ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-02②『カッサンドラ』クリスタ・ヴォルフ/中込啓子訳

闘いからの卒業

アンキセスはかつて言っていた。ギリシャ人にとって、あのいまいましい鉄の発明よりもっと重要なのは、感情移入の才能であったかもしれないのにな、と。ギリシャ人は、善と悪という鉄の概念を自分たちばかりに適用しているわけではない。そうじゃなくてわれわれトロイア人にも当てはめているのだよ。(p.486)

<<感想>>

自由な創作環境は、優れた芸術を生み出すための重要な要素である。

しかし、時として抑圧的な環境であったが故に、その制約を逆手にとった傑作や、抵抗としての、あるいは反逆としての芸術が生まれることもある。

本作『カッサンドラ』もそんな作品の一つである。

 

ところで、この『カッサンドラ』、実は読み通した人はものすごく少ないのではないだろうか*1。この作品、非常に高度でかつ完成度も高いのだが、その反面、非常に難読なのだ。私の感覚だと、第1集からここまでの作品の中では最も難読であるように思う。

なぜ本作が読みづらいのか考えると、その理由は恐らく次の3つに求められる*2

 

1.トロイア戦争を中心としたギリシア神話に対する予備知識が求められる

2.叙述の形式が一人称回想体で、かつ、主人公の自意識が強め

3.主人公は抑圧下にあり、これに対する怒りなど、読み手に負の感情を与える描写が多い

 

当初読み進めているうちは、私はこれらの読みにくポイントは、作者のウィークポイントであると考えていた。しかし、実は、これらの読みにくポイントは、作品の持つ思想性と密接不可分であると同時に、相互に分離不可能なのだと気づいた。

先にネタばらしをしてしまうと、作者は、まるで尾崎豊のように抑圧に対する怒りに打ち震え、自由を渇望しているのである。

それはなぜか。作者が、東ドイツで暮らした作家であり、そして女性であったからだ。

そして作者は気づいていた。自らを抑圧するのは、男性たちだけであるのみならず、男性的な価値観―戦争、勝利、客観性、合理性等々でもあることに。

ここに作者の企てが始まった。男性的な価値観によって描かれた物語を価値転倒しようという企てが。この目的に格好の標的が、『イリアスだったのだ*3

その結果、当然この物語は抑圧と怒りの物語になる。『イリアス』を転倒させる以上、『イリアス』についての予備知識は必須だ。そして、背景に潜む男性的な価値観をも批判にさらすためには、それと異なる方法論―主観的・独断的な文体*4を取らざるを得ない。

 

恐らく、作者がやっていることは、環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏がやっていることと同じだ。怒る女性。正論を吐く女性。理想論を唱える子供。男性が創り上げてきた既存の価値観を覆す女性。中年男性(と、その価値観を受け入れている女性)に嫌悪感を催させるのも想像に難くない。

さて、ではもう少し具体的に中身を紹介してみよう。

まず本作は、『イリアス』の世界=ギリシア神話におけるトロイア戦争の話を舞台にしている。トロイア戦争とは、攻め手のギリシアv.s.守り手のトロイアの戦いであり、『イリアス』などの叙事詩では通常攻め手のギリシア側の視点から描かれている。

本作の主人公であるカッサンドラは、トロイア側の王、プリアモスの娘である。カッサンドラは、ギリシア神話においては、「神によって予言の能力を授けられると同時に、その予言を誰にも信じて貰えない呪いを受けた」という設定が与えられている。

双方のファンの反感を買いそうだが、もともとの『イリアス』はジャンプ作品のようなものであり、畢竟男の子のための物語である。

味方の英雄が、敵方の英雄と戦う。より強力で勇敢な味方の英雄が勝利を収める。戦いの大義は味方にあり、そこに疑問や葛藤はない。神々も魔法の力も素朴実在論的に血肉をまとって存在する。その世界を生きる人々の感情の機微や情念が描写されることはない。

 

作者ヴォルフは、これを一つ一つ丹念に覆していく。

 

例えば、『イリアス』最大の山場である、ギリシア側の英雄アキレウストロイア側の英雄ヘクトルとの戦いの場面。

『カッサンドラ』におけるヘクトルは、英雄ではなく英雄に祭り上げられてしまった人物として描写される。

わたしの兄弟の中には、戦闘で先頭を突き進んで行くのに、はるかにふさわしい兄弟があと二、三人はいた、ヘクトルよりも。けれどもエウメロス*5は、王妃のお気に入りの息子を選び、王妃に打撃を与えようともくろんだのだった。もしヘクトルが英雄として真価を発揮しなければ、ヘクトルは母親もろとも、町じゅうの物笑いの種にとなる。そして、もしみんなの要望どおりに、先頭に立って戦いに赴けば、ヘクトルは遅かれ早かれ戦死することになる。呪われるべきはエウメロス。(p.462)

