ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ミドルマーチ』ジョージ・エリオット/工藤好美・淀川郁子訳

文学的な、あまりに文学的な

リドゲイトは初めて、些細な社会的条件が糸のようにからみついて、その複雑なからくりが彼の意図を挫折させようとするのを感じた。(第二部18章、1巻p.366)

<<感想>>

3週間も更新が空いてしまったのは、この長い作品を読んでいたからだ。

残念ながら本作の知名度は高くないようである。

しかし、本作は数多の大向こうを唸らせてきた大作中の大作である。

 

まず、ヴァージニア・ウルフが本作を高く評価していることは、wikipediaジョージ・エリオットのページ【リンク先】でも紹介されている。

あるいは、プルーストが青年時代に愛読してことでも知られ、『失われた時を求めて』【過去記事】にも登場する。

こうした評価は確立しているといってよく、125人の作家の意見を集計したThe Top Ten Books のオールタイムベストでも6位に入っている【参考リンク】。

イギリス文学史の教科書【過去記事】においても、辛口の評価が多い中、「傑作」として紹介されている。

なんだか有名人が読んでいるから偉い式の電車の中吊り広告のようになってしまったが、本作が世界的に見て著名な作品であることは間違いない。

 

内容に目を転じても、そうした評価に相応しいといえそうだ。

『文学とは何か』【過去記事】の中で、テリー・イーグルトンは、「文学」という概念は「雑草」という概念に似ていると論じた。すなわち、対象それ自体に備わるものではなく、対象を評価する人物の主観に依存する概念であるという趣旨であろう。

この点、本作はほとんどすべての読み手から、「文学」との評価を獲得しうるに違いない。

多数の登場人物の言動が複雑に絡み合う重厚なプロット、度々繰り出されるイギリス人らしい皮肉のきいた警句、透徹した観察眼によって描き出される心理描写、繊細で美しい文章表現、豊富な読書に裏打ちされた膨大な数の引用などなど、「文学」らしいあらゆる要素が詰まっている。

 

このうち手始めに、ジョージ・エリオットらしいわかりやすい警句を幾つかご紹介したい。

人間の自己満足は一種の税のかからぬ財産であるから、その価値が軽視されれば、まことに不愉快である。(第二部16章、1巻p.319)

・・・反抗を好む人は多くても、その結果を好む人は少ないだろう。(第五部46章、3巻p.70)

誰もみな、単に事実を知るよりは、どんなふうであったかと推量するのを好んだ。なぜなら、推量は知識よりもいち早く自信を持ち、知識が認めない矛盾を、より寛大に容認したからである。(第七部71章、4巻p.165)

ミドルマーチ〈1〉 (講談社文芸文庫)

ミドルマーチ〈1〉 (講談社文芸文庫)

 

プロットに目を転じてみると、次のとおりとなる。

まずそもそも、本作のタイトルである「ミドルマーチ」とは、作品に登場する架空の地方都市の名称である。また、原題には「―ある地方都市の研究」という副題がついており、これがプロットそのものを示していると言える。

より具体的にいうと、物語は概ね3組のカップルの結婚にまつわる話を軸に構成されている。

1組目、良家の令嬢ドロシア・ブルックと研究家肌の牧師エドワード・カソーボン。

2組目、新進気鋭の医師ターシアス・リドゲイトと、市長の娘ロザモンド・ヴィンシー。

3組目、市長の長男フレッド・ヴィンシーと、器量の良くない町娘メアリー・ガース。

この3組の物語と、死にかけの資産家ピーター・フェザストウンの相続問題や、ドロシアの伯父ブルック氏の立候補騒ぎ、街の銀行家にして権勢家のニコラス・バルストロウドの栄枯盛衰が複雑に絡み合って物語は進行する。

 

このように要約すると、まるでオースティン【過去記事】の作品のようだが、その実、読み味は大きく異なる。

アイザイア・バーリンはかつて、ギリシアの詩に倣い、「でかいことを一つだけ知っている」タイプの作家をハリネズミ族、「たくさんのことを知っている」タイプの作家を狐族に分類して論じた。バーリンによれば、ダンテ、ニーチェドストエフスキーなどがハリネズミ族で、シェイクスピアエラスムスゲーテなどが狐に分類される。

この分類の例に倣えば、オースティンはハリネズミ族であり、ジョージ・エリオットは狐族といえると思う。

オースティンは神に特殊な才能を授けられた村娘だ。明白に天才であるが、その才能の大半は「物語を紡ぎだすこと」それ自体に注がれている印象が強い。だからこそ読み始めたら止まらないし、その構成、展開は見事の一言に尽きる。

