ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-03①『マイトレイ』ミルチャ・エリアーデ/住谷春也訳

バッドエンド至上主義

「アラン、見せたい物があるの」と、最高にへりくだったメロディアスな声で言った。(へだてのない言葉遣いができるように彼女はベンガル語で話していた。二人称が you 一つしかない英語の平板さが不服だった。)(p.102)

<<感想>>

文明化されていない人々の神秘的な暮らし、卓越した物語運び、人々の愛、そして素敵なもの何か。

これに豚のしっぽを加えれば『百年の孤独』【過去記事】が、ケミカルXを加えれば『パワー・パフ・ガールズ』ができ上がる。

そして、適度な温度調整がされたエロ描写を加えるとできるのが、『マイトレイ』である。

 

主人公アランは20代前半の若い白人の技師。植民地インドで鉄道敷設という「パイオニア生活」に従事する。マラリアによる入院をきっかけに、上司であり、地元の強力な有力者でもあるナレンドラ・センから、自邸への寄宿を提案される。そこで暮らしていたのが、16歳になる娘、マイトレイであった。

 

もうこの4行だけでオイシイ設定が渋滞を起こしている。

若い男女が一つ屋根の下。もうこれだけで恋愛(あるいは性愛)物語を始めるには十分だ。

そして古今東西、恋愛物語には障害が必須の要素である。古くは『ロミオとジュリエット』から、『冬のソナタ』まで、障害があるからこそ恋愛物語は輝く。本作では、言語の壁、文化の壁、そして宗教の壁が立ちはだかる。これに、古くから自由恋愛の大敵である父権主義と抑圧的な性的規範の壁という二大障害が彩りを添える。

特に、文化的コードの相違は、相手を神秘的な謎に包まれた人物に仕立て上げ、恋のるつぼに叩き落とすのである。

 

これだけの美味しい設定に、巧みなストーリーテーリングが加われば、ベストセラー間違いなしである。本作が無名すぎるためその心配はなさそうだが、適当に舞台設定を移し替えれば、すぐに映画か昼ドラの脚本くらいなら作れそうだ。

 

物語は、先に挙げた数々の障壁を一つずつ乗り越えていく形で進んでいく。

たとえば、アランがマイトレイにフランス語を、マイトレイがアランにベンガル語を教える遊びを始めるシーンが用意される。あるいは、アランが、脚の触れ合いによる親愛の情の表明というインド式の習俗を学び、これがのちの官能的なシーンへと発展する。

恋愛感情とエキゾチズムの混淆。

アランが、性的規範の相違に気づく場面などは、こうした物語の構造が凝縮されている。

インド人の伝統に従えば、私たちはベッドで結ばれて、私たちの愛撫から命ある果実が、子供が現れなくてはならない・・・。というのは、さもない限り、愛は滅び、喜びは不毛に終わり、私たちの結びつきは悪徳に至るゆえに・・・。

そのことを私に求めるようにマイトレイを強いるもの、それは官能や私への愛ではなくて、一つの信仰であり、業への、神々への、祖先への畏れなのだと分かって、私は驚倒した。その夜私は思いめぐらした。感覚にほんとうに誠実なのは、肉欲にほんとうに無垢なのはどちらか、彼らの方か、われわれ文明人の方か?(p.114)

エキゾチズムといえば、恋愛抜きにしても、著者の表現力は高い。

そのとき、私のうちになにか未知の魂が声を上げた。この不思議なインドのすべてによって呼び出されて。森には始めも終わりもないように見えた。樹齢も分からぬユーカリの木の間にうかがわれるのは空なのか、遠い星と蛍の見分けがよくつかない。人口の沼のほとりに出た。・・・そのとき、あの黄金の粒々を映してさざ一つ立てない湖面にはりついた蓮の葉はどんな魔法を醸し出していたのか?私は何度も首を振ってみた。それというのも、あたりはまるでおとぎの国となり、私の中の青年は、あの魅惑的な幻想時代の人間は、この動かぬ沼を前に私たちがいることの非現実性、聖性に恍惚としていたから。(p.115-116)

さて、こうした描写は確かにすばらしいのであるが、私にはこの物語は気に入らなかった。

その理由をよくよく考えてみると、大きく二つの点が不満なのがわかった。

 

不満の一つ目。これは、オリエンタリズムの問題、コロニアリズムの問題、フェミニズムの問題と似て非なる何かである。

果たして本作は、登場人物の性別が逆だったら、人種が逆だったら、年齢が逆だったら、成立しえたのだろうか?

