ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『パラディーソ』ホセ・レサマ=リマ/旦敬介訳

花が咲いたら晴れた空に種を蒔こう

世界全体の知恵の樹において、いくつもの枝をついばんだことがあることが見られただけでなく、そのあとで、その同じ樹の葉で、自分の激しい批判的情熱の木の実を差し出すのだった。何かを学びとっては、そのあとでそれを粉砕するのだった・・・(p.347)

<<感想>>

これはヤバい本だ。

そしてこの記事はすべて、この「ヤバい」という単語の長大な言い換えだ。いっそ『パラディーソ』のパスティーシュで書いてやろうと目論んだが、単に崩壊するだけになりそうなのでやめておく。

定跡と常識に従って、まずは作品の出自とあらすじを書こうと試みよう。本作は、キューバ人の作者によって、スペイン語で書かれた20世紀の長編小説だ。セミー家とオラーヤ家の人物達の織り成すファミリー・サーガともいえ、両家の結婚の果実であるホセ・セミーのビルドゥングス・ロマンともいえそうだ。

あー、あれだ!『百年の孤独』【過去記事】みたいやつだ!いや、全然違う。血の臭いよりも知の匂いのする、もっと高踏なトーンの作品だ。

んじゃ、『精霊たちの家』【過去記事】的な?それも全く違う。本作のプロットは完全に崩壊しているし、書かれているのは物語というよりも、表現の洪水だ。

話の筋は相互に交錯しており、結局は、大笑いのうちに雲散霧消するコンゴウインコみたいな極彩色の多面体となって崩壊していくのだった。(p.301)

以下では、パスティーシュは無理でも、せめて本作のキーワードの一つである「多面体」的に、私の能う限りの表現力を用いて、そのヤバさを表現してみたい。

1.類似性と独自性

最初に、どの作家のどの作品に似ているかではなく、むしろどの作品に似ていないかで説明を試みよう。

ホセ・レサマ=リマは、ジェイン・オースティンに似ていない。まるでオースティンが白い絵の具でルビンの壺を書いたのに対して、レサマ=リマは黒い絵の具でルビンの顔を書いたかのように。

ファミリー・サーガであるのなら、主人公ホセ・セミ*1の両親の結婚は物語の重要な要素のはずだ。しかし、描かれているのは両親が初めて出会うところまでで、その次の場面は何と結婚式である。

オースティンであれば、出会いから結婚までのプロセスは堅固なプロットと繊細な心理描写とで描かれただろうが、そこに性愛が描写される余地はないはずだ。しかし、『パラディーソ』の世界では、まるでわんこそばのように次々と男根と肛門と陰門とが差し出される

逆に、読んでいる途中で、部分的な類似を感じた作家の名前として、ヴァージニア・ウルフ過去記事】を挙げてみよう。特に会食の場面で、女性たちの細かな思惑が描写される箇所(p.224)などはとてもウルフ的だ。ところが、レサマ=リマはウルフの仮面を投げ捨て、一瞬にして残雪【過去記事】へと変貌を遂げる。突如として長い幻想的なシーンが展開されるのだ。

2.幻想性と現実性

本作の幻想的な場面は、まるで幼児の妄想のようだ。

あれは確か幼稚園児だった頃、宮崎勤という子どもを殺す怖いおじさんのニュースが連日テレビに映し出されていた。また同じ頃、母が見ていた『八つ墓村』に登場した頭にロウソクを括りつけた殺人鬼*2は、私に強い印象を残した。

そしてその後すぐ、私は近所の公園で遊んだ帰り道、頭にロウソクを括りつけた宮崎勤に、軽トラックで追い回されるのを必死の思いで走って逃げたことがある。当然、それは恐怖心が生み出した幻想なのだろうが、当の本人にとっては、現実の体験として記憶に残っている。

この論理性のなさと現実感の強さ。これが『パラディーソ』の幻想的な場面の特徴である。この点では、楳図かずおの後期作品*3のような雰囲気もある。

3.多面性と対象物

結局、この作品はいろいろな作家の作品と少しずつ似ているように見えて、結果的にどの作家の作品とも似ていない。結果的に誰とも似ていない芸術家という点では、ピカソのようだともいえるかもしれない。

ピカソといえば、本作はキュビズムと言っても良いかもしれない。『パタゴニア』【過去記事】について、その作者であるチャトウィンは、「キュビズムの手法で書いた」と言ったそうだが、本作にもその表現はあてはまる*4

