ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』ミハイル・シーシキン他/沼野充義・沼野恭子編訳

キラキラと輝く大地で

<<感想>>

ヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマ!ヌマ!ヌマヌマ!

狂ったのではなくて、これは歓喜の雄叫びだ。そして多少なりとも狂っているのは、私ではなく、『ヌマヌマ』のほうだ。

我が国のロシア文学界の中で知らぬひとは居ないマエストロ・沼野夫妻が「編訳」した短編集が本作だ。ちなみに、ヌマ1こと沼野充義先生とヌマ2こと沼野恭子先生からなる二人組ユニットが「ヌマヌマ」である。従って、本作品集はヌマヌマが「編訳」した『ヌマヌマ』なのである。ヌマヌマヌマヌマ。

「編訳」なのだから、作品のチョイスもヌマヌマ、作品の翻訳もヌマヌマである。タイトルにあるとおり、現代ロシア、即ち概ねソ連末期~現代の作品が取材されている。

同時代、というだけで傾向をひとくくりにできる時代は終わっているため、これらの作品群を統一する何かを探し出すことは困難だろう。しかし、この短編集全体としては、表現することへの爆発的なエネルギーに満ち溢れていると言える。

もう10年以上も前になるが、当時文学部生だった私は、母校に講師としていらしていた恭子先生から有難くも4単位を頂戴している。あいにく露文科がなかったため、入門的な位置づけの講義ではあったが、隔年で19世紀(以前)ロシア文学、20世紀(以降)ロシア文学を取り上げていた。その講義の中でも沼野先生は、現代ロシア文学がいかに豊穣かを陶然と語っておられた。配布された「日本語で読める現代ロシア文学名作リスト」は今でも大切に取ってある。

さて、以下では、各作品の感想を書き連ねてみた。本当はマイベストを選ぼうと思ったけれど、良作が多く、かつその良作同士で全く方向感が異なるため、選びきれなかった。どれも良かったが、特に気に入ったものには★を付しておいた。

★『空のかなたの坊や』ニーナ・サドゥール/沼野恭子

のっけから読者を置いて予想外の方向(!)へカッ飛んでいく快作。ようこそヌマヌマへ!

ガガーリンの母のモノローグ。ただし、数ページ読んだところで、読者の見解はガガーリンの母(?)のモノローグか、”自称”ガガーリンの母のモノローグへと変わる。

物盗られ妄想のような行動が描かれるなど、語り手の精神疾患認知症かが仄めかされる。

しかし、その語り手の認識の有りようは実に文学的だ。馬の観念と角の観念を結合させてユニコーンを創り出したように、観念を反転させ、色彩のイメージから連想させ・・・

この発想の跳躍、只者ではない。

 

★『バックベルトの付いたコート』ミハイル・シーシキン/沼野恭子

ところで、先ほどからその少年のことを無断で「私」呼ばわりしているが、少年のほうで今のこの私を自分だと認めてくれるかどうかは甚だ心許ない。・・・私の名前が少年と同じだからといって、そんなことには何の意味もない。(p.46)

違う、これは、まわりで何が起こっているかわきまえていない馬鹿な若い女の子が単純だとか愚かだという話ではない。これは、私たちがこの世をどんな地獄に変えてしまったにしろ、こういう女の子を過去も、現在も、未来も、この世に送り続ける方の知恵なのだ、と。(p.59)

主に母との思い出を描いた、物語としてはなんてことない男性視点の自伝的モノローグ。しかし、引用部分を読んで欲しい。斬新な視点。美しい文章。

ヌマヌマでなければ、きっと本作が表題作だろう。

 

『庭の経験』マリーナ・ヴィシネヴェツカヤ/沼野恭子

そうはいっても、ダーシャと私にはこの庭があった。思うに、この「あった」という言葉の中に「ある」という意味を聞きとることができるのは、年取った女と幼い少女だけなのではないだろうか。(p.77)

子守りとして少女ダーシャとダーチャで過ごした思い出を描いた、物語としてはなんてことない女性視点のモノローグ。シーシキンより穏やかで牧歌的。やや退屈な印象だったが、引用の一文で心が洗われた。

 

