ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-10『賜物』ウラジーミル・ナボコフ/沼野充義訳

輝ける君の未来を願う本当の言葉

百年後か二百年後に、ロシアではぼくは自分の本の中で、あるいは少なくとも研究者による脚注の中で、生きるだろうから。(p.556)

<<感想>>

最初に少しモノを申したい。『賜物』という物語にではなく、『賜物』に付着している物語についてである。いやいや、確かにジョン・ロックじゃあるまいし、タブラ・ラーサ*1で読書を始めることなんて不可能だ。あとがきや解説、帯文やカバーのアオリ文にどれほど禁欲的になったところで、そもそも何らかの情報に触れたうえでその書籍の購買行動に走ってるはずだ。さらには、新人賞の審査委員にでもならない限り、翻訳者や編集者のスクリーニングを経て市場に出ている、という情報は不可避的に付着している。

それにしても『賜物』の場合は付着物が重すぎる。

ロシア語時代の最高傑作、まだいい。ロシア語時代最大にして難解な長編、・・・許そう。

プルーストの『失われた時を求めて』【過去記事】や、ジョイスの『若い藝術家の肖像』に比肩する芸術家小説、だんだん怪しくなってきたぞ、『賜物』でさえ大変なのに、もっと大変なプルーストジョイスを読んでなきゃいけないのか?

ロシア文学へのオマージュ、ロシア詩の引用を含み、ロシア語の膨大な言語を駆使し・・・、おいおいおい、この作品はロシア語話者以外には価値の乏しい作品なのかい?

いやいや、ダムロッシュアニキ【過去記事】が言っていた。世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品だって。そして、本作の訳者はそのダムロッシュアニキに賛意を示している沼野先生だ。きっと日本の読者にも、その豊かになった姿態を示してくれているはずだ。

でもついでなのでその沼野先生にも一つ。

解説が詳しすぎる。もちろん詳しいのは良いことだ。ただ、手堅くまとめられた各章のあらすじに続いて、代表的な解釈を説明されてしまうと、私がこの感想で書く陳腐な内容など、何の価値もなくなってしまいそうだ。

そこで今回は、冒頭の7,8ページ*2を精読し、そこに注釈*3を付すことにより、ロシア語のできない私にとっても、いかに『賜物』が興奮に値する作品かをどうにか示してみたい。

とても長く、とても黄色いトラックで、その前面につながれていたものはやはり黄色い牽引車で・・・(p.7)

冒頭二文目。最初の色彩表現であるが、引用部分も含む最初の1パラグラフ内に、膨大な量の色彩表現が現れる。『マーシェンカ』【過去記事】の感想でも触れたが、ナボコフのロシア語時代の作品には、色彩表現の豊かなものが多い。

実は、1章の末尾p.118で、語り手には色彩的聴覚があることが明かされる。文字や言葉が色で感じられる能力、という意味である。すなわち、118頁目にしてこの冒頭の色彩表現が、語り手の認知の在り方に即した表現であることが確認される。

本作は終始一貫してこうした自己言及が主要なテーマになっている。

 

そして、それらの文字の一つ一つに(四角いピリオドも含めて)黒いペンキで左側から影がつけられていたのだが・・・、(p.8)

出ましたカッコ書き。本書ではまぁこのカッコ書きが出るわ出るわ—コイツ(と、同じく多用されるダッシュ)が読みづらくて挫折する人も多いのではないだろうか。しかし、後でいくつかの例が出るように、このカッコ書きの中にこそ、背筋を震わせる素晴らしい文章が潜んでいることが多い。初読、再読と線を引きながら読んでいって、あとで見返したら、線が引いてある箇所の相当数がカッコ書きの中であった。

ところでこのカッコ書き、美術館の音声ガイドや映画のオーディオコメンタリーのように、本筋(絵画や映画)にオーバーラップしてくる*4という点で、独特の効果を生んでいる。さらにいえば、このカッコ書き自体が、本文とは違う位相で書かれた文章、即ち著者自身*5による注釈のように読めてくる。そうすると、この異様なカッコの多さが、後年の『淡い焔』【未来記事】*6の様式を胚胎しているように思える。

 

建物の真ん前には(ここにぼく自身も住むことになるのだが)、・・・(p.8)

続いての難物はこの「ぼく」だ。何せ、ここのこの「ぼく」が、物語の中で最初に出てくる人称を示す言葉なのだ。ところが今度はその12行先に「彼」が出てくる。当然、『ボヴァリー夫人』【過去記事】の冒頭に出てくる「僕たち」*7を意識した上でのジャブだろうが、本作の人称構造は「ぼく」と「彼」の間を行きつ戻りつする複雑なものである。中には、地の文で、「ぼく」が繰り広げる妄想の中に出てくる第三者が「ぼく」を「彼」呼ばわりしている文章が出てくることもあり、読者の読解力に挑戦を仕掛けてきている。

