ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『大いなる遺産』チャールズ・ディケンズ/石塚裕子訳

月刊少年ピップ

まったくいやな天気で、暴風雨だったし、通りはどこもかしこも一面泥、泥、泥だった。来る日も来る日も、茫洋として深く垂れこめる雨雲が東方からロンドン上空へ押し寄せてきたが、東方の雲と風とは無尽蔵だぞといわんばかりに、あいかわらず次から次へと押し寄せてくるのだった。(下、p.118)

<<感想>>

予約をしていたナボコフ先生の『アーダ』新訳版が届いた。

すぐにでも読みたいが、少なくとも二十数冊先まで読む順番を決めてしまっているからなかなか取りかかれない。

ディケンズ作品を読むにあたって、本当はそのナボコフ先生イチオシの『荒涼館』を読みたかった。でも、買い進めている岩波版をアマゾンが2巻までしか持ってこないから(未発売だとかいうちっぽけな理由で)、こちらを読むわけにはいかない。

 

さて、『大いなる遺産』は、『アーダ』のように最初から単行本として世に出る作品と異なり、そもそも月刊連載の作品だった。連載小説の特徴といえば、やはりプロットの推進力だろう。プロットが退屈で読者に飽きられれば、編集者なり請求書なりに直ちに打ち切られてしまう。我が国では『坂の上の雲』も連載作品だし、その他の国では『モンテ・クリスト伯』ももとは連載小説だ。

 

ところが、本作にはその『モンテ・クリスト伯』や同じイギリスの『ロビンソン・クルーソー』などのプロット一本槍の作品とは異なる味わいが秘められている。

 

本作の味わいは、ディケンズの技巧に由来する。ディケンズは既に『オリヴァー・ツイスト』や『デイヴィッド・コパフィールド』でその技巧を磨きあげた実績がある。

まず、『ロビンソン・クルーソー』の書評で紹介したような、読者を惹きつけるための技巧も随所に凝らされているが、ここでは重ねては触れない。

 

本作の技巧のポイントは、文章を、単語を、イメージを、まるで油絵具を何層も何層も重ねていくように配置していくところにある。

例えば、第一部、主人公の少年ピップが貧しく虐げられていた時代には、湿原、霧、雨、泥、教会(墓地)、霜といったワードが繰り返し登場する。当時少年ピップの心の支えになっていた義兄ジョーの周りには、暖炉、炉辺、鍛冶屋、ふいご、火かき棒、肉、頬髭といったワードが散りばめられる。

ディケンズはこのようにして、人物や場所のイメージを読者に植え込んでいくのだ。

こうして植えつけたイメージを、ディケンズは最大限に利用する。その第一の箇所が、冒頭の引用部分だ。この引用箇所は、かつてロンドンの東に位置する故郷で少年を脅した囚人が、ジェントルマンになった青年ピップをロンドンの自室まで訪ねてくるシーンの前に置かれている。

ロンドンですべてを失った青年ピップを、義兄ジョーが暖かく包みに来た場面ではこのような文章もみられる。

だが、今のぼくがどんなに金に困っているか、それに莫大な遺産相続の見こみも、田舎の湿原の霧が、陽光が射してはかなく消えるように、跡形なく消えてしまったことを、はたしてジョーが知っているのか、ぼくには判断がつかなかった。(下、p.426)

このように、ディケンズは言葉の持つイメージを巧みに操るのだ*1

 

私の生業からは、次の一文が外せない。

門や、窓から垂らしてある絨毯の端には何枚もビラが貼ってあって、家財・家具・動産物権*2の競売が来週に開催予定であると告知していた。屋敷は古建築資材として売却され、取り壊すことになっていた。醸造所はしっくいで競売物件第一号と不格好な数字で書いてあって、もう長いこと閉鎖したままになっている主屋の一角は第二号だった。(下、p.434)

この場所は、物語中で繰り返し描写され、ピップの思い出がたくさん詰まった場所だ。ピップが劇中一貫して忘れえぬ憧れの女性エステラの住まいだ。 その後無二の親友となるハーバートと出会ったのも、後に自身の後見人となる弁護士ジャガーズと出会ったのもこの場所だ。

競売物件第一号」という言葉は、追憶や感傷、その他一切の人間性をすべてを抹消し去る強力なアンチイメージを持っている。

ディケンズは若かりし頃、法律事務所で事務職員として勤務した経験を持ち、本作にも弁護士やその事務職員、刑事法廷など法律の世界の住人達が数多く登場する。ところが、これらは皆どこか戯画的に描かれている。

他方、ピップ・エステラ双方が遺産を失った場面における「競売物件第一号」というアンチイメージの使用法は、法という営為の持つ本質的な非人間性を見事に捉え、昇華している。

この点でディケンズは、後のカフカを先取りしているといえる―だが、この問題についてはドイツ法においてこそより深刻で、だからこそドイツでカフカが生まれたのだ。

 

大衆作家のイメージが強いディケンズだが、なかなかどうして奥が深い。 

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆

 <<背景>>

1860-1861年連載。

劇中年代を特定できる要素は「牢獄船」くらいしかないが、ディケンズの創作ノートによると、1810-1830年代の頃のようである。なお、「牢獄船」1858年廃止だから、執筆当時には廃止となっていたはずだ。

同時代人とよく言われるサッカレーの『虚栄の市』が1847年である。

フランスではフローベールユゴーが活躍した時代であり、『レ・ミゼラブル』が1862年の発表となっている。

<<概要>>

3部構成。各19章ないし20章。『ロビンソン・クルーソー』と同じ一人称視点の回想録形式である。

第1部:19章。ピップ7才から年季奉公(推定14才)を経て、ロンドン出立(推定18才)までを描く。

第2部:20章。ロンドン到着から成人(20才)を経て、遺産の贈り主が判明するところ(23才まで)。

第3部:20章。23才当時のピップの経済的没落と精神的再生(?)、そして若干の後日譚(推定34才)が描かれる。

<<本の作り>>

この訳文は好みではない。原文はおろか、他の訳も読んだことはないが、それでも人には他の訳を勧めるだろう。

想像するに、訳者は読みやすさや人物像に近づけた日本語表現を心掛けたのであろう。

「ありがとさん」や、「ダチ公」といった訳語からはそう伺える。

しかし、「驚き、桃の木、山椒の木」に至ると、原文をある程度意訳しているのは明らかだ。

私は、「訳文は忠実に、注釈は豊富に」が好みだ。諺なら直訳して訳注を付してほしい。

また、敢えて引用をしないが、純粋に日本語の文章として意味が通りづらい文章が散見された。経験則からするとこうした文章が生まれる背景には誤訳が潜んでいることが多い。

私は予断で訳者の誤訳を非難したいのではない。読者として、訳者に対する信頼が毀損されるような文章が存在したことを指摘したいだけだ。

 

 

*1:第一部では各家庭ごとの異なるパンが描かれるが、ここも見どころだ。

*2:原文ママ。正しくは物件だ。