ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』ウラジーミル・ナボコフ/富士川義之訳

セバスチャン・ナイトは私だ

きみと一緒の生活はすばらしかった―そしてぼくがすばらしいと言うとき、ぼくは鳩や百合の花、そして天鵞絨(ヴェルヴェット)、さらにその単語のあの柔らかなVと長く引き伸ばしたlの音に合わせて反り上がったきみの舌の反り具合のことを言っているのです。ぼくらの生活は頭韻的でした。(p.161)

Life with you was lovely - and when I say lovely, I mean doves and lilies, and vellvet, and that soft pink "v" in the middle and the way your tongue curved up to the long, lingering "l". Our life together was alliterative...(PENGUIN MODERN CLASSICS,p.98)

<<感想>>

本作の語り手は「セバスチャン・ナイト」の異母弟である。

セバスチャン・ナイトは、夭折した小説家であり、どうも語り手はその伝記を書こうとしているらしい。そして、この『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』こそが、その伝記そのもののようだ。

語り手はセバスチャンと交流のあった人物などから取材を進めていく。また、セバスチャンが書いたとされる作中作からの引用を行う。その取材と引用によって、モザイク式に、少しずつ、セバスチャンの年譜やその作中作の概要が明らかになっていく。そこでは語り手の辿る道と、これらの作中作とが次第に混淆してくる。

ざっとまとめると、本作のプロットは大よそ以上のような仕掛けになっている。

しかし、本作において重要なのはプロットではない。それは作品中で展開される文学論からも、『文学講義』などで披歴されるナボコフ自身の文学観からも明らかだ。

本作において重要なのは、この入れ子上になった技巧的なプロットの上に展開される、素晴らしくも美しいその細部にある。

文学はまずおもむろに千切ったり、裂いたり、潰したりしてから―その愛らしい生臭さを掌のくぼみに嗅ぎつつ、口に入れてよく噛み、舌の上にころがしてじっくり味わうことだ。(『ロシア文学講義 上』河出文庫、p.241)

『文学講義』は、いつでもナボコフ読解のための攻略本である。そのため、以下では『文学講義』ばりに、本作の細部について箇条書き的に記してみる。いわゆるネタバレが本作の価値を貶めることは一切ないが、お嫌いな人はどうぞ続きを読まないようにお願いします。

美文名文

ぼくの脳裡にいつも浮かぶ父についての第一印象は、玩具の汽車の片方をまだ手にぶらさげたまま、シャンデリアの水晶の垂れ飾りが思わずひやりとするほど頭の近くにまで迫るくらい高々と、ぼくの身体がいきなり床から持ち上げられるという、はっと息をのむようなものだった。(p.11)

幼い頃に亡くした父の印象についての一文。

ナボコフというと、偏執狂的な文章がイメージされるが、こうした繊細な描写も持ち味の一つである。

ナボコフのカメラ

ぼくは、六つ年上の少年時代のセバスチャンが、豪華な石油ランプの点った家庭的な雰囲気のなかで、上機嫌で水彩絵の具に手を出していた時のことを思い出す。・・・黒髪はきちんと刈り込まれ、薔薇色に透き通った耳の上に小さな生まれつきの痣が見える―ぼくはそのとき椅子の上によじ登っていたのだ―だが、ぼくが危なっかしげに手を突き出して、絵具箱のなかの一番青いチューブを突つこうとするまで、彼は僕を無視しつづける。(p.23)

少年時代、六つ年上の兄の耳の上はふつう見ることができない。ナボコフはこういうところを見逃さない。

他のナボコフ作品との共鳴

・・・ジェファーソン氏は自分の知っているありとあらゆるロシア語を全部彼に喋り―それは何年も前に、モスクワ旅行の途中で収集したたくさんの難しいロシア語だったのだが―さらにもっと自分に教えてくれるように頼みこんで、堪忍袋の緒が切れる寸前まで、セバスチャンを追い込んだのであった。(p.73)

セバスチャンのケンブリッジ時代の個人指導教授である。この人物には『偉業』に出てくるアーチボルド・ムーン教授の面影がある。似た造形の人物が別の作品で登場することは、ナボコフ作品ではしばしば見られる。

