私の頭の中の空想家
「ああ!ほんとにあなたはすばらしいお友達ですわ!」としばらくしてから、ひどくまじめな調子で彼女は言いだした。「あたしのために神様がお送りくだすったんだわ!ねえ、もしもあなたがいらっしゃらなかったら、いったいあたしはどうなったでしょうねえ?なんてあなたは公平無私な方なんでしょう!なんてご立派な愛し方なんでしょう!あたしがお嫁にいったら、あたしたちはみんなとても仲のいいお友達になりましょうね、血をわけた兄妹以上の。あたしあなたを、ほとんどあの人と同じように愛しつづけますわ・・・・・・」(p.78)
<<感想>>
プロフィールに露文党とまで名乗りながら、いまだ当ブログで彼の作品を取り上げていない。その理由は簡単で、彼の作品を読んだからこそ露文党になったわけで、それはブログを始めるほどの文学オタクになる遥か以前のことだからだ。
今回、久しぶりに彼の作品を読み返す気になったのは、『マーシェンカ』の解説で、この『白夜』について触れられていたからだ*1。
今回は小品に相応しく、感想も手短にまとめたい。
良く知られているように、ドストエフスキーはシベリア流刑を経験している。この流刑の前と後とで作風が異なると論じられることが多い。
一般に代表作とされているのは『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などをはじめ、いずれも流刑後の作品である。
流刑前の作品で最も読まれているのは恐らくデビュー作である『貧しき人びと』だろう。本作『白夜』は流刑前の作品の中では『貧しき人びと』に次いで多く読まれているのではないだろうか。邦訳も手に入りやすく、諸外国では繰り返し映画化されているようだ。
本作のプロットは単純で、うだつのあがらないオッサンが、少女に恋をし、上手くいきそうになるが、別の男に掻っ攫われる、というお話だ。このような要約の仕方をすると、実は『貧しき人びと』もまったく同じプロットということになる。
ここで問題になるのは、果たして本作は悲劇なのか?喜劇なのか?という点だ。言い換えると、本作の主人公は、悲しい恋をした憐れむべき青年なのか、少女にフラれた滑稽な男なのか、という点だ。
本作には、ご丁寧に「感傷的ロマン」という副題が付せられている。しかしそれでも、いやむしろだからこそ、本作は喜劇なのだ。悲劇のパロディは喜劇になる。わざわざ副題までつけて「感傷的ロマン」などとうたうのは、悲劇性を過度に強調して、戯画化するためではあるまいか。
こうした視点で本作を読むと、違った作品に読めてくる。「あなたとはいいお友達でいたいの。」という文章なら、定番のフラれ文句だ。しかし、この文章を過剰に強調して、冒頭の引用文のようなところまで来ると、まるでコントの一コマのように見えてくる。
パロディと見るべき根拠もある。
「・・・『なんだって!そういう本にはね、若い男たちが、ちゃんと結婚するとかなんとかうまい口実をつけて、品行の正しい娘たちを誘惑してさ、親の家から連れだして、あげくの果てにそうした可哀そうな娘を後はどうとでもしろと放りだしてしまう、そして娘たちはそれこそみじめな最後をとげるというようなことが書いてあるんだよ。』とお祖母さんはいうんですの。『そういう本をたくさん読んだもんよ。・・・』」(p.60)
これは、ナースチェンカが祖母に指導される(ことを回想する。)一幕からの引用だ。ここで祖母が指し示している本は、ロシア人なら誰でも知っているといわれるニコライ・カラムジンの『哀れなリーザ』だ。『哀れなリーザ』では、結局男に捨てられたリーザが池に身投げをする。男がリーザに出征を理由に別れを告げる場面に、次のセリフがある。
「忘れないで、忘れないでね、あなたの哀れなリーザを!」
他方、本作でナースチェンカが男に別れを告げる手紙の結語は次の文句だ。
『・・・どうぞあたしたち二人をお赦しください、どうぞお忘れにならずに、いつまでも愛していてくださるように、あなたのナースチェンカを』(p.113)
つまり、決め台詞が引用されているのに、フる側とフラれる側が逆転しているのだ。水戸黄門がニセ黄門に印籠を突きつけられるようなもので、明らかにパロディだろう。
実はこの解釈にはネタ元がある。これは、江川卓*2先生の『ドストエフスキー』(岩波新書黄帯286)の『貧しき人びと』に対する解釈の応用だ。『貧しき人びと』も、本作同様『哀れなリーザ』のパロディが散りばめられているのだ。
では何故、ドストエフスキーはプロットも似ていて、パロディ作品であるという点まで似ている作品を二つも書いたのだろうか。言い換えれば、『貧しき人びと』と『白夜』の作品性の違いはどこにあるのだろうか。
語りの構造の点も見逃せないが、私はやはり人物造形の点にこそ、両作品の差異を求めたい。『貧しき人びと』の主人公マカール・ジェーヴシキンは、『白痴』のムイシュキン侯爵のような人物造形だ。他方、『白夜』の主人公は、名前がないという点でも共通する『地下室の手記』の主人公と類似する、空想癖の社会不適合者だ。
本作の主人公は、完全にモテナイをこじらせた、はたから見ると明らかにキモチワルイ人物だ。ドストエフスキーの凄いところは、そうした人物であるにも関わらず、読み手に対し、自分にもこういう一面があるぞ・・・と感じさせる力を持っているところだ。
ここに来て余計に、本作が喜劇であることが効いてくる。読み手にとっては、自身や身近な他人の内面の醜悪な一部が取り出され、まるでゴーゴリの『鼻』のように一人歩きしていた上に、物笑いの種にされているような錯覚に陥る。
喜劇はもう一回転して、読み手にとっての悲劇に転化する。
この二重性こそ、ドストエフスキー作品の魅力の真骨頂であり、流刑前後を問わず一貫した作家の天性だ。
お気に入り度:☆☆
人に勧める度:☆(『地下室の手記』の源流を訪ねたいマニア向け)
<<背景>>
1848年作。ドストエフスキー30歳の作品だ。
カラムジンは二世代上、『哀れなリーザ』は1792年発表だ。
本作にも登場するプーシキンは一世代上、『ベールキン物語』は1831年発表だ。
<<概要>>
よくある一章二章のかわりに、本作では「第一夜」「第二夜」のような区切りが付される。「第四夜」の次が「朝」であり、「朝」が終章となっている。全体は短く、僅か100ページ少々である。
語りの構造が独特であり、基本的には一人称回想体で、主人公=作者の体裁なのだが、主人公が自分語りをするときに、「恥ずかしいから」三人称体で語る場面がある。
<<本の作り>>
昔から持っている角川版で読んだ。
ちなみに私が持っている版の定価は280円だが、今は475円になっているようだ。
訳文は古く、初版は1958年のようだ。
翻訳年次ほどの古さは感じさせない訳だが、語の選定などがあまり好みではない。
幸い現代の読者は、光文社のおかげで新訳を手に取ることができるようだ。