ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

3-06『短篇コレクションⅡ』アレクサンドル・グリーン他/岩本和久他訳

変わりゆく街は明日なき無情の世界

さて、短篇コレクションも2冊目。とうとう本全集最後の1冊となる。

前回同様、概要/背景/本のつくり欄も省略で、書きたい部分だけ各作品の項目で触れることにする。また、本巻は2023年4月現在まだ手に入るようだが、各作品の末尾に2023年現在の、私が調べ得た範囲の他版情報を記した。

全体について若干ふれると、短篇コレクション1が20作、短篇コレクション2が19作と、本巻の方が1作品少ない。収録作品は1が非ヨーロッパであるところ、2はヨーロッパの作品で構成されている。

総じて、1はエネルギッシュな作品が多いのに比して、2は随分と内向的、内省的、沈潜的である。玉石混交どころか玉が少なく、はっきり1の方が面白い。ただ、個人的にはファジル・イスカンデルの存在が大発見であった。

以下、個別の感想を示すが、特に気に入ったものには★印を、やや良かったものには+印をつけている。

「おしゃべりな家の精」アレクサンドル・グリーン/岩本和久訳(ロシア、ロシア語)

アメリカ人かイギリス人みたいな名前だが、これはペンネームで、作家はポーランド系ロシア人だそうだ。

スラブ系の民族説話に伝わるという、家の精を焦点人物とした話。ある家庭に住み着いた家の精が、語り手に今はなきその家族の来し方を語る。信頼できない語り手、というのが正しいか、時間の感覚も、見たものの解釈も人間と同一とは限らないため、いかようにでも解釈できそうだ。

「おれには理解できない話さ。君なら説明できるかもしれないね」(p.12)

〇同一訳で読める(単行本)

+「リゲーア」ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ/小林惺訳(イタリア、イタリア語)

岩波文庫から『山猫』が出てるひと。どうもこの『山猫』というのは、映画原作となったとかで有名なようだ。

「リゲーア」はまぁ上手な短編。上手過ぎて、隙が無さすぎるのが珠に瑕なくらい。ステレオタイプな女好きのイタリア人男性が、愛人1号と愛人2号に同時にフられたあと、上院議員の老人に気に入られる。男性も老人を気に入り、行き来が続くが、そこで驚きの老人の過去が語られ・・・

リゲーア、というのはセイレーンの名前である。リアリズムから幻想性への移行の塩梅がお見事で、それがむしろヨーロッパ的マジメさを体現してしまっている。

私は一瞬たりとも、それが法螺話だなどという疑いは抱かなかった。かりにもっとも疑り深い人間がそこに同席したとしても、この老人の語調のなかに、揺るぎない真実がこめられていることは認めたであろう。(p.46)

×全集で新訳、先行訳あるも品切れ。

「ギンプルのてんねん」イツホク・バシェヴィス/西成彦訳(ポーランドイディッシュ語

英語読みだとアイザック・バシェヴィス・シンガーさんで、ノーベル文学賞を受賞し、邦訳作も多数あるようだ。本書の作はイディッシュ語からの訳出のため、作者名もイディッシュ語読み表記されている。

お話の内容は民話調で、池澤氏も指摘するように『イワンのばか』のような雰囲気。主人公は「てんねん」(他訳では「ばかもの」)と呼ばれ、他人を信用して生きるが故に、次々と損な役回りを押し付けられる。次々と妻を寝取られていくあたりはドストエフスキーの『永遠の夫』のようでもある。

読み味は民話調だが、読めば読むほど宗教説話のようで、説教臭い。

×全集で新訳、後発訳等もあるが全て品切れ。

「トロイの馬」レーモン・クノー/塩塚秀一郎訳(フランス、フランス語)

地下鉄のザジ』で超有名なクノーさんの短編。

本作の設定はただ一つ、バーに居合わせた客が馬なのである。そして酔った馬に絡まれる。バーあるあるとしてギリギリ読めるが、だからといって面白いわけでもなく、けつ食らえである。

「あなた方、私が酔っぱらっているとお思いなんでしょう?ちっとも酔ってませんよ。ちっとも。ちいっとも。」

馬はリズミカルい話しながら後ろ脚で優雅に立ち上がる。(p.82)

〇同一訳で読める(単行本)

「ねずみ」ヴィトルド・ゴンブローヴィチ/工藤幸雄訳(ポーランドポーランド語)

これ池澤氏は敢えてそうセレクトしてるのかしら?マジック未満。幻想の手前。デカすぎる風呂敷程度のお話。伝説的な大悪党なんだが、妙にねずみが怖くて・・・というお話。

ちょっとバワー不足で、どこを楽しめばいいのかがわかりません。

△『バカカイ―ゴンブローヴィチ短篇集』所収、HSJM

「鯨」ポール・ガデンヌ/(フランス、フランス語)

浜辺に打ち上げられた鯨をちょっと見に行きましょう奥様オホホ。といったお話。

他の短編同様筋書き自体は極めてシンプルなんだが、これはなかなか読ませる内容。ただちょっと悔しいのが、どう見てもメルヴィル『白鯨』を踏まえて書かれているだろうに、『白鯨』は読んでいないという。

ちょっと前に「水平読みと垂直読み」【過去記事】という記事を書いたが、これに悔しさを覚えてしまう病気にかかっているから、古典沼から出られなくなる。

ただ、『ハムレット』と『白痴』なら読んでるぞ!

