ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ルーヂン』イワン・ツルゲーネフ/中村融訳

SAY YES

この間、ある紳士と一緒に渡船でオカ河を渡ったことがありましたが、渡船がけわしい崖についたので、馬車を手で引き上げなければならなくなりました。紳士のは恐ろしい重い幌馬車なのです。渡し人夫たちがその幌馬車を岸へ引き上げようとしてふうふういっているのに、その間、紳士は渡船の中に突っ立って、見るも気の毒なほどに溜息をついていました・・・現代文学もまた同様で、他人が骨を折って仕事をしているのに、文学は溜息ばかりついているというのです。(p.28) 

<<感想>>

今回は小品、ツルゲーネフの『ルーヂン』を取り上げる。

小品だけに感想も手短に終わらせよう。じゃないと次の作品の感想書きになかなか取りかれない。

そもそも、この作品を読もうと思ったのは、『ディフェンス』(過去記事)を読んだことと、たまたまそのタイミングで岩波文庫の「春のリクエスト復刊」に本作がラインナップされたからだ。

『ディフェンス』がなんで『ルーヂン』に繋がるのかというと、『ディフェンス』は訳書によっては『ルージン・ディフェンス』とも訳され、しかもこちらの方が原題に近く、さらに主人公の名前はそのものずばり「ルージン」というからだ。

必然、私の関心は、ナボコフの「ルージン」と、ツルゲーネフの『ルーヂン』の間に何かの関連・影響はあるのか、といったところにあるのだが、一読したところ、あまり関係は無さそうだった。

 

むしろ興味を惹かれたのは、作品の書かれた時代背景と、その後のロシア史の運命についてだ。これについては、本ブログをお読みいただいているかもしれないロシア文学オタクの同志のために後で少し触れることにするが、時代性・歴史性の強い作品であることとは、即ち現代的な価値に乏しいと言ってもいいかもしれない。

強いていえば、本作の最大の眼目はやはりルージンその人の人物造形にあり、この人物造形の妙こそが、本作の魅力である。現代に生きる我々としても、「ああこういうフニャチン野郎口だけのクソインテリっているよねー!」*1といった共感を覚えることは請け合いである。

しかし、それもやはり私には、本作がかねてより日本国内で広く読まれてきたことの方が不思議でならない。おそらくそれは、我が国の近代文学の揺籃期に、たまたま良い媒介者*2を得たからに過ぎないように思える。

どうしてもツルゲーネフというと、プーシキンゴーゴリドストエフスキートルストイといったいわゆる19世紀ロシアの「文豪」達と比べると見劣りがしてしまう。

したがって、芸術的な、文学的な、あるいは何か普遍的な作品を求めている方には、本作はおすすめしない。

ルーヂン (岩波文庫 赤 608-3)

ルーヂン (岩波文庫 赤 608-3)

 

さて、ここから先はロシア史好き・ロシア文学史好き向けのお話。

本作は、オネーギンやペチョーリン*3を経てオブローモフへと至る、いわゆる「余計者」を主人公にした余計者文学の代表作である。

余計者については、たぶんwikipediaでも読んだ方が早いが、ようは進歩思想を身に付け、有能なのに、行動ができない若者たちのことを指す。

こうした余計者たちが文学的主題になるのは、やはり帝政が長く続いたというロシア独特の社会的背景のためだろう。

分けても本作が重要なのは、ツルゲーネフによって、1856年に書かれたことである。

 

ツルゲーネフといえば、帝政ロシア農奴制を批判し、逮捕・投獄されたことで知られる。

その後、1861年には実際に農奴性が終焉を迎えるが、不十分な改革に対する批判として、ナロードニキ運動が生じる。そのナロードニキ運動の精神的支柱こそが、チェルヌイシェフスキーである。チェルヌイシェフスキーは、獄中で著した『何をなすべきか』(1863年)によって、多くの「行動する進歩思想家」すなわち、革命家を作り出した。『何をなすべきか』は、後に革命を現実化させるレーニンの愛読書の一つである。

なお、若き日のチェルヌイシェフスキーは、同じく若き日のドストエフスキーとともにペトラシェフスキーのサークルで(空想的)社会主義思想を学んでいる。

スキーばっかり出てきてややこしいのはロシア史の定めであるが、チェルヌイシェフスキーに先んじて逮捕・投獄・流刑の憂き目に遭ったドストエフスキーは、この徒刑生活を経て、思想的転向をする。

そして、そのドストエフスキーが、チェルヌイシェフスキーを批判的に描いたのが『地下室の手記』(1864年)であり、ツルゲーネフを批判的に描いたのが、『悪霊』(1871-1873年)である。

 

こうしてつらつらとロシアの歴史を抜書きしてみると、いかに本作が当時の時代状況・政治状況を反映しているのか、そしてロシア文学がいかに社会の政治状況と個人の実存的関心とを結び付けて考えてきたかがよくわかる。

 

なお、ナボコフはチェルヌイシェフスキーの伝記(のパロディ)を扱った『賜物』を書いているが、それはまた別のお話である。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆

 

<<背景>>

1856年発表。

逮捕の原因となった『猟人日記』に続く2作目の小説である。

余計者の系譜でいうと、プーシキンの『オネーギン』が1825-1832年執筆、レールモントフの『現代の英雄』が1839-1840年執筆である。

作者のツルゲーネフは、ゴーゴリより一回り下、ドストエフスキーよりは3つ年上で、トルストイよりは一回り上の世代である。

 

<<概要>>

いわゆる神視点の物語であり、登場人物とは異なる語り手が存在する物語である。

とはいえ、物語のほとんどは登場人物の会話劇で占められ、語り手が描写するのは、ほとんど戯曲のト書きに近しい。

全12章構成に、主人公ルーヂンの後日譚である終章が付される。

岩波文庫版で200頁に届かない分量である。

 

<<本のつくり>> 

翻訳は1961年。ルーヂンの"ヂ"がその訳の古さを示しているが、戦前の翻訳に比べれば、ぎりぎりいま息をしている言葉の範疇であろうか。

会話文を示す符号が括弧ではなくダッシュであるあたりも歴史を感じさせる。

そもそも難解な物語でもなく、訳も自然であるため、読解に苦はないが、もしかすると若い読者には読みにくいのかもしれない。

 

 

*1:訳者は「口舌の徒」と表現している。堅苦しい

*2:無論、二葉亭四迷のことである。

*3:麻雀打ちではない