これに対してジョージ・エリオットは当代きってのインテリ女史だ。多数の引用や警句、作中の歴史的背景への言及など、あらゆる方面にその知識を動員する。また、彼女はでしゃばりな作者であり、しょっちゅう「わたし」(=語り手=作者)が登場する。他方で、作劇自体はオースティンほど上手くない。

 

これは物語作品一般に当てはまる非難なのかもしれないが、作中人物のうち、悪人に振り分けられる人物に比べて、善人に振り分けられる人物の造形が実に凡庸で退屈である。

例えば、ドロシア・ブルックは、聖女に擬せられる敬虔な、ある意味では狂信的な女性。フレッド・ヴィンシーは後に更生する金持ちのドラ息子キャラ。メアリー・ガースは、気立てのよいブス。その父ケイレブ・ガースは、金はないが仕事熱心で情にあつい親父、まるで『大いなる遺産』【過去記事】のジョーのような人物。フレッドとメアリーを導くフェアブラザー氏は、ざっくばらんで飾らない牧師。誰もかれもどこかで見たような人物像だ*1

 

また、3組の物語のうち、フレッドとメアリー(と、フェアブラザー氏)の物語は、その人物造形の陳腐さのせいもあり、やや凡庸である。残る2組の物語は面白いが、その2組の物語が、一つのプロットとして上手に融合していない感が拭えない。それもそのはず、訳者のあとがきによると、もともとの構想の段階では、別の二つの物語になる予定だったようだ。

 

ところが、こうした欠点があってもなお、『ミドルマーチ』は絶賛に相応しい。

 

まずは善人たちとは対照的に、悪人(俗人・凡人)たちの人物造形が実に見事だ。ここにいう人物造形とは、その人物の趣味、志向、思想、性格のみならず、物語としてその人物に与えらえる運命や社会的状況も含む、広い意味を指している。

特に舌を巻いたのは、カソーボン氏の描写だ*2

 

物語の序盤、ドロシアはカソーボン氏への恋に落ちる。ところが、ドロシアの妹シーリア、ドロシアへ好意を寄せるチェッタム卿、カソーボン氏とはライバル関係にある牧師カドウォラダーの夫人は皆この結婚に反対だ。

こうして、ドロシア、シーリア、チェッタム卿、カドウォラダー婦人それぞれのカソーボン評が描かれた後の次の文章はとても特徴的だ。

ドロシアにとってカソーボン氏は、彼女の若々しい幻想からなる燃えやすい繊細な心に火をつけるきっかけになった人間にすぎなかったとすれば、今日までカソーボン氏について批判を下してきた、ドロシアほどには興奮しない人々は、公正に彼を理解したということになるのだろうか。隣人である牧師が偉大な精神の持主だと噂されるのを軽蔑するカドウォラダー夫人、恋仇の足の恰好をけなすジェイムズ・チェッタム卿、・・・中年の学者の容姿にけちをつけたシーリア――こういう人々の意見から出た独断的結論や偏見に、わたしは抗議する。(第一部10章、1巻p.171、強調は引用者)*3

 

オースティンも地の文による人物評で読者の印象を操作することがある。

しかし、「ミドルマーチ」の場合、作者自身が登場して口を挟みだす。しかも、読者が登場人物に感情移入したり、登場人物による他者評に納得することを助長するのではなく、これを阻害するのである。これがまるでブレヒトによる異化効果の先取りのような効果を生みだしている。

もう一か所引用しよう。

ロウイックに着いていく週かたったある朝、ドロシアは――しかし、なぜいつもいつも、ドロシアは、ドロシアは、なのだろう?彼女の側からの見方のほかには、この結婚についての見方があり得ぬというのか?悩みや苦労があっても、なお生気に溢れる若い者たちにばかり興味をもち、これを理解しようと努力することには、わたしは反対である。(第三部29章、2巻p.105)

 

読者は、作者のこうした表現によって、ある意味強制的に、登場人物たちを俯瞰的に見てきている。

そして、このような登場人物たちが、冒頭の引用にもあるような「社会的条件の糸」に絡み取られていくのである。

カソーボンや、リドゲイトや、バルストロウドは、「社会的条件の糸」に絡み取られたとき、愚行に走り、苦杯を舐める。

しかし、彼らの人物をつぶさに見てきた読者にとっては、もはや登場人物たちがそのような愚行に走るのが、当人たちにとって不可避であり、必然であり、ある種運命であるかのように感じとられるようになる。

 

全体として不幸が多い物語であり、読後のカタルシスは、決して心地のいいものではない。しかし、ジョージ・エリオットは、登場人物たちへの感情移入を阻害することにより、「社会的条件の糸」のもつ影響力を抉り出してくれる。その怖さには、思わず背中を振り返りたくなるものがある。

