ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

1-12②『モンテ・フェルモの丘の家』ナタリア・ギンズブルグ/須賀敦子訳

住み慣れた我が家に花の香りを添えて

わたしは、小説のなかで、描写の部分はがまんできないの。これといった意味もなく、だらだらと描写が続く箇所がある。だれそれが、なになにの味を感じる、なんとかの匂いを嗅ぐ、どこそこへ行く、だけど犬一匹会わないし、なにもおこらない。(p.492)

<<感想>>

世界文学全集を読破するなどと謳いながら、しばらくこの全集とはご無沙汰であった。

『アルトゥーロの島』【過去記事】がイマイチだったというのもあるが、何よりも、本冊が物理的に重いのがいけない。電車でも読みづらいし、飲みながらも読みづらいので、なかなか手がでなかった。

 

ところが、一度読みだしてみると、書簡体小説という形式もあり、遅読派の私としては珍しいくらいするすると読み切ってしまった。

 

そう、本作は書簡体小説なのである。いまどき。

いまどきとはいっても、発表されたのはもう34年も前だが、文学の長い歴史のなかではいまどきといっても過言ではないだろう。

 

書簡体小説なんていつ以来だろう。我が家にあるのは恐らく、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、クソ野郎『新エロイーズ』、ドストエフスキー『貧しき人々』 の3作だから、きっと『貧しき人々』以来なのだろう。

 

さて、なぜ書簡体小説は「いまどき」とか、「書簡体小説なんて」などと言われなければならないのか。

それは、書簡体小説自体が、近代小説の歴史では比較的早い段階で成立したこと、早くに成立したがゆえに、早くに衰退したことによる。また、それこそ『若きウェルテルの悩み』や、『新エロイーズ』が有名すぎるせいで、書簡体小説というその時点で、ある種のイメージがこびりついているせいでもあるかもしれない。

 

このような穿った先入観を持って読み始めた本作であったが、終盤まで読み進めてはじめて、書簡体小説であることに合点がいった。 

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)

 

 

書簡の中で示されている物語は、中年の独身男ジュゼッペと人妻ルクレツィアという元愛人同士の二人を中心にした、10人ばかりの登場人物が織りなす群像劇だ。書簡の書き手や受け手が、書簡ごとによって次々と変わっていくのが特徴だ。

不倫、結婚、妊娠、出産と、様々なライフイベントが織り込まれている。一つポイントになるのは、不倫は結婚に結実しなければ、結婚をしていない者が妊娠をし、産まれた子どもは親でない人間に養育されているところだ。

 

また、本作のきわめて重要な小主題として、「家」の主題が挙げられる。それもそのはず、そもそも原題は『都市と家』というタイトルだったそうである。

本作には様々な「家」が登場する。それは、邦題に選ばれたモンテ・フェルモの丘の家に限らず、ナザリオ・サウロ街の元ジュゼッペの家や、エジストやアルベリーコが暮らすサン・コジマート広場のアパートメントも含まれる。

 

登場人物たちは、ヤドカリのように引っ越しを繰り返しながらも、どこかそれぞれが「家」に対する執着や、寂莫とした郷愁を抱えて暮らしている。

あれはいまでも、いつまでも、ぼくの家だ。たとえ売っても、人にゆずっても、関係ない。家は永遠に心のなかに生きている。(p.499)

 

この全集には、これまでにももう一作品、家を主題にした作品があった。

ハワーズ・エンド』【過去記事】である。

このため、まったく異なる文体ながら、『モンテ・フェルモの丘の家』を読みながら、何度も『ハワーズ・エンド』を想起した。

ところが、そこで示されているイメージは、『ハワーズ・エンド』とは対照的である。

 

名作というのは、大抵の場合、ある種の普遍性と時代性の刻印とを併有しているものだ。

この点、『ハワーズ・エンド』で示された時代性は、二項対立とその止揚、そしてその象徴としての「ハワーズ・エンド」だ。これがきっと1910年の時代性なんだろう。

他方、『モンテ・フェルモの丘の家』で示された時代性は、現代にも通ずるものがある。本作では、まさにリオタールのいう、「大きな物語」なき時代が表現されているように思える。