 

通りの両側には中くらいの菩提樹が植えられ、その密生した小枝には未来の葉の配置図にしたがって雨の滴が宿っている(明日になれば滴の一粒一粒に、緑の瞳が一つずつ入るだろう)。(p.9)

菩提樹。ロシア人の大好きな樹。素晴らしいハチミツの取れる樹。ナボコフもこの菩提樹が好きなのか、作品にしょっちゅう登場する。とくに、菩提樹が芽吹き、そして実をなしていく変化を愛するようで、引用の箇所も実に詩的に経時的な変化を示している。

なお、『マーシェンカ』【過去記事】の感想でも引用したように、同作でも作中の重要なシーンで、菩提樹の変化が美しく描写されている。

 

手作業で作られた(そのため足に嬉しい)色とりどりの歩道を備えているこの通りは、・・・(p.9)

またカッコ書きだ。さて、なぜわざわざ「足に嬉しい」などと言及されるのか?それは91頁後のエピソードに繋がる*8

 

色とりどりの歩道を備えているこの通りは、ほとんど気づかないくらいの上り坂になっていて、まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。(p.9)

先の菩提樹の表現、そしてこの比喩。ナボコフ作品は、ここに興奮する嗜好を持った人のためのポルノだ。だいたい普通の比喩というのは、喩えられるものがまずあって、そいつを何かに喩えるはずだ。だが、この比喩の面白いところは、比喩を使いたいがゆえに、通りの建物を創造するという逆転が起こっているところだ。しかも、通りを小説に喩えるというところも文学オタクにはたまらない。

私の思いつく限り、『若きウェルテルの悩み』*9か、『パミラ』*10だと思うが、そうした書簡体小説的プロットの陳腐さを嘲笑する意図もありそうだ。

 

例えば、アレクサンドラ・ヤーコヴレヴナがぼくに打ち明けたところによれば、・・・(p.11)

物語で最初に登場する人物名。この時点でまだ語り手の名前は明かされていない。そして、次に登場する人物はアレクサンドル・ヤーコヴレヴィチ・チェルヌィシェフスキーである。もちろん別人で、わざと紛らわしくしているのだろう。なお後ほどこの両名は夫婦であることがわかる。

コレクション版の解説ではこれを「名前の氾濫」と呼んでいたが、本作では、こうした人物名やその表記の揺れを利用したお遊びも度々登場する。

 

ちょうどそのとき、引っ越し用トラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木々の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通り過ぎたのだった。その揺れ方がなんだか木らしくなく、人間的な震えだったのは、この空とこれら木々の枝、そしてこの滑り行くファサードを運ぶ者たちの天性ゆえのことだった。(p.12)

ここも引用せずにはいられない。この読解を強いる感じ、堪んないね!映画のスクリーンに喩えているが、この場面自体非常に映像的だ。さらに面白いのが、実際に映像で撮るのが極めて難しそうなところだ。文章でしか表現できない映像、これもとてもナボコフらしい文章だ。

 

たったいま目にしたものが―同じような性質の喜びをもたらしてくれたからなのか、それともだしぬけに彼を襲って(干草置き場で子どもが梁からしなやかな闇の中に落ちるときのように)揺さぶったからなのか・・・(p.12)

またカッコ書き。男の子なら誰しもが経験*11したことのあるようなある種懐かしい感触をふっと入れてくる。

よく、ナボコフの文章は「美しい」といわれることがあるが、文章自体の美しさというより、読み手の心のざわめかせる着眼的の鋭さ*12や、想像力の飛躍こそが魅力なように思われる。

 

家主のおかみさんは、彼を中に入れると、は部屋の中に置いてあると言った。(p.13)

カッコ書きと同じくらい頻出なのがこの鍵のモチーフ。結末部でも重要な役割を果たす。ここもナボコフお気に入りの小説を踏まえている。それはスターンの『センチメンタル・ジャーニー*13であり、鍵が開かないことが若い男女を結びつける*14

 

空はヨーグルトのようだ。ときおり盲目の太陽が漂うあたりにオパール色の穴があき、そうすると下界では、トラックの丸みを帯びた灰色の屋根で菩提樹の枝の細いたちが恐ろしい勢いで実体化に向けて突き進むのだが、その形が完全には具現化しないうちに、溶けてなくなるのだった。(p.14)

「雲間から時折太陽がのぞいていた」の過剰に装飾的で繊細な言い換え。でも、菩提樹もトラックもさっきからそこにあったでしょう?