教授はかなり長いあいだロシアに暮らしていて、いたるところを訪れてありとあらゆる人たちに会い、何でもかんでも見て回ったものだった。・・・

ムーンが一冊の分厚い書物のなかにロシアのすべてを納めようと英語でその歴史をしたためてから、はや二年が経とうとしていた。(『偉業』光文社古典新訳文庫版、p.129-131)

また、この記事の冒頭に引用した、いかにもキモいナボコフらしい文章は、セバスチャンの作品(作中作)『失われた財産』に登場するラブレターの中の一節である。セバスチャンは本物の恋人に向けてこの一節を書いたことが仄めかされている。この文章は、後のハンバート・ハンバートと、あの壮麗で美しい冒頭の一節とを既に胚胎している。

モザイクの中の小細工

作中の1924年-1930年、セバスチャン・ナイトはクレア・ビショップという女性と交際をしていた。語り手の調査によれば、1929年6月に、ブラウベルクで出会った「謎の新しい恋人」のため、クレアとは破局をしているようだ。

語り手は苦労の末「謎の恋人」候補を4人にまで絞り込み、一人ひとりその自宅を訪ねていく。

二人目の家では「謎の恋人」候補の元夫が、前妻(=謎の恋人候補)の強烈な性格を語りだす。その傍らで、その子と子の叔父がチェスに興じている。語り手はその候補者が果たして「謎の恋人」なのか否か、確信を持つことはできない。

パール・パーリッチは電光石火に突撃し、クイーンをビショップと取り代えた。(p.208)

この一節は、元夫(=パール・パーリッチ)が、前妻について語りだす前に置かれている。むろん、クイーン気質の前妻が(クレア・)ビショップに代わったことを仄めかしているのである。ナボコフは『ロリータ』でも似たような仕掛けをしている。

ナボコフ式ユーモア

ああ、ぼくの左隣で船をこいでいる馬鹿でかい怪物は女なのだ。オーデコロンとわきがのにおいが互いに優位を占めようと競い合っていたが、前者の負けに終った。(p.288)

こうした日常に潜む滑稽さをユーモアに変える(いわゆるあるあるネタ)才能もある。特筆すべきは、この一文が差し挟まれているのが、セバスチャンの危篤の報を受け取った語り手が療養所へと急ぐ車中の場面、つまり物語のクライマックスである点である。

人物への視線

ナボコフは端役を主役と同様に慈しむ。何せ、『ボヴァリー夫人』にほんの少しだけ登場する、ルールーの小間使い(名前も与えられていない)を、「むさくるしいニンフェット」であり、「一顧に価する。」というくらいなのだから。(『文学講義 上』河出文庫、p.344)

本作で一顧に価するのはきっとナターシャ・ロザノフである。ナターシャはセバスチャンの同級生の妹であり、初恋の人である。

本作には語り手が取材対象者と話す場面が頻出する。ところが、前後の文脈から語り手と直接会っているのは確かなのに、ナターシャだけは語り手との会話が記述されない。巧妙に舞台裏に隠されているのだ。

以下は、取材後の語り手が描くナターシャとセバスチャンのデートの場面ある。

・・・セバスチャンは、緑色のペンキがぴかぴか光っているボートを元気よく漕いでいる。少女が艫に腰かけているが、彼女は無色のままにしておこう。単なる線画、画家が着色していない無色の容姿。・・・

画家は無色の空白の部分にまだ着色していない。柔毛が光る腕の外側に沿い、手首から肘にかけて、すじがついたようにほんのり日焼けしている部分を除けば。(p.200)

ナターシャへの視線が実にキモい鮮やかである。

ナターシャの思い出が登場するのは、この場面のみであるが、実は180頁ほど前、作中の時系列では20年前ににその登場が予告されている。

一度ぼくは、彼が鍵を隠していた場所(彼の部屋のなかの白いオランダ式ストーブの近くの壁の割れ目のなか)を見つけ、その抽出しを開いてみたことがある。そのなかには、練習帳や、学校友達の妹の写真や、数個の金貨や、小さな綿袋に包んだすみれの砂糖漬けなどがあった。(p.25)

作者に愛された人物に違いない。

ナボコフの本棚

ハムレット』、『アーサー王の死』、『サン・ルイス・レイの橋』、『ジキル博士とハイド氏』、『南風』、『小犬を連れた貴婦人』、『ボヴァリー夫人』、『透明人間』、『見出された時』、『英ペルシア語辞典』、『トリクシーの作者』、『不思議の国のアリス』、『ユリシーズ』、『馬を買うことについて』、『リア王』……(p.59)

