空と君とのあいだに
夢によくあるように、この細部には何かしらの意味が煌めいている。(p.516)
<<感想>>
本作は、未来永劫公平な評価をされることはないだろう。細かい経緯は後で背景欄に示すが、本作は『ロリータ』【過去記事】の習作的な作品として位置づけられている。そのため、『ロリータ』を読む前に本作を読む人はごくごく限られているだろうし、どうしても偉大な『ロリータ』との比較の視点ばかりに目が行ってしまうからだ。
そこで今回は、ひとまず『ロリータ』の欠片にも触れつつ、できるだけ本作が持つ魅力にも迫っていきたい。
ロリータの欠片
少女欲しさにその独り身の母との結婚を企てる、という大筋が似ているのは事前情報として知っていた。ただ、驚かされたのは、その細部である。もちろん、本質的には全く別の作品に仕上がっているのだが、ライトモチーフまでもが『ロリータ』でリサイクルさているのである。
・・・砂時計が飲み込むのにだけ役立つであろう海辺の砂の上で、・・・(p.480)
アワー・グラス湖、『ロリータ』p.147*1。
うっすら口髭の生えた左側の女は、・・・(p.481)
ミス・ビアード、『ロリータ』p.226。
喪服の老婆は突然泣き出して、立ち去って行った。(p.483)
カスビームの床屋、『ロリータ』p.377
そのとき病院から電話が掛かってきて、・・・奥方が亡くなったことを知らされた。(p.509)
デウス・エクス・マキナ、『ロリータ』p.174。
園芸博覧会があって来賓が大勢詰めかけている(p.520)
ブライスランドのフラワーショー、『ロリータ』p.211
この他、ハンバート同様、本作の主人公*2も、やたらと少女の「脚」に視線を送る。
不思議と、英語作品だと思って『ロリータ』を読んでいるときには気づかなかったけど、ロシア語作品だと思って『魅惑者』を読むと、この「脚」、プーシキン由来*3なのかと思ってしまう。
これが本当にプーシキンの引用なのかはわからないが、訳者解説によると、本作は「引用の織物」でもあるという。続いて以下では、そうした引用の箇所を探っていきたい。
引用の織物
『リア王』や『ガリヴァー旅行記』、『ロビンソン・クルーソー』【過去記事】などは、登場人物名がそのまま出てきてわかりやすい*4。
こっそりと引用されている箇所ではないかと私が疑っているのは次の二カ所。
萎びた小さな枯葉が彼女の髪に絡まり、頸のところ、椎骨の優美なふくらみのうえでふるえていた(p.486)
この枯葉を落とした木々の存在は、p.482で描写されている。
これは『アンナ・カレーニナ』で、キチイのマフの上に落ちた霜の描写からの引用だろう。当該場面はナボコフ先生のお気に入りであるらしく、私もアンナ・カレーニナの過去記事で紹介している。
―今すぐ、ドアから離れなさい、今すぐに―(p.529)
これはドストエフスキーの『罪と罰』からの引用というか、パロディではなかろうか。
いますぐ、すぐに行って、十字路に立つんです、(岩波版下巻、p.135)
本作では、主人公の罪が発覚するシーン。『罪と罰』では、ラスコーリニコフがソーニャに罪を告白するシーンだ。
ロシア語作品だと原文を対照して確認することができないのが悲しいところ。
ロシア文学とアメリカ文学
さて、ロシア語作品といえば、『ロリータ』と『魅惑者』とでは、書かれた言語が異なる。そのせいなのかはわからないが、ナボコフのロシア語作品と英語作品とでは、だいぶ読み味が違う。
まず、『ロリータ』の感想のときも触れたが、ナボコフは総じて英語作品のほうがリーダビリティが高い。これは、『ロリータ』と『魅惑者』の書き出しを比べてもわかる。『ロリータ』では、序文の中で早くもストーリー的な謎がばら撒かれ、読者の興味を駆り立てる。他方、『魅惑者』では、意味の取りにくいモノローグが数ページ展開され、ようやく「幕が開く」のは冒頭から5頁目まで読み進めてからだ。