国家と宗教という二大物語に対する帰属意識はすでに喪失して久しい。さらに、最小単位の中間団体である「家族」についても、その普遍性が失われている。

例えば、登場人物のアルベリーコが営む、ゲイのカップルとシングルマザーとその子の4人暮らしは、普遍性が失われたゆえに生じた多様性の一形態なのかもしれない。

 

しかし、本作ではその喪失された普遍性は、決して幸福には描かれない。上手くいかない夫婦関係、上手くいかない恋人関係、上手くいかない親子関係、こうした相互不理解が、喪失感を持って描き出されている。

本作にはいくつかの文章が繰り返し登場するが、そのいずれもがその喪失感を表象している。

ミートローフはつくりません。わたしのミートローフはくずれるから。そして、くずれるミートローフは、おいしくても、失敗には違いないから。(p.534など)

・・・友達になるまえは、愛人どうしでした。グラツィアーノという、ふたりの子供までつくった。あなたはいつも、そうでないようなふりをしているけど。(p.544など)

ここまで理解できると、敢えて書簡体小説にした狙いが見えてくる。

すなわち、「書簡」という一対一のコミュニケーションの手段、そうでしかありえないものにより表現されることにより、逆説的に相互不理解の有り様が際立って見えているのだ。

このように書くと通俗的な気もするが、ひとひらの書簡にすがる登場人物たちは、現実的なコミュニケーションを喪失し、SNSの世界に没頭する現代人のように読めてくる。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆

 <<背景>>

1984年出版。

物語の中に作中の時間を示す要素はないが、ほぼ執筆年代の同時代と推定してよいだろう。

本文中で比較した『ハワーズ・エンド』は1910年の作品だから、74年の隔たりがある。

著者のナタリア・ギンズブルグは、翻訳者としても活躍しており、なんと『失われた時を求めて』の「スワン家のほうへ」【過去記事】や、『ボヴァリー夫人』をイタリア語に翻訳しているようだ。

いわれてみれば、本書に登場する様々な家々は、コンブレーで「わたし」が思い起こす家々を想起させなくもない。

とはいえ、プルーストの翻訳まで手掛けた人物が、登場人物に冒頭の引用のようなセリフを吐かせ、描写のほとんどない書簡体小説を書こうとは驚きだ。

 

<<概要>>

感想本文でも取り上げたが、書簡体小説である。

各書簡の書き手や読み手は一定していない。

書簡の上に部や章の区切りは設けられていないが、時折書簡と書簡の間にアスタリスクが挟まり、物語に一定の区切りをつけている。

各書簡の長さはまちまちで、短くて数行程度の単信から、長いと十数ページをに上るものもある。

書簡体小説自体のに由来するといっていいかもしれないが、もっぱらある人物の外面的な情報が語られるのは第三者を通じてである。このため、ややもすると探偵小説式に人物の関係図が小出しにされていくあたりは、なかなかに技巧的だ。

主人公の人物像は、その「語り口」や、周囲の人物からの取り扱われ方から、なんとなく文系のインテリな匂いがするが、後々になって大学で哲学を学んだ人物であることが明かされる。

 

<<本のつくり>>

本全集の悪癖である、実はあまり新しくない訳文をあまりはっきりとさせずにしれっと載せてくるパターンである。恐らく、本書の訳文は1991年のものと思われる。

とはいえせいぜい20年前のものであるから、「いま息をしている」言葉とそうは変わらない。

日本語に固有のことわざ・慣用句を用いて訳す箇所が若干きになった程度である。

書簡体小説ということもあいまって、全体としては極めて読みやすい。

ただ、原題と異なる邦題にしたのは全くもってイケけてない。作品性を根本から変えるといっても過言ではない。『都市と家』では全くもって売れそうにないが、そういう問題ではない。