『聖夜のサイバーパンク、あるいは「クリスマスの夜-117.DIR」』ヴィクトル・ペレーヴィン/沼野充義

SFチックでカオスな作風と見せかけて、意外とまっすぐに政治・社会風刺をする作品。しかも、しっかり古典(今回はツルゲーネフ『ムムー』)を引用している。装いこそ現代的だが、伝統的な露文スタイルの作品といえそうだ。

 

★『超特急「ロシアの弾丸」』オリガ・スラヴニコワ/沼野恭子

ゴーシャは女の子を味見すると、どこかの壁際に丁重に置き去りにして、陽気なマルハナバチよろしく次の花めがけて飛んでいくのだ。(p.105)

政治・社会風刺part2。夢の超特急鉄道である「ロシアの弾丸」を巡るお話。弾丸よろしく、プロットの疾走感がハンパなく、ガンガン読ませる。

読み終わってから著者が女性であることに気づいて少し驚いたが、なぜ男性だと思って読んでいたのだろうか?

それにしても皆さんマルハナバチの比喩がお好き。私は勝手にプルーストが原因だと思い込んでるけど、違います?

 

ロザンナエドワルド・リモーノフ/沼野充義

「あなたたちロシア人ってどうしていつも酔っぱらってばかりいるの?マーシャも酔っぱらったし。部屋の片隅にはロシアの詩人が酔っぱらって寝っころがり、別の隅にはロシアの小説家が酔っぱらっているなんて」(p.151)

愛を失った喪失感(?)、知らんけど。そういったものを埋めるために、とにかくファックするお話。ドビュッシーの小曲とともに去っていく。つまり、だいたいは村上春樹みたい感じ。

違うのは、スカした文体に換えて、ド直球の性描写をこれでもかとぶち込んだところ。ウォッカが多めに足されているあたり、ロシア風の味付けになっている。あとがきでヌマ2先生が保護者向けの注意を喚起したのはこの作品だろう。

なお、この作品だけが短編ではなく、長編からの抜粋となっている。

 

『おばあさん、スズメバチ、スイカ』ザハール・プリレーピン/沼野恭子

10頁。短編的魅力の詰まった、短編らしい短編。ズバッと鋭い切れ味にやられる。いや、本作の場合、蜂の一刺しと言うべきか。

場面転換の一行が最大の読みどころ。場面転換前の分量も、転換の効果を見据えた適切な量と中身になっている。どこを引用してもネタバレ的になりそうで躊躇われる。

 

★『霧の中から月が出た』タチヤーナ・トルスタヤ/沼野恭子

ナターシャは自分が女という不潔な獣の類だと思うと体がおののき、腹部にむかって、無防備な内奥にむかって、汚れた風がたえまなく吹きつけるのを撚るとなく昼となく感じるのだった。(p.189)

非モテ女性の一代記。細部と感性が凄くいい。身体に対する忌避の感覚も現代的だ。一人称ではなく、あくまで三人称でカメラを主役に固定している文体。

男性で、モテはしないが既婚者で、人生を回想するような年齢にいたっていない、本来であれば共感の前提を欠いているはずの人間にまで届く何か。これぞ文学。

 

★『馬鹿と暮らして』ヴィクトル・エロフェーエフ/沼野充義

赤毛が生えた股ぐらを輝かせて、五歩前進、五歩後退*1。(p.222)

彼女は慰めようもない悲しみに沈んでいたのだ。なにしろレーちゃんはプルーストを全部引きちぎってしまったのだから。(p.221)

保護者向け注意喚起part2。そして出ました最前線。本短編集随一のカオス濃度。まるで表現の自由の切れ味を試しているかのようだ。

語り手は何かの罪で、「馬鹿と暮らす」刑罰を受ける。語り手は、馬鹿の収容所へ行き馬鹿を選ぶことになるのだが、そこで語り手が選んだのは、「レーちゃん」ことウラジーミル・レーニンでなのであった。このぶっ飛んだ設定に、エロとグロとナンセンスを盛り付けたら本作の出来上がりである。