書きかけの小説を放り出さずに、そのまま別の小説を書きだしたかのように、物語の途中で跳躍が起こる。訳者解説で10年以上かけて書かれた作品と説明されていたが、なるほどその通り、序盤の1~3章あたりと、佳境の10~11章のあたりでは、書きぶりが随分と異なる。序盤の章の際立った特徴は、比喩比喩比喩比喩、息の長い比喩の連続だ。ところが、引用、特に文学・哲学からの引用はほとんど見られない。反面、佳境の章では、常人にはついていくのが困難なくらい、文学・哲学・音楽・絵画からの膨大な引用が行われる。その時々で作者の関心が変遷し、その関心に従って好き放題書き連ねていったかのようだ。

しかし、ピカソチャトウィンとは決定的に異なるのは、最終的に何が描かれていたのかが、よくわからないという点だ。

4.喘息と同性愛

さて、息の長い比喩の話を出したところで、プルーストにご登場いただこう。私の思うところ、本作はプルーストに強い影響を受けて書かれている。お前がプルースト好きなだけだろうと思われるかもしれない*5。しかし、息の長い比喩という文体的特質、語り手が喘息の持病を抱えている点、同性愛や時間、記憶が大きな主題となっている点など、共通点は多数指摘できる。明示の引用(p.410)があること、スワン家のほうとメゼグリーズのほうに関するモチーフの借用(p.437)があることから、少なくともレサマ=リマがプルーストを読んでいたことは間違いないだろう。

プルーストとの関係では特に、喘息のテーマに触れたい。プルースト本人と同じく、作者レサマ=リマも、幼少期から喘息に悩まされたそうだ。プルーストと喘息というのは、古くから研究者によって、その関係性が取り上げられてきたテーマだ。

プルースト研究者である吉田城は、その関係性を論じるにあたり「プネウマ」というギリシャ語由来の概念を援用する*6。「プネウマ」の原義は「(神の)息」であり、同時に「風」や「霊感」などを意味し、プルーストはこれを「生のエネルギーの根源」と捉えていると指摘される。そしてプルーストは、喘息による呼吸の苦しさにより、「健康な人なら意識しないような空気の存在、呼吸のリズム、そのような生命原理自体を意識することができた」と論じられている。

私は、レサマ=リマも、プルーストと同じように、こうした生命原理自体=プネウマを意識した作家だと思う*7。また、その生命エネルギーは、性的エネルギーを通じて、同性愛の主題にも繋がる*8。特に、作中で直接的に「プネウマ」という概念が用いられる箇所が印象的だ。その場面とは、同性愛者であるフォシォンが、その愛の対象であるフロネーシスに対し、もはや肉体的な合一を求めない*9ことが書かれる場面だ。

・・・彼はある転移を経験していて、そこにおいては、彼の性的エネルギーの言語はもはや相手の身体を求めることがないのだった、つまり、そのエネルギーは自らの肉化を追い求めず、言語から身体へと行くことを求めず、その反対に、自らの身体から出発して、その「空気化」を、微妙化を達成するのだった。相手の身体の絶対的な呼気=生命原理(プネウマ)を。・・・それはまるで、一羽のタカがプネウマを、飛行の霊的原理そのものを追いかけているようなものなのだった(p.407)。

5.比喩と引用

次は、プルーストからは少し離れて、文体的な話をもう少ししたい。比喩の洪水についてはプルースト以上だが、膨大な引用も凄い。

作中全編にわたって用いられるのは、ギリシャ神話の用語だ。ギリシャ神話の用語の乱用が、前半のファミリー・サーガに叙事詩的な雰囲気を与えている。そしてそれが洪水のような比喩に織り込まれるものだから、読み進めていくのはかなり大変だ。また、日本を含む世界中のあらゆる事物が持ち出されるから、まるで比喩の中で世界旅行をしているような気分になる。

囚人の一人が突進して、武士の一団を排撃しようとする日本人漁師のような叫び声をあげると、破裂したイチゴは、その聖なるリンパ液が種のテーバイに浸透していく一方で、処刑場の向こうへと飛び散って、そこでは即座に差してきた太陽光線に神秘的な転生を命じられて、セイロンの七面鳥になったりロンドンの公園のナマケモノになったりして姿を変えた。(p.157)

ナボコフ先生が歓びそうな、宙返り的な比喩もあれば、

・・・ブルジョワ階級の女性たちと、化粧が濃すぎる別の種類の女たち—やはり午後の五時以降、町の外れで、酸っぱくなった牛乳に浸した古いパンを齧っているオウムみたいな緑色に塗られた鎧戸の家々に姿を見せる—の間でどういう位置をとったらいいのかわからずに困った。(p.203)

