冷静と情熱と香気と悪文のあいだ
「・・・あの人の頭は本の滓、文化でいっぱいで、わたしたちはあの人がそんなものは頭から洗いだして本物が好きになるといいと思っているんです。どうすれば生きて行くことに負けずにいられるか教えたくて、さっき言いましたように、毎日の生活が灰色なのに堪えて、そしてそれが灰色をしていることを知るためにはだれか―」 ・・・「だれか、自分が非常に好きな人か、あるいはどこかそういう場所が必要なんじゃないでしょうか。・・・」(p.202)
<<感想>>
『マンスフィールド・パーク』のあとに本作を読むと、書き手による文体の差異に強烈に気づかされる。オースティンはほとんど比喩を用いないが、本作では比喩が多用される。会話文主体のオースティンに比べて、地の文が長い。作者の与えた第一原因によって突き動かされる人物たちと、思想の表象としての人物たち・・・。表面的な物語は似ていても、実質はかくも異なる。
而して本作では、その物語の表面だけをなぞるような読み方はやり玉に挙げられる。
・・・レオナードの話は本を書いた人間の名前の泥沼で終わった。それはこういうすぐれた人たちのせいではない。われわれのほうが悪いのであって、彼らはわれわれが彼らの名前を一種の道標に使うことを望んでいるのに、われわれが勝手に道標と目的地を取り違えているのである。(p.165)
あるいはレオナードのような人物をさして、次のような発言もなされる。
「・・・わたしは、そういう人たちに必要なのはもっと多くの本を読むことではなくて、ちゃんとした本の読み方を身につけることだっていったんです。」(p.183)
しかし悲しいことに、かくいう本作も、―なんとかメーターなんかを見る限り、どうにもちゃんと読まれてはいないようだ。そしてその原因は解説を書いている池澤夏樹氏にあるように思う。
ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)
- 作者: E・M・フォースター,吉田健一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/05/12
- メディア: 単行本
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池澤氏の解説が表層的だと言いたいのとはちょっと違う。池澤氏の解説も、じっくり読むと、私が指摘したい本作の核心をしっかり押さえて論じられている。しかし、「そういう人たち」には、氏が指摘したもっとキャッチ―なポイントが「目的地」になってしまったようだ。
家の名前?
解説ではこう指摘される。家の名を冠した小説はこの『ハワーズ・エンド』くらいしかない。そんな馬鹿な。いくら読者の興味を誘いたくとも、これはいいすぎだ。オースティンには『マンスフィールド・パーク』があり、ディケンズも『荒涼館』がある。この両作品は、私が本作を読む前に「予習」しようとした二冊である。ちなみに遠い異国のロシアでも、本作に先立つこと数年、『桜の園』が書かれている*1。
風俗小説?
解説では、本作が「風俗小説」であるとされる。もちろん、日本文学のコンテクストではなくて、イギリス文学における"Novel of manners"という意味でだ。しかし、私にはそもそも小説の中身をそうしてジャンル分けしようなどということ自体が疑問だ。星の数ほどの映画作品を、指の数ほどのジャンルに分類して棚に押し込めようとするレンタルビデオ店のように芸術を軽んじている。
これをおくとしても、そもそも本作は"Novel of manners"なのだろうか。"Novel of manners"といえば、代表格はそうオースティンだ。しかし、オースティンと本作とは似ても似つかない。仮にオースティンと本作とを同じ籠に放り込むのであれば、籠が大きくなりすぎて分類の意味を欠く。あるいは、本作がオースティンと実は似ているというのであれば、それこそなぜ『マンスフィールド・パーク』を無視したのだろうか。
階級対立?
