恋愛観や感情論で愛は語れない
あの父の天才的な姿がこの話から、この小説から消えてしまってから・・・、歯止めがきかなくなってしまった。・・・今やたががはずれ、話の葡萄酒、果物の魂は流れ出し、それを皮袋にもどし、話にまとめ、クリスタルのグラスに注ぐことのできる神はもはやない。(p.150)
<<感想>>
一応、私も一人でも多くの人に海外文学を好きになって欲しいと思っているのだけれど、20世紀の作品はまぁおススメしづらいものが多い。
本作もそうした作品の一つだ。
物語からプロットは失われ、遠回しな比喩が多く、時系列は意図的に錯綜させられ、語り手は信用できない。語ること/読むことそれ自体も主題化される。もちろん、作者としても何か理由があって、敢えてそのように書いているのだろう。
物語で語られているのは、語り手、姉、父母の4人家族の物語である。どうやら語られているのは、語り手が10歳にもならない頃の話のようだ。中でも話の中心になるのは父であり、また、父と語り手との関係性である。
歴史の渦中にある10歳児には、当然、自身が置かれた歴史的・客観的状況はわかろうはずもない。だから、語りの力点は、必然的に印象・感覚・イメージや、様々な主題群になる。
ところどころに現れるキーワード群―いくつかの東欧の地名、年号、ゲットー、封印列車、ポグロム―が、読者自身の歴史的な知識と結合されることによって、登場人物たちの置かれた歴史的文脈が少しずつ明かされていく。
ではなぜ著者は『戦争と平和』のように、正面から歴史的に記述するのではなく、敢えてこうした迂遠な方法を取ったのだろうか。
私の思う限り、その理由は恐らく二つある。あるいは、同じ理由を二つの側面から説明することができる。
一つ目は、敢えて歴史物語風に記述をしないことにより、過去の苦難が苦難としてではなく、歴史書の1ページになってしまうことを防ぐことである。
戦後ナチス批判を展開した思想家アドルノは、『アンネの日記』を評して次のように言っている。数百万人の悲劇を、一人の悲劇で代表させたはずなのに、いつの間にか、一人の悲劇が残りの数百万人の悲劇を覆い隠している*1、と*2。
本作ではむしろ、匿名性・普遍性の高い家族の物語を前景にし、歴史的記述を背景に追いやることにより、逆説的に背景が前景に与える問題を普遍性のある形でクリアに描き出している。
二つ目は、歴史物語の記述をしないことにより、当たり前のことであるが、前景化された主題をより細密に描くことである。また、敢えて時系列や客観的な情報に従わず、語り手のイメージの連接に沿って語ることにより、印象・感覚・イメージの持つ不定性・不確実性を見事に表現している。
繰り返し登場する、印象・感覚・イメージや、様々な主題群は次のようなものだ。
幼少期の眠りへの恐怖、夢、眠りと死の類似性、死と不死、死と生。性、排泄物。ノアの大洪水。スピノザあるいは汎神論。
・・・一キロの牛肉がその中で腐敗していた。ほら、もう六日目だ。そこには、死肉のように蠅の群れと一匹のマルハナバチ。(p.87)
つまり、死は多めで、生は少なめ。
そして生のテーマは、もっぱら性あるいは排泄物(尿、洟など)の主題と結びつく。
父は新聞で洟をかむ癖があった。・・・父がいなくなってから、たっぷり二年も経って、もうけっして帰ってこないことがはっきりしたころ、僕は、伯爵の森の奥深く、空き地で、草と矢車草の花の間に、色あせた新聞紙を見つけ、アンナ姉さんに言った。「見てよ、父さんたら、これだけを僕たちに残していったよ」(p.98)
死が身近にある、限界的な生の形。
文体として重視されているのは、遠回しな比喩と五感の感覚だ。
僕は車輪の奏でる旅の音楽に酔いしれ、燕や渡り鳥は、電線の楽譜にアドリブと即興演奏によって三連符を書き込み、三拍分の休止の間に、突然、大きな音で、鉄橋のパイプオルガンと、疲れた溜息とすすり泣きで夜の彼方の闇を貫く汽笛のフルートが入る。(p.25)
五感のうち、特に重視され、主題にさえなっているものは嗅覚、すなわち、匂い・臭い・香りである。
父の匂いが急に消えてしまうと、僕たちの家から何か男らしく厳格なものが失われて、部屋全体の様子もすっかり変わってしまった。(p.117)
・・・地面の下の層はまだ馬の小便の匂いがぷんぷんしていた。この事実は臭いの永遠性についての僕たちの主張を証明している。(p.128)
時系列をズラし、語り手の認識を誤らせることによって、読者に強く印象付けられるのは、死んだはずの登場人物(父)が生きているように読める、という点である。