また、人物造形の点もそうだ。本作の主人公や『処刑への誘い』【過去記事】のキンキナトゥス等と違い、ハンバートやキンボート*5は明らかにコミカルに描かれている。
他方で、英語作品に比べたロシア語作品の美点は、描かれる情景の美しさであると思う。『賜物』【過去記事】はこの評価が最もよくあてはまるし、マーシェンカ【過去記事】で鮮やかな色彩をもって描かれた情景も実に美しい。本作は短いため、そうした描写の箇所は少ないが、魅力の一つに数えられる。
少女が・・・気まぐれな陽光が作り出す幸福を突き抜けて、彼が座るベンチの方に近づいてきた。・・・ようやく全速力で走り始めると、自由になった両手で風を切り、見えなくなっては姿を現し、現れてはまた消えて、藤色と緑色に彩られた木々の下、同じく明滅する木漏れ日の戯れのなかに混ざっていった。(p.482)
語られない魅力
ここまで記したように、ナボコフというとどうしても表現上のポイントに目が行ってしまう。しかし、実は人物描写も素晴らしい。たいていは人間の哀しく醜い点を描くのだが、それが最高度に結実したのがハンバートだ。本作でも、少女の母である42歳の死にかけに未亡人の描写が秀逸だ。
それに馬鹿みたいに聞こえるかもしれませんが、あの子のしっかりとした脚と頬の赤みが、あの食べっぷりがひどく羨ましいの。(p.495)
今回も長々と書いてしまったが、ようは何が言いたかったかというと、本書の6000円近い値段など気にせずポチって、みんな『魅惑者』を読みましょう、ということだ。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆
<<背景>>
1939年執筆、1991年発表。途中、英訳版が息子ドミトリイの手によって1968年に発表されている。同じ頃に『孤独な王』という作品も書かれている。『魅惑者』は一応完成していながら発表されず、『孤独な王』は未完でありながら1940年に発表されている。
これは、本作の性的な主題が忌避された挙句、WWIIの勃発、作家の亡命という運命を経て、打ち捨てられたままとなってしまったためである。
しかし、構想や主題、ライトモチーフは16年後の1955年、『ロリータ』に結実することとなる。同じく、『孤独な王』の一部も、1962年に『淡い焔』として蘇る。
作者には『魅惑者』以前にも、1928年に「リリス」という少女愛を主題にした作品があるそうだ。
ナボコフ先生に強硬に反対されそうだが、私としては、やはりこの系譜の背後には『悪霊』などのドストエフスキー作品があるものと考えたい。
ところで、「リリス」も『孤独な王』も私の知る限り邦訳が出ていない。どなたか翻訳していただけませんかね?
<<概要>>
長めの短編、あるいは短めの中編であり、部や章の区切りはない。稀に行アキが挟まるのみである。なお、英訳版には、ドミトリイが付したと思われる章分けがあるそうだ。
本作の人称・視点をどう捉えるかは微妙な問題である。
主人公を「彼」と称しているからには、三人称とも捉えられるが、視点人物は常に主人公に固定されている。私としては、主人公が、自分を「彼」と呼ぶ一人称小説であると捉えたい。
<<本のつくり>>
「蛇のようにうなりながらピリオドのこない」文章を、訳者は懸念しているが、これこそナボコフ本来の文体であり、私は大歓迎である。ロシア語は全く読めないが、少なくとも日本語として違和感を感じる部分はない。
本作と同時に収録されている『ロリータ』の若島御大の編集方針のせいか、本作にも訳注が付されていない。確かに、発見の楽しみを奪われるという懸念はある。しかし、ロシア語作品では原文にあたることもできず、「何かありそうな箇所」に何があるのかわからない部分が多かった*6。このあたりは少しでも訳注を付して欲しかった。
ようは何が言いたかったかというと、新訳ありがとうございます、ということだ。