そして大事なのは、鍵に引き続く重要モチーフ「影」である。このモチーフも鍵といい勝負なくらい頻出。現実世界と言葉の世界との対応関係を示しており、メタフィクショナルな本作の構造を繰り返し印象付けている。

 

さぁ、キリがないので、少し飛ばして最後に一つだけ。

そもそも現在を密輸して過去に戻ったときを想像すると、思いがけない場所で今知っている人たちの原型に出会うのは、なんと奇怪なことだろうか。(p.68)

現実世界では、現在の密輸をすることはできないが、読書をするときにはこれが可能となる。そう、再読することによって。例によって例のごとく、『賜物』にも再読時にわかるような仕掛けが沢山施されている。その一部は既に指摘したとおりだ。

今回は、どうにか頑張って、私になりに『賜物』の魅力を説明してみたつもりだ。それでは、良い『賜物』ライフを!

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆(完全な好みか、全く向かないかのどちらか)

 

ナボコフの代表作

ナボコフ・コレクション採録作品の感想の一覧はこちら

<<背景>>

1938年脱稿。ロシア語時代9作目にして最後の長編*15となる。この年から、『セバスチャンナイトの真実の生涯』【過去記事】の執筆を始める。

本作の舞台はベルリンであるが、執筆時期にはすでにナボコフはベルリンからパリに逃れていた。発表はパリの亡命ロシア人向け雑誌「現代雑記」誌に行われた。

この頃同じ「現在雑記」に寄稿をしていた作家に、最近翻訳が出たガイト・ガズダーノフが居る。ソビエト国内ではブルガーコフが『巨匠とマルガリータ』【過去記事】を完成させつつあった。

なお、最近『チェヴェングール』【過去記事】の感想を書いたプラトーノフは、ナボコフ先生と同じ1899年生まれで、ソビエト国内に留まって作品を書いている。

<<概要>>

全5章構成。各章の詳しいあらすじは池澤全集版の訳者解説において的確にまとめられている。作中年代は、素直に読めば1924年4月1日開始と読むべきなのだろうが、そうすると矛盾が生じるため、1925年説もあるそうだ。ただ、思うにナボコフ作品は敢えてクロノロジーに矛盾を生じさせるように作っているように思える。このため、私は素直に1924年と読みたい。

感想本文で触れたとおり、視点位置については極めて複雑だ。読んでいると様々な角度から声が聞こえてくるような、不思議な読み味である。

<<本のつくり>>

いま手に入るのは池澤夏樹世界文学全集版(河出書房新社)と、ナボコフ・コレクション版(新潮社)だ。訳者はどちらも沼野先生で、新潮版は河出版を基礎にして、少し手直しを入れた、とのことである。ただ、訳文上の差異は、よほど注意深い読者ではないとわからないレベルの話だ。

大きな違いは、訳注の取り扱いである。実は、後発の新潮版のほうが訳注が少ない。反対に、河出版にはかなり豊富な訳注がついている。この違いをどう見るか。私は訳注大好きなので、迷わず注が豊富な河出版を採りたいが、敢えて注を減らした沼野先生の意向も捨て置けない。なお、河出版は脚注方式で注が読みやすいのに対して、新潮版は後注方式なので注が読みにくい。

そして、新潮版であれば、本邦初訳にあたる『父の蝶』という小品がついてくる。

*1:白紙状態

*2:『ロリータ、ロリータ、ロリータ』の無謀な真似事である。

*3:注釈への愛については【過去記事】を参照。

*4:(さあ、顎を上げて)(p.32)とかもしびれます。

*5:ここにいう著者自身をナボコフと読むか、主人公と読むかも問題だが

*6:いつか、いつか必ず感想にまとめたい・・・

*7:同作は原則として三人称視点で書かれるが、なぜか冒頭の数段落だけ一人称が用いられる

*8:同じように、p.114の『あらかじめお断りして』は、p.482で再登場する。

*9:書簡体小説で、最後は墓で終わる

*10:書簡体小説で、婚姻というハッピーエンドで終わる

*11:私の場合は、干草ではなく高跳び用のマットで、梁ではなく体育館のキャットウォークだった。

*12:p.114の「濡れた杯がテーブルに残した跡」に対する語り手の言及も参照

*13:岩波文庫版、p.24-28

*14:この指摘を穿ち過ぎと思われる方は、『文学講義』の『マンスフィールドパーク』の項目を読んでください。

*15:中編というべき『密偵』を抜けば8作目