ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

『失われた時を求めて』第5篇「囚われの女」マルセル・プルースト/吉川一義訳

認識論的、蒐集的

朝、顔はいまだ壁のほうへ向けたまま、窓にかかる大きなカーテンの上方に射す日の光の筋がどんな色合いであるかを見届ける前から、私にはすでに空模様がわかっていた。通りの最初の物音が、やわらかく屈折して届くとそれは湿気のせいにちがいないとか、矢のように震えながら届くとそれは朝の冷たく澄んだ広々としてよく響く虚ろな空間を飛んできたにちがいないとか、そのときの天気がわかるのだ。始発の路面鉄道が通る音を耳にするだけで、私にはそれが雨のなかで凍えているのか、それとも青空へ向けて飛び立たんとしているのかが聞きわけられた。(第10巻、p.21)

<<感想>>

長く続けてきた『失われた時を求めて』の感想も、ようやく第5篇である。

第4篇まででは、本作を読もうとしている、あるいは読みつつある方の意思を極力挫かないように、読解の見取り図を示したり、読みどころを紹介することに心を砕いてきた。

しかし気づけばもう第10巻だ。そろそろ好き放題書いても良いのではなかろうか・・・。テクストを奪い取れ!

 

と、その前に、最低限、今回取り上げる立ち位置を確認しよう。

今回は第5篇「囚われの女」を取り上げる。

本篇は、これまでの各篇と異なり、部や章に分かたれていない。正確な理由はわからないが、これは本篇以降の各篇が死後出版であることと無関係ではないのだろうか。

なお、本篇の基礎となっているのは、草稿→清書原稿→タイプ原稿という制作過程のうち、タイプ原稿にあたるもののようだ。しかし、プルースト自身はこの最終段階であるはずのタイプ原稿にも猛烈な加筆を*1加えていたそうだ。

内容面についていえば、慧眼な訳者により、本篇がおおよそ六つの一日*2と最後の朝との7パートに分かれて描かれていることが解説されている。

岩波文庫版では、2つ目の一日までが第10巻、3つ目から6つ目の一日と、最後の朝が第11巻に割り振られている。

もう一つ、構成上の注目的としては、本篇が第6篇と対をなしている点が挙げられる。

プルーストが構想していた第6篇の題は二つあり、それぞれ「逃げ去る女」と「消え去ったアルベルチーヌ」という。どちらを採用すべきかについては諸説あるようだが、「逃げ去る女」という題を構想していた時点で、本篇「囚われの女」と対称関係にあるのは明らかだ。

 

さて、本篇(と次篇)はその成立史からもわかる通り、本作内部に存在する壮大な脱線系の結節点である。すなわち、一つ目の脱線系は「花咲く乙女たちーアルベルチーヌ」脱線系でる。そして、二つ目の脱線系は「ソドムとゴモラ」脱線系である。

誤解を恐れずにいえば、本作はこの二つの脱線系がなくとも、十分に成立しえたはずである。しかし、この二つの脱線系が、本作をより魅力的なものにしているのもおよそ間違いないだろう。

本篇は、さながら連理木のように、枝別れたしたこの二つの脱線系が統合して物語を織り成しており、その中心にいるのはもちろん、アルベルチーヌである。

 

そのアルベルチーヌとは、いったい何者なのだろうか?

これはなんの寓意像なのか?私の死の寓意なのか?私の恋心の寓意なのか?やがてアルベルチーヌの一様な寝息が聞こえはじめた。(第11巻、p.384)

アルベルチーヌとは、海であり花である。土地であり、植物である。

アルベルチーヌとは、囚われの女であり、逃げ去る女であり。ブリショ風(11巻、p.210)にいうならば、イデアであり、神であり、物自体である。

そして、絶対的な他者である。

 

本作の物語は、コンブレーの記憶から始まる。

コンブレーは、原初の混沌であり、失われた楽園である。「わたし」のカテゴリーあるいは先験的認識である。出発点であると同時に終着点である。「わたし」が生まれくる胎内であり、墓(Tombe)である。

 

本作の登場人物のほとんどは、コンブレーにルーツをもつ。

「わたし」の一族やスワン・ジルベルト・シャルリュスについては指摘するまでもない。ゲルマント家の祖先はコンブレーの教会に描かれ、その礼拝室も墓もコンブレーにある。カンブルメール夫人はそもそもコンブレーに住むルグランダンの妹だ。ヴァントゥイユが住んでいたのも、コンブレーの郊外である。オデットやモレルは無関係のように思えるが、前者は「わたし」の叔父の元愛人である点で、後者は「わたし」の叔父の従僕の息子である点で、コンブレーの刻印を背負う。