セバスチャンの本棚は、この順番で並んでいるという。『文学講義』からもわかるように、ナボコフお気に入りの作品ばかりだ。これらの作品へのオマージュも登場する。

「・・・ナイト氏との契約書の写しも一緒にです。それとも彼のことをミスター……と呼びましょうか」そして仮面の下で微笑みながら、グッドマン氏は簡単なロシア人の名前を発音しようとした。(p.84)

語り手(本作ではVと呼ばれる)が名前を明かさない、プルーストスタイルだ。

フローベール礼賛

セバスチャンの仮面がぼくの顔にぴったりくっついて離れないのだ。彼にそっくりなその仮面を洗い落すことはできないであろう。ぼくはセバスチャンなのだ。あるいは、セバスチャンがぼくなのだ。あるいは、おそらくぼくたち二人は、ぼくたちも知らない何者かなのであろう。(p.303)

これは本作の結末部からの引用である。

私はついここで、かの有名なフローベールの「ボヴァリー夫人は私だ。」を思い起こしてしまう。

この魅力的な一文にもさまざまな解釈があるようだが、小説という芸術が、外界の模写ではなく、作者の内側から創造されたものであることを宣言したものと私は理解している。その意味で、創造された人物は作者に他ならない。フローベールは死んだが、フローベールであるボヴァリー夫人は不死である。

作品の結末部で、突如語り手がセバスチャンに「なった」のは、語り手が「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」を書き終え、同作の登場人物としてのセバスチャンを創造したからだ。

そして、語り手に「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」を書き終えさせ、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を書き終えたナボコフは、セバスチャン・ナイトと語り手Vになり、永遠に読者の中に生き続けるのである。   

 

(追記)

しかしどうだろう。『淡い焔』を読んでから本書を読むと、むしろ語り手Vは『淡い焔』のキンボート*1的人物にも見えてくる。

そうすると、執筆による作中人物との同一化というのは、読者=作者Vによる一方的な願望・欲求の充足とも読めそうだ。

いずれにせよ、他のナボコフ作品同様、本作にも様々な解釈がなされており、それを読むのもとても楽しい。

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆

<<背景>>

1940年完成。ナボコフが英語で書いた最初の小説とされる。

ナボコフはセバスチャンと同じ1899年ロシア生まれ。

革命後、20歳までに、ヤルタ→ギリシア→フランス→ロンドン→ドイツと転々とする。

38歳までドイツに暮らすが、ナチスを嫌いパリへ。

本作は英語圏での職探しをしつつ、パリで書かれた作品のようだ。

同じ頃、ソヴィエトとなったロシアでは、ブルガーコフが『巨匠とマルガリータ』に最期の加筆を加えていた。

<<概要>>

20章構成。章より上あるいは下の区切りはない。

章に題は付されていない。各章はおおよそ15頁あまりで、分量にブレはない。

最も長いのが20章の22頁、短いのが3章の12頁である。

原則として時系列には素直であり、セバスチャンの生涯と、Vの取材遍歴が並行して進む。Vの取材により後から明らかになったこととして、 セバスチャンの過去が後になって明らかになることもある。私は簡単な時系列表を作りながら読んだ。

5作の作中作の一覧をメモしておく。

『プリズムの刃先』1925 探偵物語のパロディ、被害者が実は生きている

『成功』1927 偶然的な出来事の因果を探る物語、ナボコフの『賜物』との関係が論じられることもある

『滑稽な山』1932 ※短編集

 「滑稽な山」「黒衣のアルビノス」「月の裏側」を採録

『失われた財産』(1933?) 自伝的小説

『疑わしい不死の花』(1936) 臨終の床につく男の物語

<<本の作り>>

翻訳も解説も注の分量にも不満はない。

ただ、冒頭の「主な登場人物」、これはイケてない。

見ずに読んだほうがいいと思う。

解説においても、ナボコフ流の仕掛けに言及されている。そのため、解説に言及のないポイントを取り上げた。結末部の解釈もとても興味深い。

 

*1:亡くなった詩人シェイドの熱狂的なファンで、シェイドの詩に自身の妄想を捻じ込んだ注釈を付す。