一方のアキレウスは、残虐な殺戮者として描写され、「けだものアキレウス」という表現で呼ばれることになる。

この他にも、そもそも戦争の原因であったはずのヘレネ*6が、実はトロイアには居らず、またその事実を両軍首脳とも知っており、真の戦争の理由は海運利権であるといったような設定が差し挟まれている。

あるいは、『イリアス』が人智を超えた事象を神々の行いとして解釈したのと反対に、『カッサンドラ』では、「生け贄」や「お告げ」など、神々に帰せしめられていた事象を、人間たちの欲望や政治的な思惑によるものと再解釈していく。

このように、本作では、英雄叙事詩であったはずのトロイア戦争が、愚かな人間たちによる醜い戦争に読み替えられていくのである。

 

そして、本作最大の読み替えは、カッサンドラの予言能力についてであろう。

誤解を恐れずにいえば、本作のカッサンドラに予言能力はない。

本作のカッサンドラは、予言もするし予見もする。そしてそれは全部当たりもする。しかし、これが魔術的な、あるいは神ががかり的な「予言能力」として描写されているわけではないのだ。つまり、単にカッサンドラは、周りの男性たち・大人たちが見ようともしない、あるいは不当に評価するモノゴトを正しく見て、正しく判断し、その結果、予想した未来(=戦争の敗北)が現実化しているだけなのである。

わたしが見たことを必ずしもみんなが見ることができたわけではないという事実、これがわたしには長いことわからなかった。みんなは、いろいろな出来事の、赤裸々で、意味のない形態を知覚してはいなかったのだという事実を。・・・みんなはじつのところ、自らを信じていたのだ。それにも、一つの意味があるにちがいない。・・・それはひたすら見ないですむためになのである。いったい何を?われわれ自身を。(p.390)

今こそわたしは、神の摂理を理解した。汝は真理を語るが、誰ひとり汝の言葉を信じようとはしないであろう、という摂理を。ここには、わたしの言葉を信じてくれるに違いないと思われる人など、誰ひとり立っていないのだった。・・・信じる能力がない、どこの誰でもない人。(p.530)

このようにしてヴォルフは、『イリアス』を、男性とは異なる行動と認識の方法論を持っていたが故に、ただ一人真理を認識しえた女性の物語に再構築したのである。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆

 

おまけ

完全に余禄であるが、私が尾崎豊感を感じ取った場面を引用する。

かつてのわたしであるあの少女の身のこなしと同じように、わたしの掌中にない手綱であやつられていればいいのに。・・・ほがらかで、悪びれず、希望にあふれ、自分自身も他の人も信頼し、その姿に人が認めたものをうけるにふさわしく、自由で、ああ、自由そのもの。でも現実には束縛されていた。あやつられ、みちびかれ、他者が定めた目標へと突き動かされていた。屈辱的だった。(p.362)

大人であるということは、この演技で、つまり、自分自身をなくすことで成り立っているのだ、と考えていた。(p.368)

おまけのおまけ

これまた本作と同じ匂いがするレコア・ロンド*7の台詞より。

男達は戦ってばかりで、女を道具に使う事しか思いつかない…もしくは、女を辱める事しか知らないのよ!!(第49話)

 

<<背景>>

1983年刊行。ベルリンの壁崩壊が1989年であるから、その6年前ということになる。

イリアス』の成立は紀元前8世紀まで遡るようだ。

本文でも触れたヴァージニア・ウルフの代表作『灯台へ』は、1927年の作品。

本作の文体は恐らくウルフからの影響と思われるが、その実、その使用目的は全く異なる。

ウルフの場合、時間の中の微視的な何かを捉えるための手法といった趣だ。このため、読み味としては非常に繊細に感じられる。

他方、ヴォルフの場合、女性の主体性を表すための手段として、主観的であることが求められている。このため、読み味としては、強烈な自意識・自己主張が感じられるものになっている。

本全集の中では、『灯台へ』よりもむしろ『鉄の時代』(1990年)の方がよく似ている。政治的抑圧が作品の成立背景にあることや、終始絶望感が漂っているところが共通点である。

