ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ロビンソン・クルーソー』ダニエル・デフォー/平井正穂訳

物語の命脈

それからもう一つ面白いことは、三人しか臣民がいないのに、三人とも宗派がちがっていることであった。従者のフライデイはプロテスタント、その父は異教徒で食人種、スペイン人はカトリックだった。しかし、ついでながら、私は自分の全領土を通じて信教の自由を許していた。

<<感想>>

思えばデフォーも不幸な作家である。私はかねて、「テキストは読者のもの、作者から強奪せよ」という立場だ。そうは言っても、デフォーほどテキストを強奪され、作品を凌辱され続けてきた作家はいないだろう。代表的な下手人はどちらもヒゲ紳士だ(下手人1下手人2)。

小説の登場人物から、社会科学的な命題を例証しようなどということは馬鹿げている。所詮彼らの、あるいは当時の社会科学の厳密性は、散文的なレベルに過ぎなかったのだろう。昨今では、文化人類学比較文化学といった人々のおもちゃになっている。

さりとて、文学の世界での評判も芳しいとはいえず、小説というに値しないとの烙印を押されている。

ロビンソン・クルーソー』は近代小説のまさに一歩手前まできていたが、そこになにか物足りないものがあるとすれば、性格造形と心理描写であったろう。これを完成し、正真正銘の小説を確立したのはリチャードソン。(『イギリス文学史入門』p.88)

そこで今回は敢えて、本作に見られるデフォーの意図、眼目を考えてみたい。

本作は、書かれて以来およそ300年に渡り、極めて多数の読者を獲得してきたことは疑いえない。そして、それが手段なのか目的なのかはわからないが、デフォー自身も、万人に受け入れられるべく、様々な工夫を凝らしているように見受けられる。

 

1.トレイラー、ティーザー、アオリ

せいぜい取柄といえば、韃靼人や盗賊の集団に襲われる心配がないことくらいであった。オビ河のこちら側では、連中はやってこない、いや、少なくともごく稀にしかやってこない、という話であった。しかし、事実はそうではないことを、われわれはやがて知った。(下巻p.510)

本作でうんざりするほど頻繁に用いられるのがコレである。残すところ24頁の最終盤でも使われる。ようは、モノ・コトが、初出時よりも時系列的にあとの時点で大事な意味を持つことを、その初出時に仄めかすのだ。テレビや映画の予告編なり、当世風のティーザー広告なり、連載漫画の後アオリと同等の手法であり、読者の興味を駆り立て持続するためのテクニックだ。こうしてデフォーは、回想録の形式であることを最大限に利用している。

 

2.大事なことなので二度言いました

引用は長くなるので避ける。

本作では、物語は時系列に沿って進んでいく。しかし、物語中に差し挟まれるお説教や、下巻において登場人物が披瀝する人生観においては、同じ話が何度も何度も繰り返される。ヒトラーがその演説で多用した手法であり、大衆を説得するのに有効な手法だ。現代では、単純接触効果として知られている。

 

3.凡俗な倫理観

こういった具合で、人殺しという流血の罪をまぬがれしめたもうた神にたいして、私はひざまずいて敬虔な感謝の祈りをささげた。それだけでなく、私がこの未開人たちの手に捕えられないように、また、命を守るためにそうしろという、天からの明らかな命令がないかぎり、彼らに手をくださないですむように、神の慈愛深い加護が私の上にあらんことをせつに祈り求めた。

蛮人(作中、中南米の先住民を指す)の集団を、先制攻撃で皆殺しにするか否かを悩んだ末、結局殺さずに隠れることを選択する。その後に続くのが上記の引用箇所である。

今日的な視点から見れば、横暴極まりない話だ。しかし、当時のイギリスの一般大衆の倫理観からすれば、手も出されないのにアメリカ大陸で虐殺を始めたスペイン人は悪そのものである反面、反撃のために蛮人を殺すロビンソンは、「天からの命令」として正当化されうるのだろう。

私は何もポスコロよろしく欧米人の倫理観を糾弾したいのではない。この、読み手の倫理観やモラルに沿い、読み手の素朴な正邪の観念を追認してやること―これが大衆に受け入れられる最善手だといいたいのだ。我が国において、忠臣蔵をはじめとする「判官びいき」の作品がウケるのと同じやり口だ。

 

このように、本作にはその後の大衆小説の萌芽、あるいは範となるべき要素が多い。しかし、ロビンソンがその倫理観を導出するにあたって懊悩する様など、その後の近代小説の先鞭となるべき要素も捨て置けない。特に注目したいのが、本作が行う引用である。

イギリス小説史の最初に掲げられる本作であるが、それでも先達の作品を多数回にわたり引用している。その作品とはまさしくそう、「聖書」である。こうしてみると、やはり(文学作品としての)聖書こそ豊饒なヨーロッパ文学史という大海の源流なのだろう。

そして本作は、その後の広い意味での物語作品を生み出した未分化の源流の一つのように感じられる。

プロットとしては正々堂々大衆文学をやる『モンテ・クリスト伯』の方が遥かに面白い。また、デフォーの示す倫理観の今日的な意義は乏しかろう。しかし、文学史の源流の一端として、非常に重要な作品であることは間違いない。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆☆

ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)

 

 

<<概要>>

岩波文庫版では上下巻扱いになっているが、もとは別に刊行された二冊の本である。

上巻は「ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険」が所収されている*1下巻は「ロビンソン・クルーソーのその後の冒険」を所収。

一般的に「ロビンソン・クルーソー」として知られる無人島モノのお話は上巻のほうである。第三冊目にあたる作品もあったようだが、今日ではほとんど顧みられていないようである。

一人称視点の回想録形式。そして、部も節もない脅威のベタ書き構成である。

しかも、一応の登場人物は数十人に上るところ、名称が与えられているのはロビンソン・クルーソーを除くとほんの数人しかいない。そのうち、繰り返し登場するのはフライデイとウィル・アトキンズの二人だけだ。

なぜこの二人だけ名称付与という特権を与えられたのか。これはこの二人が作中でプロテスタントの信仰に目覚める―すなわち、作家の趣意に近いところにいるからだろう。

<<背景>>

本書所収の両作品とも1719年発表。

主人公であるロビンソン・クルーソーは1632年生まれ、1704年に物語は終わる。

自然状態という道具を創作したホッブズの『リヴァイアサン』が1651年、同じ道具立てを使ったロックの『市民政府論』は1689年、名誉革命の年である。同年刊行『寛容についての書簡』でロックは、宗教的な寛容について論じている。ただし、無神論者は寛容の対象に入らないと論じているのが面白い。

いわゆる『十五少年漂流記』は1888年、『蝿の王』が1954年、楳図かずお先生の傑作『漂流教室』が1974年連載終了である。

<<本の作り>>

若い読者を意識したためだろうか。1967年初版の岩波の作品にしては、訳が平易だ。何せひらがなが多い。もとの作品のパワーもあるので、ぐんぐん読み進めることができる。

ただ、現代の作品に比べてしまうと、注はやや貧弱だ。出典が羅列されているだけの、あまり意味のない注になっている。ただ、興味ある読者が調べればよいのだから、読み進める分に情報が不足することもなく、十分用は足りている。

 

*1:正確な原題等はwikipediaに詳しい。