短くて小気味の良い比喩も多い。

・・・それが首筋のむずがゆさみたいにずっとひっかかっていたのだ、喫水線のところにいつまでもつきまとうコルクのかけらのように。(p.255)

・・・少年たちがローラースケートで、朝を薄切りにしてから、まるで凧のようにそれを吹き飛ばしているみたいだった。(p.277)

中盤以降から始まる文学・哲学への言及は多岐に渡り、記憶の限りで少し名前を挙げると、ノヴァーリスゲーテ、シュニッツラー、フロイトキェルケゴールプラトンアウグスティヌスアリストテレスドストエフスキーカフカ、ジイド、コクトーニーチェパルメニデスジョイスマラルメシェイクスピアスタンダールなどが登場する(画家と音楽家は割愛)。

また、この奇怪な自作に対する言い訳か自己言及かのような表現が多用されるのも面白い。既にいくつか引用したが改めて書き抜いてみたい。

因果関係で結ばれていない一連の途切れ途切れな生の体験を通じて、断片や挿入、後づけの再構成やさまざまな出典の照らし合わせが彼の中では、口にされると同時に、歓喜に沸き立つプラズマとして、身体をギターのように爪弾く共鳴する繊維素として、組織されていくのだった。(p.122)

・・・単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわしてきて、彼の、暗い、不可視の、名状しがたい通路に入ってくるのをありありと感じとっていた。(p.215)

実現と着想における順応主義が現代の世界においてはさまざまな変種の形や扮装をまとうことを彼らは知っていた。というのも、それはいずれも、知識人に対し、因果関係を絶対視する機械主義への隷属を要求するものであり、・・・生きた創造的なものへ賛意を送る者、・・・それでもあえて時間的なものの川の中を流れていく気概を持つ者、という真に英雄的な立場を放棄するよう強いるものだったからだ。(p.411)

6.魅力的な挿話

全体的に奇怪で、最後まで文字を追えたとしても、読み切れた感覚が得られない作品である。しかし、そういう作品だからこそ、いくつもの魅惑的な場面が記憶に残る。最後に、既に『パラディーソ』を読了した同志に向けて、私の気に入った場面を紹介して終わりにしたい。なお場面名は巻末の要約を参照している。

・第4章~第5章冒頭

フィーボ(いじめっ子)とエンリケ・アレード(金持ちの子)の話。バーベリの『オデッサ物語』【過去記事】にも、金持ちの同級生の家を訪ねる話が出てきたけれど、なんかこう、良い。

・第6章より「学士と研ぎ師」

もうこれはみんな大好き、言葉遊びと隠喩に関するエピソード。

・第10章より「大学の試験」

セミーとフロネーシスが、主にニーチェを主題に哲学対話を繰り広げる場面。この雰囲気、哲学科あるあるで懐かしさと気恥ずかしさの間の甘酸っぱい青春の記憶を刺激する。

・第10章より「フォシオンのおいたち」

これもみんな大好き、狂気の描写。これは良い狂気。

 

あまりにも難解で、訳者が1日1ページ読むので良いとも指摘した、非常に文章の強度の強い作品である。強烈な印象を残す作品であるが、仮に同じ作者の似たような作品が存在していたとして、それを読みたいかと問われれば、私はもうお腹いっぱいである。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆(超難解、要鈍器耐性、要男根耐性)

 

プルーストについてはこちら

<<背景>>

1966年発表。

なんとびっくり、『百年の孤独』(1967)よりも本書のが先に発表されている!

本作は、アルゼンチンの作家コルタサルが高く評価していたことをきっかけに世界中で読まれることとなったようだ。

作者レサマ=リマは、1912年生まれ、ガルシア=マルケスよりも一回り以上年長で、コルタサルとはほぼ同世代である。キューバ独立が1902年、キューバ革命が1958年だから、両方の時代を知る作家といえる。『パラディーソ』は1940年代から断続的に書き進められていたようであり、作中に革命後の描写は登場しない。

第2章の現在時を1917年とすると(p.38)、主人公というべきホセ=セミーが1907年生、その母リアルタは1884年生(p.46)と特定できる。物語に登場する一番古い時代がリアルタ10歳の1894年頃で、終わりは1930年代頃である。