話の中身がカオスな上に、時系列も複雑なため、本短編集でも難読な部類であると思われる。

もちろん、本作をロシア(史)の寓意として読むことも許されるのだろう。

しかし、そうした意味論的な部分よりすごいのは、イメージの結合力と想起力の力強さである。ひとたび本作を読んでしまえば、もはやレーニンの肖像を見たときに、「レーちゃん」を思い出さずにはいられない*2

さぁ、みなさんご一緒に、「えい!」*3

 

『刺青』エヴゲーニイ・グリシコヴェツ/沼野恭子

安心安全安定のヌマ2先生。たぶん本短編集で一番短い8頁。

読み物というよりは語り物のような雰囲気で、伊集院光にギャグ無し人情噺を5分くらい喋らせたような印象のお話。

このお話でいったんレーちゃんの毒を落ち着けよう。

 

『赤いキャビアのサンドイッチ』アサール・エッペリ/沼野充義

よく知られているように、わが民衆は便所というものを、稀に見るほどだらしくなくぞんざいに取り扱う。民衆にとっては狙いをつけてするというごく基本的な能力をないがしろにして・・・。(p.261)

そしてヌマ1先生のターン!

とはいえ、本作には糞尿も性行為も登場するものの、リモーノフやエロフェーエフよりは抑制が効いている。男子の学生時代の武勇伝、といったノリで、おおよそ読み易いといって良いと思う。

それにしても、汚い便所の描写が多い短編集である。そういえば先日読んだ『アメリカの鳥』【過去記事】も、ほぼ丸ごと一章が「汚い便所と向き合う僕」に充てられていた。どうも小説家という人種は汚い便所が好きらしい。

 

『トロヤの空の眺め』アンドレイ・ビートフ/沼野充義

ヘレンに対する私の嫉妬は、大変なものでした。最初のうちはまだ、このウィルスは軽やかな、プルースト的形態を取っていました。・・・私のわびしい学生用の小部屋には、いまだに会ったことのない私のヘレンの先駆けとなった女性たちの姿が、次々と掛けられていきました。ボッティチェリに代わって、ギルランダイオが現れる、といった具合です。(p.304)

〆は本短編集で最長かつ最難読のこいつ。何が難しいって?

まず、本作品は、ビートフが「架空の作家の作品を外国語から翻訳した」という設定で書かれている。その主人公は、ウルビノ・ワノスキという架空の作家で、死後に名声を獲得した伝説的な人物ということになっている。語り手はワノスキの研究者あるいは文芸記者である人物で、その語り手が聞いたワノスキ最後の肉声が本作で描かれている。ワノスキがそこで語るのは、若き日の回想であり、その中でワノスキの未来を語る人物が現れ・・・、

とまぁ表紙のマトリョーシカよろしく、語りの構造が何重にも入れ子になったメタフィクショナルな作品なのである。

それにしてもロシアの皆さんもプルーストはお好きなようで。

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆☆(要前衛耐性)

 

 

<<概要>>

全12作品。数え間違えてなければ男性作家の作品が8作、女性作家の作品が4作。ヌマ1担当が5作で、ヌマ2担当が7作だ。

一番古いものが『ロザンナ』の1979年発表、一番新しいのが『バックベルトの付いたコート』の2010年発表。ちなみにソ連崩壊は1991年である。

訳業の本邦初出年は1989-2011年。『トロヤの空の眺め』が、1987年には書かれていて、それが早くも1989年に拾われているというのはなんとも驚きで、沼野先生の嗅覚を尊敬する。

 

<<本のつくり>>

もう表紙の熊さんとマトリョーシカの攻めっぷりが、否応なしに本作への期待度を高めてくれる。カバーを剥くと、緑地にオレンジのキリル文字というこれまたポップで攻めた装丁になっている。ところでこの熊さんとマトリョーシカ、何が面白いって、あまりにもヌマ1先生とヌマ2先生に似ているのである。

訳注も適度に付されているし、訳文も安定のヌマヌマクオリティである。ヌマ1先生の攻めたワーディングも、ヌマ2先生の優しい文体も、とても魅力的だ。

 

 

*1:彼の著書のタイトルのもじりである。

*2:「レーちゃん」という訳語をチョイスした翻訳のセンスに脱帽である。

*3:「レーちゃん」は白痴なので、えい!としか言えない。