本作における「社会的条件の糸」の集合体は、本作の舞台である「ミドルマーチ」そのものであり、まさしく作者が本作に付したタイトルそのものなのである。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆

 

<<背景>> 

1871-1872年執筆。

物語の舞台は、イギリス選挙法改正前夜であるから、大よそ1830年頃になる。

すなわち、作者は現在時点から40年もの昔を敢えて作品の舞台に設定したことになる。

ジェイン・オースティンが亡くなったのが1817年のことであるから、『ミドルマーチ』の舞台は、オースティン作品の舞台と近い年代となる。

なお、感想本文で取り上げることはできなかったが、隣国フランスではフローベールの『ボヴァリー夫人』が1857年に出版されている。同作と『ミドルマーチ』の比較検討もかなり面白そうなテーマだ。

なおなお、ジョージ・エリオット(1819-1880)は女性作家である。同じ頃フランスで同じ"George"を名乗る女性ジョルジュ・サンド(1804-1876)が活躍している。

本文中、くどいように"ジョージ・エリオット"とフルネームで記したのは、"T.S.エリオット"との誤認混同を避けるためである。

よくイギリス文学は"ウルフからウルフまで"と呼ばれる。これはもちろん"Beowulf"から"Virginia Woolf"までを指す。エリオットからエリオットまででは短すぎる。

 

<<概要>> 

全8部構成に、"序曲"と"終曲"が付加されている。各部にはすべてタイトルが付けられている。

部の下は章であるが、第1部からの通し番号で章番号が振られている。

章にタイトルはないが、各章冒頭にエピグラフが掲げられる。エピグラフは、およそ半数が名著からの引用、およそ半数が作者自身の手による警句、詩、対話などからなっている。このエピグラフが、各章の見事な要約になっており、本作の見どころの一つである。

例えば、ドロシアが新婚旅行先のローマで沈鬱する場面では、お誂え向きにダンテがセレクトされ、しかも引用文は次のような文章だ。

またかなたで溜息をつきながら頬づえをついているのをごらんなさい。――ダンテ『神曲』浄罪編、第七歌(第二部19章、1巻p.382)

本作の概要を語る上で外せないがのが、視点の問題である。

基本的にいわゆる「神視点」で描かれるが、ところどころに「わたし」が顔を出す。この私が作品に内在する語り手のポジションなのか、作者と同視すべきポジションなのか途中まで判然としない。ところが、作品中、「前章の会話のあと週を重ねるにつれて・・・(第二部18章、1巻p.360)」という文章が登場し、いわゆる第四の壁を突き破ってくる。したがって、本作の「わたし」は、作家エリオットの被造物に対し、批評家エリオットの立場で評価を加えるという立ち位置にある。

この語りが、作品にさまざまな効果を与えているのは、感想に示したとおりである。

 

<<本のつくり>>

繰り返し取り上げているが、私は翻訳にあたって、日本語に固有の故事ことわざが用いられるのを好まない。本作でも、「江戸の仇を長崎で」といった表現をはじめ、こうした訳し方が頻出する。

しかし、訳文自体が特に読みづらいわけでもなく、とりたてて大きな不満はない。

それよりも大きな問題は、講談社文芸文庫である。

講談社文芸文庫の試み自体は、非常に高く買う。

文庫1冊1600円という圧倒的な定価についても何らの異議もない。もっと高くてもよいくらいだ。

しかし、本作は安定のHSJMである*4岩波文庫とあたりとは違って、重版が滅多にかからないため、古書価格は高値安定である。私も定価の倍くらい支払ってようやく手に入れた。

また、毎度毎度気になるのが、センスのない登場人物紹介のページだ。情報量が中途半端で、積極的な意味が見出しづらい。

そして何より悲しいのが、同文庫の傷みやすい紙質だ。

本作ほどの重要作品が手に入りづらい状況なのはとても残念だが、それでも文庫として手に入るのは、非常にありがたいことだと思う。ただ、講談社さんには、願わくば紙質の改善と、定期の復刊とをお願いしたい。 

 

※追記

2019年1月、光文社古典新訳文庫から、廣野由美子氏の手による新訳で本作が刊行開始となったようである。世界文学史上に燦然と輝く本作が、再び手軽に文庫で読めるようになり、とても嬉しい。

 

*1:一番最低の出来なのはウィル・ラディスローで、この人物に至っては、最後まで読んでも人物像が見えてこないほどだ。

*2:レーニン氏みたいな名前だが、私はそのカレーニン氏もお気に入りだ

*3:この箇所は、「わたし」の初出という点でも印象的だ。

*4:HSJMという単語からリンクを張りまくっていたら、とうとうHSJMでgoogle検索すると、リンク先のwikipediaページが上位にくるようになってしまった。なお、版元(H)品切(S)重版(J)未定(M)である。念のため。