。

そうしたゲルマント公爵の登場箇所で興味深いのが、死のシーンとなると、決まって舞台に上げられる点である。

一例目は、第6巻末尾、祖母の死の場面である。

こちらは、祖母の臨終のストーリーを中心に、入れ替わり立ち替わりさまざまな人物が登場し、滑稽な振る舞いをする流れになっている。その、祖母への訪問者の一人がまさにゲルマント公爵である。

二例目は、第7巻の末尾である。

こちらは、ストーリーの中心はゲルマント公爵その人である。ゲルマント公爵は仮装舞踏会へ出かけたくてしょうがない。しかし、従兄のオスモン侯爵の臨終の知らせが届くのではないかと気が気でない。侯爵の容体を気に病んでいるのではなく、万一臨終の知らせが届くと、舞踏会へ行けなくなるからだ。また、いよいよ馬車に乗ろうかという場面では、スワンから余命幾ばくも無い旨の告白を受ける。しかし、舞踏会に行きたくて気がはやる公爵は、スワンに対し心無い言葉をかける。

プルーストはこのゲルマント公爵を操ることにより、喜劇と悲劇、聖と俗とを混然一体として描出しているのである。

私は『ボヴァリー夫人』の農業共進会の場面を思い起こしたが、こうした喜劇と悲劇の混淆は、何も文学に限らず、落語、演劇、人形劇*4などなど、古今東西の優れた芸術において、繰り返し描出されてきたテーマである。

翻って本篇全体を見渡すと、ブロックらを笑いものにするかのような描写や、皮肉交じりの箴言にも、一抹の悲劇性が感じられるようになる。

この人の生に対する重層的な洞察力も、プルーストの魅力の一つである。

 

4.開かれたテクスト

さて、ここまでは比較的大きな視点で本篇を捉えてみた。しかし、プルーストの魅力はこうした点に留まらず、各所で展開される小主題も実に興味深い。

東京大学阿部公彦教授が、『失われた時を求めて』は「つぶつぶジュース」のような小説であると評していた。けだし名言である。

すべてのつぶ(小主題)を噛むことはできないが、時折歯にあたるつぶ(小主題)が心地よい、という趣旨であろう。

ここでは、一例として本作の各所にちりばめられたつぶつぶの中から 、「接吻」にまつわる、キモ鋭い論考(?)を紹介して、記事を終わりにしたい。

にもかかわらず私は、自分の唇が娘の唇のうえで快感をおぼえるだけでは満足できず、娘の唇にも快感を生じさせたいと願い、それと同様に、私への想いがこの存在のなかに入りこみ、居着き、この存在の関心だけでなく賛美の念や欲望まで私のほうへと惹きよせ、再会できる日までその存在が私の想い出を忘れないよう仕向けたいと願った。(第4巻、p.176)

「もしほんとうにキスさせてくれるなら、それは後の楽しみにとっておいて、ぼくの好きなときにキスさせてくれると嬉しいんだけど。ただしその場合、キスしていいといったことを忘れちゃいけないよ。ぼくには「接吻許可書」が必要なんだ。」

「あたしのサインなんて要るのかしら?」

「もし今すぐ許可書をもらえるんだとしても、後からもうひとつ許可書をもらえるかい?」(第7巻、p.58)

私は肉体というこのバラの味をこれから知ることになると思いこんでいたが、それはウニと比べて、いやクジラと比べても明らかに一段と進化した生物である人間でも、やはり肝心の器官をいくつか欠いていること、とりわけ接吻に役立つ器官をなんら備えていないことに思い至らなかったからだ。人はこの欠けた器官を唇によって補っているので、愛する女性を角質化した牙で愛撫せざるをえない場合よりは、いくらかは満足できる成果が得られているのかもしれぬ。(第7巻、p.60) 

 

いずれも、接吻(キス)を巡るキモい文章である。

しかし、よくよく読んでみると、いずれの引用箇所でも、欲望の充足であるはずの行為が不満足を招来していることがわかる。一つ目の箇所では別の新たな欲望を招き、二つ目の箇所では量的な不足を覚え、三つ目の箇所では質的な不足を嘆いている。

そう考えると、これらの描写はいずれもスワンの恋」で描かれたスワンの嫉妬の病理分析の変奏曲であることが理解されるのだ。

 

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第5巻、p.27より「ツルニチニチソウ

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆

第二篇のときと同様、記述済の背景や本の作りへの言及は省略する。

 

 

*1:第1セット目では、幕間にラ・ベルマの観劇と、ラシェルの小劇場の場面が挿入され、芸術の側面も追加される

*2:ローム大公→ゲルマント公爵など

*3:この表現にしたのは、オリヤーヌに限らないことを示したかったがためである。

*4:ウクライナには、下段で世俗劇、上段で聖書劇を演じるヴェルテップと呼ばれる二段式の人形劇があるそうで、これがゴーゴリドストエフスキーブルガーコフらに影響を与えたとされる。