この世はでっかい宝島
ワインのテイスティング用語で、水平試飲と垂直試飲という言葉がある。
水平試飲というのは、ヴィンテージを固定した上で、同じ畑の違う生産者のワインとか、同じ生産者の畑違いのワインとかを飲み比べることをいう。垂直試飲というのはこの逆で、同じ銘柄のワインをヴィンテージ違いで飲み比べることをいう。
この考え方を読書にも応用すると、水平読みと垂直読みという読み方があるように思う。
水平読みというのは、同じ作家の作品をひたすら読む読み方。
垂直読みというのは、作家や作品の影響関係を数珠つなぎにして読んでいく読み方。
このたとえでいうと、私はそれこそ読書を覚えたての頃から、強烈な水平読み派であった。
1.水平読み
最初にはまった作家はたぶん「ズッコケ三人組」シリーズの那須正幹だったように思う。小学校の2、3年生だったろうか。年齢を重ねるごとに、宗田理、赤川次郎、椎名誠、森博嗣、京極夏彦、宮部みゆき、陳舜臣、宮城谷昌光・・・、読了というのは作家の作品を全部読むことだとでも思っていたのだろうか、ひたすらに同じ作家の本ばかりを読み続けた。
だがこの頃までに一つ気づいたことがある。それは世の中には、作家を読む人と作品世界を読む人の二通りの人が居るということだ。
最初のきっかけは、ある問いかけに強烈な違和感を覚えたことだ。
作品を創造したのは鳥山明であるから、それを決めるのは鳥山明の権利だ。そして、鳥山明が作品内でそれを描いていない以上、それを決めることはできない。いやいや、それにしても彼は、作品の内的世界が自律的に存在しているとでも思っているのだろうか?子どもじゃあるまいし(子供です)。フィクションの楽しみというのは、人形師やいっこく堂やパペットマペットのその手さばきを楽しむものであって、人形や鳥やかえるくんが実在していると仮定する作業ではないのではないか?
当然、その頃の私にこの感覚を表明するだけの言語能力があるはずもなく、その時は「それは鳥山明が決めることじゃん!」くらいのことをいって、つまんねぇ奴だなぁ、という顔をされて終わったような気がする。
今では作家を読むこと(作家論)と作品世界を読むこと(作品論)は両輪であることは理解できるが、あの問いかけの強烈な違和感と、物語を読む楽しみは作家の手さばきを見ることにあり、読書は作家との対話であるという感覚は今も残っている。
2.垂直読み
水平読み癖が抜けぬまま、17,8の頃にハマったのはニーチェ、そしてドストエフスキーだった。学校も行かずに通いつめたセット雀荘の抜け番*2、ニーチェを読むのにこんなおあつらえ向きの環境があるだろうか。
転機になったのはたぶんドストエフスキーだ。
プーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ。作品内で彼が指し示す参照項が、私には存在していなかったのだ。これではドストエフスキーを読んだことにはならない。そんなことはもちろんないのだが、どうしてかそんなような感覚を覚えてしまったのだ。
その感覚は、『スラムダンク』が途中からある家に遊びに行ったときの感覚に近い。
「え、7巻から!?」
限られらた小遣いの中で読みたい巻なり気に入りの巻なりを買ったのか、あるいはたまたまコンビニに売っていたコミックスを手に取ったかしたのだろう。そもそも、子どもを持つようになってよくわかったが、子どもは続き物の途中から読むことを苦にしない。それどころか、子ども向けの出版物は、途中から読まれることを前提として書かれているものもとても多い。
あるいは、私が『はだしのゲン』*3を嫌いになったのもきっとこれが理由だ。小学校の図書室に置いてあった数少ない漫画である『はだしのゲン』は、いつも人気で、いつ行っても誰かが既に読んでいた。これを読むためには、誰かが読み終わって棚に戻したものを取るしかなかった。当然、いつもお話は途中から。この途中から読むことのストレスは、小さな私にとっては同作の残酷描写の衝撃を上回るものがあった。
そう、「最初から」読まないわけにはいかないのだ。
従って、ドストエフスキーを読んだあとは、そのままプーシキンを読みゴーゴリを読みツルゲーネフを読み・・・。
今ではもちろんそうではないと(頭では)わかっているけれど、当時の私はこう結論づけたのだ。古典を網羅しなければ、到底現代文学など読むことはできない、と。
3.「正典」読みとその後
そのあとの顛末は、前に引用について書いた特集記事【過去記事】の冒頭で書いた。ひたすらに「正典」のリストを求め、そしてそれを消化していく日々。
今でも私はエピグラフ、引用、比喩、モチーフ、オマージュ等々、狭い意味での間テクスト性は好物だ。しかし、今では、より広い意味での間テクスト性、いや、それどころかなんの接点もない作品と作品の響き合いを、私自身が読み取ることがとても楽しい。
だから、このブログを開設した当時に、池澤全集を全部読んでやろうとした【まとめ記事】のも、これから白水社エクス・リブリスを全部読んでやろうとしている【まとめ記事】のも、拭い難い自分の習い性への反省と反動なのである。
私一人では手に取ろうとも思わない作品の中に、とても素晴らしい作品があるに違いない。たとえ傑作とはいいがたい作品であっても、別の傑作と響きあう手がかりになるに違いない・・・。
ただそれでも、時折三つ子の魂が蘇ることもある。死ぬまでに読める冊数のことにまで思いを馳せる年齢ではまだないのかもしれないが、あれこれと手を広げた結果、これはと思った作家の作品は、どうしても読み尽くしたくなる。
最近では、もう少し手を広げたら、また少し「水平読み」をやってみるのも面白そうだと思っている。ウリツカヤ、リョサ、プラトーノフ、エリオットあたりは、もうしばらくしたら腰を落ち着けて読んでみよう。
さて、そしたら次は何を読もっかな。
・読み方に対する素晴らしい指針
・注釈に対する妄執について