わけても酷いのが、本作の核心を「階級の違い」―それ自体だったり、乗り越えだったり、融和だったりとする読みだ。
実はこれについては池澤氏の責任は軽い。池澤氏も指摘するように、本作には、階級に限らず、いやむしろ階級よりもストレートに描写される対立軸が山ほどある。そして、そのほとんどは階級に根差すものではない。本作で入れかわりたちかわり描写される対立軸を挙げていくと、次のようになる
これとはちょっと毛色の違った対立軸としては、次のようなヴァリエーションもある。
- 金持ち ― 貧乏人
- 理性(修道僧) ― 情念(獣)*2
このリストを一目見ればわかるように、本作の対立軸は必ずしも各階級に固有のポジションというわけではない。金持ち―貧乏人の軸でさえそうだ。
また、もし仮に階級対立が主要な軸なのであれば、シュレーゲル家やウィルコックス家の出自がもう少しきちんと書き込まれていなければならない。ところが、シュレーゲル家に遺産を遺した母方の実家についての描写はほとんどなされない*3。
表象としての人物
そして、この対立軸の左を表象しているのがヘレンで、右がウィルコックス氏(ヘンリー)だ。(※シュレーゲル家とウィルコックス家というのではない。*4)
なお、金持ち―貧乏人の軸を作るために、冒頭の引用で出てきたレオナード夫妻が登場し、物語全体の隠れた主題となる。また、理性と情念の対立は、各登場人物それぞれの内面で展開される小主題だ。
主題
本作の核心的な主題は、はやりの言葉でいえば(皮肉である)アウフヘーベンだ。その役回りを担うのは、タイトルである「ハワーズ・エンド」*5であり、その家自体と同視される*6ルース(ウィルコックス夫人)であり、その継承者である主人公マーガレットである。
この主題はしつこいぐらい繰り返されているため、いくらでも例証可能だ。まずはルースから。
マーガレットは他の客たちと芸術や思想を稲妻型に追いながら、自分たちの個性を越え、自分たちがしていることを卑小に見せるある個性を意識しないではいられなかった。ウィルコックス夫人に悪意は少しもなくて、批判するというような気持ちさえもなかった。(p.105)
・・・ウィルコックス夫人はそのちょうど、真ん中の道を選んで、これはほんとうに恵まれたものにしかできないことである。彼女は兼ね合いに成功し、その鬼気迫る秘密を少しは友だちに誇って、必要以上には打ち明けず、その心のうちを少しもではなくて、ほとんど告げないで去った。(p.141)
やがてはマーガレットも
自分の生活がすべてであると考えている実業家と、それが無に等しいと主張する神秘主義者はいずれもこっちと向こう側で真実から逸れている。「そうね、ちょうどその間なのね」とジュリー叔母さんが昔、解ったようなことをいったことがあった。勿論、そんなことはなくて、真実は生きているあるものなのであるから、それがなんとなんの間にあるということはできない。(p.273)
こういう実際のヘンリーと、ヘレンがそうあるべきだと考えているヘンリーの間にはなんと深い溝があることだろう。そしてマーガレット自身は例によってその二つの間を行ったり、きたりし、男というものを現在のままの形で受け入れては、今度は妹とともに真実を求めるほうにまわっていた。(p.322)
ちなみに、田舎―都市の対立はこうなる。
「ここ(※ハワーズエンド)は田舎でもないし、町でもない所なんですから」(p.480)
こうした諸々の対立は、ときには意図せずに人を死に追いやることがある。ちょうど、ヘンリーのなりそこないであるチャールスが、ヘレンのなりそこないであるレオナードを意図せず殺してしまったように。しかし同時に、対立が融和され、新しい色や新しい生命を生むこともある。物語の結末でヘレンは子どもを産む。物語の精神からすれば、その父親はヘンリーだ。ヘンリーの元愛人であるレオナード夫人、その夫であるレオナードが血縁上の父親であり、母親がヘレン。すなわち、隠れた主題となっていた貧乏人と金持ちの対立軸をも拾い上げ、これを媒介にして生まれたのがこの子なのである。
物語の結末部は象徴の連続だ。この子どもはハワーズエンドの9つの部屋の真ん中で産まれたことがわざわざ書き記される。そして、父たるヘンリーと、母たるヘレン、対立を調停するマーガレット―そしてハワーズエンドに抱かれ育っていくさまが描かれ、物語は終わりを告げる。
本当の感想
と、ここまで感想というより読解に終始した。ずいぶん長く書いてしまったが、敢えて感想めいたことを付記するのならば、よくもわるくも本作は20世紀の、それも戦前の小説なんだなぁと思う。対立軸さえも破壊され、より混迷を極める現代の視点から本作をみると、牧歌的とさえも感じられる。芸術は死なないが、思想は死ぬ。さて本作の思想の死体は果たして芸術的だろうか。
最後の最後
