ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

3-02『黒檀』リシャルト・カプシチンスキ/工藤幸雄・阿部優子・武井摩利訳

絵もない花もない飾る言葉も

彼らの存在の危うさ、はかなさ、存在の目的と意味について考える。存在意義など、だれも—彼ら自身でさえも―問うたりしないのだが。(p.321)

<<感想>>

どうせこの第3集って、目玉はフラバルでしょ?という(大方の)見方を見事に裏切る完全なるダークホース。大変な傑作である

私はそれすら知らずに読みはじめたのだが、本作はいわゆる物語作品というのとは異なる。アフリカを取材した記者の手によるルポルタージュなのである。

日本ではルポルタージュが文学として扱われることはあまりないと思う。それは、こうしてカタカナ語の「ルポルタージュ」を使っていることからもなんとなく伺える。「紀行文学」は紀行文学という呼び方をするのに、「報道文学」という言い方はあまりしない。

だが、本作を読むと、ルポルタージュの形式をとっても素晴らしい文学が成立可能であることが良くわかる。

・アフリカとは何か

本作を読んでまず思うのが、アフリカという大陸に対して漠然と抱いているイメージが、いかに粗雑なイメージに過ぎないか、ということだ。

そして恐らく、そのイメージを創り出しているのはテレビ報道だ。難民、列をなしてどこかへ向かう人々、子どもたちの群れ。支援物資に群がる人々、RPGカラシニコフを持つこどもたち。

映像は何も教えてくれない。彼らはどこから来たのか。彼らは何者か。彼らはどこへ行くのか。

それを本作は、丁寧な筆致で説き起こす。アフリカ各地のそれぞれ別々の文化を持つ人々の生き様が、連作短編の形式で紹介されている。

家庭でも、子どもは一番重要な役目を担っている。水汲みが彼らの仕事なのだ。・・・そんな彼らに、現代のテクノロジーは大いなる恵みを与えた。安くて軽いポリタンクをプレゼントしたのだ。十数年前に登場したポリタンクは、アフリカの生活に革命的な変化をもたらした。(p.269)

筆者の視点は、いわゆる大国的なものの見方に汚染されていない。白人と黒人。キリスト教イスラム教。親米資本主義と親ソ共産主義。これらの対立は厳然としてアフリカ大陸に存在したものだが、決してそうしたわかりやすい論理に還元しようとはしない。

白人である著者に、こうした視点が可能であったのは、彼がポーランド人であったことと無関係ではないだろう。

彼らからすれば、白人すなわち罪人だ。

・・・とんでもない!まず、ぼくは反論を試みる。植民地化された、と言うのだね、君らは?ぼくら、ポーランド人だって、同じだよ!三つの国家の植民地とされたポーランドだもの、それも百三十年間もだ。(p.53)

・優れた文章

もちろん、ただアフリカについて詳しいだけでは、傑作とはなりえない。まず、一つ一つの掌編が大変に面白いのだ。

例えば、良くいう「象の墓」の伝説の話。こういうワザをちょいちょい繰り出してきて、ページを繰る気にさせてくれる。

象はどうやって死ぬ?象の死骸はどこにある?象の墓はどこだ?探し出しせば、象牙で大儲けだ。

象がどうやって最後を遂げるか、現地人はちゃんと知っていた。(p.76)

そして強力なパンチラインもある。

ヨーロッパ人たちが維持したのは、海岸と港湾、旅籠屋と船舶ばかり。結果として、彼らの港はアフリカ大陸なる生体に取り付けた〈吸血装置〉であり、奴隷、黄金、象牙の積み出しの場である以上にはなりえなかった。(p.72)

アフリカで〈生きる〉とは、生き残ることと死に絶えることの間で脆く危ういバランスを見つけ出そうとする、絶えざる努力と試みを指す。(p.255)

・日本人とは何か?

この作品の中で登場する日本人いえば緒方貞子氏くらいなもので、他に日本といえば、やたらトヨタ車(それも、トヨタ「車」でさえなく単に「トヨタ」と記される。)が登場するくらいだ。しかし、本作は、ポーランド人である著者がアフリカ人を見る目を通じて、同じ非白人・非欧米人である日本人についても考えさせてくれる。

一つ目。よく日本人は無宗教であると言われる。その言及には大抵、無神論無宗教は異なるだとか、無宗教なのではなく、多神教あるいはアニミズム的なのだと言われることもある。ただ、次の引用箇所のような感覚は、ヨーロッパ人とアフリカ人とで共感できても、我々には共感しにくいだろう。

ぼくが何年となく接触したアフリカ人たちの思考は、極めて宗教的であった。「神の存在を信じておいでですか」いまにあの質問がくるぞと、いつも待機したものだった。・・・この瞬間の重大さ、そこに含まれる意味合いは、ぼくにもわかった。・・・概して、それは具体的な神でなくとも良い。・・・むしろ大事なのはもっと別のこと、すなわち、〈至高なる存在〉を固く信じることである。(p.308)

二つ目。よく日本人は、あるいはもっと広くアジア人の心性として、集団主義的であると論じられる。論者やコンテクストによっては、欧米の個人主義と対置して、それが我々の特筆すべき美徳であるかのように論じられる。しかしそれは、人類が太古から受け継いできた共通の心性であり、欧米の個人主義の方こそ異端なのではないか?あるいは、それが美徳なのであれば、我々が範とすべきなのはアフリカ人なのではないか?