ただ、決定的に違うのが、筆者と語り手の距離感だ。クッツェーは、(男性でありながら)敢えて老婆を主人公に据えることで、語り手との距離を取っている。

また、終始絶望的な物語のように見えて、『鉄の時代』にはまだ希望が見出せる。そうすると、『鉄の時代』というタイトル*8自体、むしろこの『カッサンドラ』にこそふさわしいように思えてくる。

女性の文学という観点からは、『ジェイン・エア』(1847年)も忘れてはならない。

ジェイン・エア』と本作に共通するのは、物語の原動力が怒りである点だ。

あるいは、読み替え文学という観点からは、どちらも本全集所収の『サルガッソーの広い海』(1966年)や、『フライデーあるいは太平洋の冥界』(1967年)との対比も面白いかもしれない。 

<<概要>>

本作には部や章、節の区切りが一切ない。

私の記憶が正しければ、行アキやアスタリスクさえなかったように思う。

これも本作の読みにくさを助長している一因かもしれない。

基本的に語りの構造は一人称回想体であり、物語の末尾で時間軸が語りの時点に追いつく形式となっている。このため、ところどころ時系列が遠い過去から近い過去に突然飛ぶため、やや時系列が錯綜する。

しかし、トロイアからギリシャへの出船の話になったあたりから、ほぼ時系列は一定するため、そのあたりからはだいぶ読みやすくなる。

ギリシャ神話に登場する人物と、全く登場しない若しくは本作で造形が大幅に膨らまされた人物との切り分けが出来たほうが、物語の創意が上手くくみ取れるように思える。

他に、作劇の大枠的なところで目を引くのは、女性の主人公に、愛する男性(アイネイアス)がいるにも関わらず、その主人公が、自ら進んで、何度も、ほかの男性に身を任せるという点だ

男性が書いたメジャーな文学作品に、そのようなものがかつてあっただろうか。

そうした作品が珍しいということは、暗黙の裡に女性が抑圧的な環境に置かれていたことと同義だ。女性の自立という観点からは、性的自己決定権や性的道徳規範の自律が重要な視点で、当然作者もそこに自覚的であったのだろう。

<<本のつくり>>

1997年に初訳された訳文を再録したもののようだ。

私自身、ドイツ語は一行も読めないし、翻訳で読む以上、訳文には全幅の信頼を置かざるを得ないのだが、なんだかいまいちしっくりこない。

巻末に、「作品解説」が載っているが、こちらはもっぱら「作者解説」に終始しているうえに、どうにも日本語としてのこなれ感に乏しく、私とは周波数が合わない。

なお、ギリシャ神話由来の登場人物にはところどころ訳注が付されるているが、前提知識が全くない場合にはあまりにも訳注が少ないし、逆に前提知識がある場合には、あまりにも情報量が少なく、こちらもなんかいまいちしっくりこない。

*1:検索しても本全集所収の他の作品ほどには書評が出てこない

*2:この3つのほかにも、時系列が複雑な点も読みにくい理由として挙げられそうだが、時系列が複雑なだけなら、ほかにもさまざまな作品があるし、物語中盤からはほぼ単線的な時系列になるため、数には入れなかった。

*3:作品の紹介だけで手いっぱいで、本文では到底書ききれないが、作者の攻撃の射程は、西洋知のそもその成立基盤であるギリシア思想な「知」に及ぶものと思われる。むしろ、逆に、西洋知の根源がギリシア思想であるからこそ、その根源の物語である『イリアス』を題材にとったのではなかろうか。ギリシア的な「知」の有り様以外の「知」が成立しえたのではないか、といった考え方が随所に立ち昇ってくる。例えば、冒頭に引用したp.486やp.524の後半など。

*4:文体自体は恐らくはヴァージニア・ウルフからの借用である。

*5:恐らくはヴォルフが創作した人物。ヘクトルの弟であるパリスを担ぎ、実質的にトロイアの政治を牛耳る人物。

*6:トロイア戦争の発端は、ギリシア側のメネラオスの妻ヘレネーを、トロイアの王子パリスが攫ったことだとされている。

*7:Zガンダムというテレビアニメの登場人物。女性。

*8:「鉄の時代」とは、ギリシャ思想由来の時代区分。「黄金時代」が終わり、人類が地上の主となり、武器を取って醜く争い出す時代のことを指す。