どうしても引用したかったけど、しかるべき位置が見いだせなかったのでここで。
「前はずいぶん妙なことを考えたり、いったりしましたが、そんなのがなんでもないことを知るには、執達吏*7に一度家に入ってこられるのにかぎります。そいつがわたしのラスキンやスティヴンソンをいじくっているのを見て、わたしはほんとうの人生というものがそこにある思いをしましたし、その人生はあまりいいものじゃありません。」(p.333)
『大いなる遺産』にも登場した、詩情の否定としての「法」がここでもストレートに表現されている。ちなみに『大いなる遺産』でも、本作でも、取り上げられたのはやはり強制執行の場面だ。
今度、我が家の本棚の配置換えをしたら『ごまとゆり』の隣に『執行官提要』を並べてみよう。
お気に入り度:☆☆☆
人に進める度:☆☆
<<背景>>
1910年発表。
物語の中に作中の時間を示す要素はないが、ほぼ執筆年代の同時代と推定してよいだろう。
オースティンの『マンスフィールド・パーク』が1814年だから、およそ100年後の物語だ。感想で指摘した『桜の園』は1904年初演だ。
レオナードがお気に入りのラスキン『ヴェネツィアの石』は1851-1853年の発表である。
ラスキンに強い影響を受けたプルーストが『失われた時を求めて』を書き始めるのは、1913年のことだ。
<<概要>>
44章構成。『マンスフィールド・パーク』同じく、叙述はいわゆる「神の視点」で行われる。部の概念はない。章の長さにはやや長短の差が大きく、終盤には短い章が多く配置され、物語に緩急をつけている。
<<本の作り>>
酷い手抜き仕事だ。旧訳をそのまま掲載し、注もなく、地図もない。扉に発表年さえついていないどころか、この訳の初出の表記もない。底本も示されていない。吉田氏の訳で敢えて登載するにしても、ほかにいかようにでもできたはずだ。
翻訳自体については、賞賛も批判も目にした。私からは賞賛と批判の双方を贈りたい。
まず、訳文が「読みにくい」との批判がある。まったくその通りだ。これは、訳文が古いためではなく、日本語として不適切な文章が多いためだ。具体的に挙げると、読点の打ち方が妙な文章、「は」や「が」が連続する文章、意味が二重にとれる文章の3類型が犯人だ。
大きな都会に長い間、住んでいる多くのものと同様に、マーガレットはロンドンの各駅についてそれぞれはっきりと違ったものを感じていた。(p.18)
「(略)」と夫人がマーガレットがいったことに思いがけなく直接に答えて、まわりにいる感じがいいひとたちはそのときだけ、ある程度の期待を夫人がいうことに寄せた。(p.106)
わたしはあなたはこれからも愛して行くつもりなの。(p.272)
「別に許すことなんかなかったんじゃないですか」(p.326)(―許されざる悪行だ、という趣旨なのか、許しを請う必要のない行為だ、という趣旨なのか?)
しかし、こうした自由な発想でなければ、次に引用する実に美しい文章―語順の妙は生まれなかったはずだ。これは、ウィルコックス氏がマーガレットにプロポーズをした少し後の場面で登場する。この文章、どういう原文から訳出したのだろう?ご存じの方があればご教授願いたい。
ウィルコックス氏はマーガレットに接吻はしなくて、それは十二時半頃のことであり、車はちょうど、王宮の厩の前を通っていた。
*1:作品の精神性が共通するのはむしろこちらのほうだ。ただし、チェーホフのほうがずっと人間を悲観的に見ているように思えるが
*2:これ以外にも、文学とジャーナリズムとか、詩と散文という対立の小主題が変奏されている。
*3:そもそも、階級対立という読み方をする人は、より金持ちのウィルコックス家の方が、それよりも収入という点では乏しいシュレーゲル家より下の階級であることを理解しているのだろうか。20世紀初頭の頃のイギリスの階級像ではおそらくそうだ。旧地主・貴族であり、資産が生む収入で労働をせずに食べていく階級が上流だ。産業革命以降に勃興し、労働の果実として高い収入に与っている層は中流だ。
*4:当然であるがマーガレットも含まれない。これは物語の後半をじっくり読むとわかる。マーガレットは、ヘレンと同じ混血でありながら、ヘレンと異なり外国を嫌う。貧乏人に同情しつつも、資本家の役割を強調する。夢を語りつつも「実際家」を自称する。さらに、女でありながら、「女にしておくのは惜しい」とか、「男のような」と形容される念の入れようだ。これは、マーガレットをしてこの対立軸の左側におかないようにする明らかな配慮だ。
*5:部屋は9つあり、左右対称の構造をしている。
*6:p.443など
*7:強制"執"行と送"達"を行う官"吏"である。現在では通常執行官と呼ぶ。「しったつり」という音が「ひったくり」に類似するため、その名称は大変評判が悪かったという。