まだしも成立しそうなのは年齢くらいだろうか。むしろ、有色人種の女性が、年若い白人男性をゲットする恋愛物語が成立するなら、私はそちらの方こそ読んでみたい。

もちろん私は、主義者ではないし、今日的な視点で過去の文学作品を道徳的に非難するつもりもなければ、すべての社会的諸条件が文化的背景を脱色された記号と化すべきと考えているわけでもない。

また、著者自身も恐らくこうした問題点を意識的にか無意識的にか感じ取っており、それぞれの問題にきちんと手当がなされている。

具体的には、マイトレイが未熟な人物として書かれていないばかりか、むしろアランがマイトレイを通じて自身の未熟さに気づく場面が挿入される。これは性愛の場面においてさえも、だ。

あるいは、アランをして宗教的な転向を考えさせる場面を差し挟むなど、美化された搾取の物語にしないような配慮が行き届いている。

 

しかし、この「似て非なる何か」の匂いを感じるのは、書かれている内容というより、むしろ、書かれ方によって、である。

本作は、一人称回想体で書かれている。

恋愛物語の序盤、「ああ、彼女は私を愛しているのだろうか?」であれば、何の問題もない。むしろ、恋する男性の懊悩と、相手の女性への不安、嫉妬、これを表すのには一人称体こそ最適だろう。

ところが、恋愛物語の後半、「あのとき、彼女は確かに私を深く愛していた」となると、これは傲慢という他ない。これがただの恋愛物語なら、まだ目をつぶることもできたのかもしれない。しかし、本作は、先に挙げたとおり、二人の相互理解を妨げるはずの、社会的・文化的諸条件が勢揃いしている。

それにもかかわらず、一人称視点でマイトレイがアランを深く愛していた、と表現するのでは、せっかく苦心して閉じた蓋の中から、無意識下の傲慢の臭いが漂ってくる。

 

不満の二つ目。これは一つ目の不満点と表裏の関係にある何かである。

冒頭で4行に要約した本作のあらすじからもわかるとおり、必然的に本作は悲恋物語になる。端的にいえば、父権の介入により、愛は結婚に結実しない。

しかして、それは本当に悲しい結末なのだろうか?

いや、むしろ恋物語は、本質的にハッピーエンドなのである。

 

恋物語は、恋が成就しないことの悲しさを詠う物語だ。すなわちそれは、愛の尊さという価値観の共有が前提とされている。このため、悲恋物語では往々にして恋は破れるものの、愛は勝利する。

例えば、『ロミオとジュリエット』でも、二人の恋は成就せず、死という最悪の結末を迎える。しかし、モンタギュー家とキャピュレット家の和解という果実をもたらし、愛は勝利するのだ。

 

本作も構造的には同様である。父権の介入により、恋は破れる。

しかし、その後語られる後日譚で、アランの愛も、マイトレイの愛も消滅していないことが示される。すなわち、本作ではそのコーダ部において、愛の永遠性が高らかに歌い上げられるのである。

 

そして、こうした通俗的な価値観の称揚にもある種の傲慢を感じざるを得ない。

私としては、やはり芸術は既存の価値観を揺さぶるものであって欲しい。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆

 

<<背景>>

1933年発表。著者26歳の作品である。

本作の解説などを読むと、やたらと自伝的小説であると書かれる。

事実そうなのかもしれないが、現実に生気したことをそのまま文字に転写することは不可能であるし、また、現実に一切根ざさない小説も不可能である以上、「自伝的小説」というレッテルにあまり意味はないだろう。

むしろ私が面白いと思ったのは、筆者がマイトレイのモデルになった人物と数十年の時を経て再開したこと、そして、その再開時の筆者の態度が終始冷淡であった、というエピソードの方である。こちらの方がよほど文学的だ。

まるで、三島由紀夫の『豊穣の海』ではないか。

愛も記憶も、不滅ではない。 

 

<<概要>>

全15章構成。章題等は付されない。

構成は非常に上手く、物語の進行に応じてテンポよく章わけされる。

最初に読んだときは、13章で終わりかと思い、ページを繰って14章が始まったときには驚いたものである。

14章と15章はそれぞれ後日譚的な位置づけで、14章はアラン側の、15章はマイトレイ側の愛が死んでいないことが確認されるだけだ。

正直13章で終わりでも良かったのではないかとも思う。

本文でも触れたとおり、叙述は一人称回想体である。

アランが恋に落ちていきつつある場面では、物語の現在時に書かれた日記、後日に書かれた<注釈>、地の分(=回想している時点)の三つの時を上手く使い分けてアランの懊悩を書き表しており、文体が上手く機能している。

 

<<本のつくり>>

訳注はほとんどないが、多くの訳注が必要になるほど難しい物語ではない。

訳文は、1999年に訳されたものの再録のようだ。訳文は新しいし、読みやすく、そもそも物語自体もとても平易だ。

訳者自身による解説が付されるが、なぜか物語にはあまり言及されず、物語の成立史と成立背景にばかり言及が及んでいる。