概ね、独立後キューバブルジョワ家庭の物語であるとまとめることができる。

なお、キューバといえば葉巻であり、本書にも葉巻の描写は無数に登場する。以前にも『モンテ・クリスト伯』の記事で触れたことがあるが、この葉巻の伝統と文学とは無関係ではない。キューバの葉巻工場にはかつて、レクトールといわれる朗読係がいたという*10。レクトールの役目は、作業中の葉巻職人たちが退屈をしないように*11、物語を朗読すること。そこでは、『ドン・キホーテ』はもちろんこと、『モンテ・クリスト伯』や『ロミオとジュリエット』などの文学作品が大変な人気だったそうだ。

ちなみにこの3作品は、「サンチョパンザ」「モンテクリスト」「ロミオイフリエタ」という、葉巻のブランド名として、今もその名を残している。

<<概要>>

全14章構成。章の上下に区切りはないが、ときおり行アキが挟まり、場面の転換が明示される。しかし、行アキもなく大きく場面が転換される箇所もあり、構成はあまりあてにならない。最短の第1章が22頁、最長の第10章が68頁と、各章間の分量差は大きい。

概ね1~7章が第1部ファミリー・サーガ、8~11章が第2部セミーのビルドゥングス・ロマンで、12~14章が第3部幻想的後日譚である、とまとめれば大きく間違ってはいまい。なお、1~7章と、8~11章で、分量はほぼ同じ程度だ。

終盤の12~14章は、幻想的後日譚と書いてみたが、正直何が書かれているのかも、なぜこの3章が置かれているのかも、私には理解が難しかった。

視点位置はいわゆる神視点の三人称小説だといえる。しかし、一部にホセ・セミーを指して「私」という一人称を用いる場面が登場し(p.160など)、ホセ・セミーを書き手とする小説であるという読解もできそうだ。

<<本のつくり>>

訳者はマルケスリョサらのラテンアメリカ文学作品翻訳で名高い旦敬介氏。本作の翻訳には20年かかったそうであり、まずはこの大作の翻訳がなったことに敬意を表したい。

極めて難解な本作を訳されたこともさることながら、巻末の解説も詳しく、構成表や家系図まで付いており、読者に対する最大限の配慮がなされている。

訳者の書きぶりの特徴としては、「プネウマ」の引用箇所にもあったように、訳出が難しい概念を漢字で説明し、その漢字にカタカナルビを付けた上で、以降はそのカタカナ言葉で登場させる手法が挙げられる。

注は割注方式で、参照が容易である。その分量も極めて豊富であり、この割注を付すのにどれだけの労力が割かれたのか、想像するだけで恐ろしい。

例えば、以下の調子である。なお、角括弧の部分が注である。

「それはきっとレイノーソの本に書いてあったんだろうね・・・」[十九世紀のキューバの化学者アルバロ・レイノーソの著作『サトウキビの栽培に関する詩論』](p.80)

二段組で、一段あたり27文字×22行だから、見開き二頁で最大2376文字という驚異の詰まりぶりである。概ね1.0kg弱の重さがあり、販売上の困難があるのだろうが、できれば一段組上下巻にしてもらえると嬉しかった。

カバーを剥くと、ダークグリーンの表紙に金色の手形模様が描かれており、うちの9歳児はこの本カッコイイ!と大興奮であった。

*1:主人公という概念を適用して良いのかも怪しいが

*2:正確には懐中電灯だが、当時の私はあれをロウソクだと捉えた

*3:私のケースにもあてはまるように、幼児的な妄想は恐怖と関連するものが多いように思える。しかし、特に楳図かずおの後期作品は妄想と恐怖との関連性が絶たれており、その雰囲気がレサマ=リマの幻想に似る。

*4:作中でも、p.445においてキュビズムという表現手法についての言及がある。

*5:なお、『ユリシーズ』との比較は私の手には余ります。

*6:プルーストと喘息―失われたプネウマを求めて」より。より詳しくは、プルーストが注釈付きで翻訳したラスキンの『胡麻と百合』からの借用だ。なお、本作ではそのラスキンに対する言及も見られる。(p.469)

*7:本作には、「脊椎動物の階梯を上がっていくにつれて、呼吸法は画一的になっていく・・・」(p.326)なんて表現もある。

*8:同じく喘息の主題を論じたプルースト研究者の鈴木道彦も、「プルーストと喘息」の中で、喘息の主題と同性愛の主題が関連することを仄めかしている。

*9:プラトン的愛に昇華させたともいえるかもしれない。

*10:p.67で本書にも登場する。

*11:ニュースなども読まれ、教育水準の向上の目的もあったそうだ。