本作の主要登場人物のうち、コンブレーに根差さない者は、ほぼ唯一アルベルチーヌだけだ。即ち、他の人物とは決定的に異なる、楽園の外の人間、「わたし」が経験によってしか知覚しえない他者なのである*3

 

「わたし」にとってのアルベルチーヌは当初、聴覚によってもたらされた(第3巻、p.192)。続いて、バルベックではポリプ母体(第4巻、p.396)あるいは珍しい品種の花々(第4巻、p.345)として認識される。

「わたし」は、そのバルベックで1匹のチョウ(第4巻、p.345-346)を採取し、自身の頭蓋内であるパリのアパルトマンに持ち帰る。

そもそもこの時期の私は、とりわけ室内から外部の生活を把握していた。(第10巻、p.22)

訳者も指摘するとおり、本篇でとりわけ重視されるのは聴覚による知覚である。

そして、本篇で「わたし」にもたらされる最大の聴覚刺激は、ヴァントゥイユの七重奏曲である。この七重奏曲では、ヴァントゥイユのソナタの小楽節が仄めかされる(第11巻、p.136)。

その小楽節の主題は、愛の国歌であり、花言葉は嫉妬である。そして、「ヴァントゥイユ」が甦らせるのは、ゴモラの記憶である。

このため、本篇で「わたし」が感得するのは、愛と、嫉妬と、同性愛の記憶である。

 

それ故にこそ、身中に取り込んでなお、アルベルチーヌを完全に所有し、完全に認識することままならない。

人が愛するのは、いまだ完全に所有するに至らないものだけである。(第10巻、p.230)

完全に認識し、完全に所有するためには、規定し、名付け(過去記事)、固着しなければならない。

・・・ファーストネームには強大な力があり・・・、絶対的所有の意味しか持ちえない、・・・(第10巻、p.216)

そもそもアルベルチーヌといい、アンドレといい、その実態は何なのか?それを知るには、乙女たちよ、きみたちを固定しなければなるまい。つねにすがたを変えるきみたちを不断に待ち受けて生きるのをやめなくてはなるまい。(第10巻、p.139)

こうして、アルベルチーヌは、「わたし」によって、海にされ*4、花にされ*5るのである。

少女を見つめる「私」の視線には、類い稀な美しい蝶を針でとめるコレクターの震えがある。その下のラベルには、発見した土地の名と、自分の名を模した学名が記入されるのだ。(『プルースト的冒険』湯沢英彦著、p.293)*6

しかし、こうした試みは当然失敗に終わる。

先に指摘したとおり、アルベルチーヌは本質的に他者である。経験の背後にある物自体を認識することが不可能なように、他者を完全に認識し、所有することなど、土台不可能な試みに過ぎない。本当に囚われているのは、頭蓋骨という牢獄の中にある「わたし」の認識能力なのである。

こうして、アルベルチーヌは必然的に逃げ去る女へと変貌する。蝶は針をすり抜け、生気を取り戻し、展翅版の上から再び飛び立っていくのだ。

 

アルベルチーヌについては、ジルベルトとは異なり、物語の最後の最後まで、ついぞ神視点からの描写がされることがない。

このため、読者にとって、人物としての像を結びにくい登場人物になっていることはたしかである。

しかし、その認識の不可能性こそが、プルースト的認識論の真骨頂なのである。

 

このあと「わたし」は、アルベルチーヌが逃げ去ってなお、彼女の影絵を蒐集するが、それは第6篇のお話である。

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第10巻、p.244より、「マルバアサガオ*7

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆

これまで同様、記述済の背景や本の作りへの言及は省略する。

 

この他、『失われた時を求めて』についての記事は以下で。

*1:たしか、作品全体のタイトルも、この段階で変更になっていたように思う。

*2:具体的な一日ではなく、抽象的な一日

*3:このほか、コンブレーとの関係性が薄い人物としては、ベルゴットが挙げられるが、同人は「わたし」が少年期に憧れた人物であり、物語構成上の出自はやはり「コンブレー」にある。あるいは、「小派閥」の面々(含・エルスチール)なども、この例に漏れるが、ある種「わたし」の前世の記憶である「スワンの恋」に登場し、やはり物語構成上の出自は第1篇にある

*4:第10巻、p.156-157、p.210

*5:第10巻、p.151、p.244など

*6:この引用箇所は、第10回のセミナー(過去記事)の際に、『プルースト芸術と土地』の著者である小黒昌文先生に教えて頂いた

*7:GFDL. Ver.1.2.