ここに来て、本作で扱われた様々な主題群は、交差しあるいは収束する。
親しい人の死、父の死あるいは他者の死。こうした死者に対する生者の側の感覚が見事に抉り出される。
このように、本作は最大限の文学的技巧を駆使することにより、歴史性に縛られない普遍性を獲得している。惨劇の詩的表現を単なるルポルタージュに貶めることなく、文学的に昇華させることに成功しているのだ。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆
<<背景>>
1965年刊行。
『失われた時を求めて』の影響が強く感じられる*3。乱暴にいえば、視点人物が弱者である『失われた時を求めて』である。いや、父子の主題が前面に出ているあたり、『賜物』【過去記事】のほうこそより近くに感じる*4。
『失われた時を求めて』は1913-1927年執筆、『賜物』はベルリンの雑誌掲載(1935-1937年)が初出で、ニューヨークで実現した完全版の出版は1952年まで下る。
作中年代はおおよそ1930年~終戦後数年間である。語られざる背景である虐殺事件が起こったのは1942年のことだそうだ。
なお、細かい話だが、物語中、父が連行されるのに語り手が連行されないのを不思議に思われるかもしれない。理由は恐らく次のとおり。すなわち、ニュルンベルク法上、ユダヤ人認定は4人の祖父母の信仰で決まる。語り手が母方の信仰を継いでいれば、家族のうち父だけが「完全ユダヤ人」となることが起こりえる。語り手の信仰は、洗礼と堅信を同時に行う正教徒であると推測しうる。語り手の母方祖父母も正教徒であるとすると、語り手は同法上の「1級混血」となり、連行の対象とはならない。
<<概要>>
全12章構成。しかし、章題はおろか、章番号さえ付されない。
翻訳版では改ページがされているため、章の区切りは明白である。番号を付していないのも、明確な構成を敢えて排除する狙いからだろう。
章の下には行アキが多数配置され、イメージや連想の切れ目がそこで示される。
概ね1章~7章は時系列が素直である。8章以降で、時系列は逆流し、あるいは意図的にズラされ、そのことによってむしろ父の不在に対する観念が強調される。
訳者によると、著者自身の実体験と文中の時系列や登場人物名はおおむね一致しており、自伝的な物語を捉えることも可能なようだ。
<<本のつくり>>
訳者は、チトーの死後、ユーゴ崩壊前の時期にベオグラード大学で学ばれているようであり、恐らく我が国有数のセルビア文学の専門家であるものと思われる。なお、詩人でもあり、谷川俊太郎氏の詩のセルビア語訳も手掛けているそうだ。
また、キシュの翻訳も複数手がけており、本作を訳すにおいてはきっと訳者こそもっとも適任なのだろう。
解説も見事で、表現される各主題群を余すことなく分析しており、とても優れた解釈である。
他方で、訳者も先刻承知のことだろうが、訳文の好みは読者によって大きく分かれそうだ。日本語的に馴染みにくい、修飾節が文末に来る訳し方を選択している箇所があるからだ。プルーストの美文やウルフの名文など、認識の順と語順とに気を配って書かれた文章も多い。このため、プルーストに影響を受けたような、主観強めの文章の訳出には困難が多いものと推測される。
唯一の注意点として、本作はあとがきを先に読まない方がよいと思われる。第一級の専門家であるため、歴史的事実や、原著者の経歴に関する言及があまりにも詳しすぎるのである。文学的な味わいとしては、やや興ざめである。
私は、いわゆるネタバレが、文学作品の価値を貶めることないとの信念のもと、普段、物語の核心部分に触れることを避ける努力はしていない。しかし、本作を読むにあたり、本作にまつわる歴史的背景を先に、あるいは詳細にインプットしてしまうと、作者が表現した印象・イメージ・感覚の断片群を、歴史的事実に過剰に還元してしまうのではないかと懸念する。
以下は余談であるが、先日みてきた「ゲルハルト・リヒター展」(東京国立近代美術館)に、「ルディ叔父さん」【画像検索のリンク】*5という作品があった。
兵隊風の恰好をした、笑顔の男の写真。それもボケている。
さて、この作品はコンテクストなしで、作品単体で成立しているだろうか。答えはたぶん否だろう。
実はこの男は出征直前のナチスの兵隊で、リヒターの叔父であり、そして撮影から半年後に死んでいる。
こうしたコンテクストが与えられ、それが鑑賞者から観測されたとき、作品は何かの意味を持つ。しかし、作品を完全にそのコンテクストに還元してしまうと、それが作意から大幅に外れるのもまた明らかだろう。