個々独立した人間というものは存在せず、いずれかの氏族のひとつの分子としてのみ、彼は在る。(p.242)

・反哲学の書物として

世の中、大抵の反哲学をうたう哲学書は、バリバリの西洋哲学のコンテクストの中でのみ息をしている。ところが、私の読むところ、本書こそが優れた反哲学の書である。

一つ目。アフリカには哲学など無かった。では、哲学がやって来たとき、アフリカでそれが何をしたのか?それは道徳形而上学ではなく、集団殺戮を基礎付けた。蟻も殺せぬ顔をした彼らこそが、集団殺戮をやってのける動機を提供する。

知識人、学者、ブタレのルワンダ大学の歴史学部や哲学部の教授たち。・・・集団殺戮こそ唯一の解決法であり、自らが生き残るための唯一の道である、という思想を正当化するイデオロギーを作り出したのは彼らでした。(p.211)

二つ目。西洋哲学は、普遍性を追求する。しかし、所詮彼らのいう普遍性は、閉ざされた彼らの世界の、彼らの地域の知識人たちの間だけの普遍性に過ぎないのではないか?ただ、生きることだけを目的に生きるしかない。人間の存立基盤が、生存のための諸条件がかくも過酷な条件下でも、哲学は存立しうるのであろうか?

我が上なる灼熱と、我が内なる餓えの中でも、カント哲学は通用するのだろうか?

武器を持つ者が、食糧を得る。食糧のあるところに、権力がある。この地でわれわれの周りにいる人々は、人間の卓越性や魂の本性、生きる意味や存在の本質を考えたりはしない。(p.235)

 

文学の意味や役割や美点や目的の一つに他者理解や他文化理解があるのであれば、本書ほど優れた作品を見出すのは相当に困難だろう。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆☆(本全集屈指のおススメ作品)

 

・長くアフリカで生活した著者の好著

・アフリカの架空の国を舞台にした作品

<<背景>>

1998年発表。ルポルタージュであるため、作中年代=現実の年代である。

著者は「ルポルタージュの皇帝」と呼ばれることもあるそうだ。本作はそんな著者がアフリカ取材歴から知りえた断片をまとめた作品であり、様々な時代が切り取られている。古いもので1958年の話もあれば、90年代の話も登場する。世界史で習う「アフリカの年」は1960年、緒方貞子難民高等弁務官に就任したのは1991年である。

作中でも言及されるコンラッドの『闇の奥』は1899年発表である。

また、後述するエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの治世は1974年までである。

<<概要>>

全29篇構成。全体で380頁ほどであるから、各篇は短編というよりも掌編というべきか。各篇の下に区切りはないが、行アキが多用され、場面の転換に用いられる。同じ国の話が取り上げられて、前篇と続いているものあるが、1篇で1国の叙述に充てられている場合も多い。

各篇にはタイトルが付される。ルワンダスーダンの紛争がなぜ起こったのかを、簡潔に学ぶことができる。特に「ルワンダ講義」の篇は出色である。

<<本のつくり>>

当ブログでは、この全集を読みつつ池澤氏の悪口ばかり言っているが、今回ばかりは完全に白旗である。良くこんな優れたルポルタージュをこの文学全集に入れようと思ったものだ。しかもなんと、この全集では前作にあたるフラバルと、次作にあたるコンラッドを繋ぐ役割を果たしている。前者と繋いでいるのはハイレ・セラシエであり、フラバル作品では主人公が彼に給仕をするという印象的なエピソードで登場する。そして、コンラッドの方は直接の引用が行われる。やりよる。

それはそうと、ちょっと本作のアフリカ描写が凄いせいで、むしろ『クーデタ』が胡散臭くみえてくるのがどうかと思う。

翻訳については、申し訳ないが共訳感が訳文からも伝わってくる感じがある。冒頭の数篇の語調が妙に古いのである。ただ、その統一感のなささえ気にしなければ、訳文としてとりわけ読みにくいわけではない。むしろ、原文の平明さのためか、本全集の中でも屈指の読みやすさの作品といえるだろう。

あ、毎回の悪口を。オレンジ色のカバーよ!貴様だけはいただけない!