そして目の当たりにするのは、あのヨリックがホレーショの頭蓋の重みを両手で計るところだ。明日、商人ロゴージンが恋敵の公爵を迎えに行って家まで送り、カーテンをあげるだろう――夜明けになると、ふたりの男たちが、至高の愛によって結ばれた愛人の亡骸を取り巻いて、鼻をつまんでいるだろう・・・。(p.126-127)

×本全集で初訳

「自殺」チェーザレパヴェーゼ/河島英昭訳(イタリア、イタリア語)

続々と岩波文庫に収録されている人気?作家。

端的に言えば恋愛物語なんだけれども、私は完全に読むべき年齢を間違えた。モテないをこじらせて中二のまま大人になったのがドストエフスキーの地下室人だとしたら、高校生あたりでキチンと不純異性交遊をして、大学二年生あたりでこじらせたのが本作の主人公。1サークルに1組くらいこういうカップルいるよね!?

四十手前の子持ちのおっさんが読むにゃーちょっとうぷぷ感が出てしまう。

とはいえ、詩人というのは常に、若者の感傷性を備えたまま大人になった人たちのことをいうのかもしれない。

ところで、「カフェ」も「モダン」も既に日本語化している言葉だと思うが、これを「カッフェ」とか「モダーン」と訳されると、うぬぬとなってしまう。うぬぬ。

あの晩のことだ、彼女を抱きしめて長椅子の上に投げ出したのは。しかし―終わってしまうと―あとは独りきりでいるのが好きなのだ、と言い残して、ぼくはそこを抜け出し、三日も姿を見せなかった。そして、戻って来たときには、彼女に他人行儀な言葉をつかった。(p.145)

◎同一訳で読める(文庫)

+「X町での一夜」ハインリヒ・ベル/松永美穂訳(ドイツ、ドイツ語)

ノーベル文学賞をとっても、忘れ去られている人もいるよね的な。

ドイツ兵?が鉄道での移動中に、ハンガリー?で名前も知らない女性と一夜をともにするお話。

私は詩はよくわからないんだけど、短編という文脈があると、とたんに輝きだす文章があるということは知っている。逆にいえば、ある短編の魅力が、その短編の中でわずか数パーセントしか占めない、ごく僅かな字句に存在するというケースがあることを知っている。

そんな作品。

話をすること、何かの話題を見つけることは難しかった。ぼくたちは二人とも、時間が過ぎていく音に耳を傾けていた。一秒一秒が過ぎていくときの、くぐもった不思議なさらさらいう音に。(p.173)

虚無の立てるさらさらいう音が、ほとんど感知できないかすかな風のように僕に触れた。(p.177)

×本全集で新訳

「あずまや」ロジェ・グルニエ/山田稔訳(フランス、フランス語)

こちらも名前くらいは・・・な作家。

ふとしたきっかけで過去の記憶が蘇ることを、一般的に(嘘)「マドレーヌする」というが、本作は近所で起きた飛行機事故をきっかけにマドレーヌするお話。

主要モチーフにトルストイを出してきたり、『ボヴァリー夫人』【過去記事】がディティールに登場したりするが、それだけで騙されるほど安い読者じゃないぞ!

『クロイツェル・ソナタ』に引っ掛けた恋愛譚だが、途中でオチが読めてしまってがっかりしたパターン。

〈そうだ、クロイツェル・ソナタ!〉

それは彼にとっては、ベートーヴェンイ長調ソナタ作品47と同時に、トルストイの小説をも意味した。(p.184)

〇同一訳で読める(単行本)

「犬」フリードリヒ・デュレンマット/岩淵達治訳(スイス、ドイツ語)

ブレヒトに影響を受けた劇作家とのこと。

街で聖書の説教をする男と、その男が連れている禍々しい犬のお話。反宗教の寓意として読みたくもなるが、池澤氏の言うとおり、具体的な読み込みを行うというより、雰囲気優先で読むほうがよさそう。

個人的にはブレヒトというよりもカフカ的な匂いを感じる。この短編集全体にいえることだけれど、なんとなくこの頃のヨーロッパの息詰まる/行き詰る雰囲気が横溢している。

△『ドイツ幻想小説傑作集』所収、HSJM

「同時に」インゲボルグ・バッハマン/大羅志保子訳(オーストリア、ドイツ語)

存じ上げなかったが、47歳で早逝したインテリ女性作家で、最近岩波に小説集が入ったようだ。そして、パウル・ツェランとの往復書簡が存在する人でもあるそうだ。

物語は、ともにウィーン出身の外交官男性(妻子持ち)と、同時通訳男性(元カレを引きずる)の恋愛モノである。ようは、インテリ同士の恋愛物語だが、タイトルにもある「同時」通訳というのが、全体を貫く主題となっている。また、それと同時に、フェミニズムを謳う小説でもある。

ただ、流石に当世的な感覚から読むと、そこに表現されているフェミニズムは余りに古すぎる。恋愛物語の方はさらにツラくて、感情のレベルが知性のレベルに全く追いついていない恋愛観で、ある種中二病的でさえある。

狙ってやってる・・・のかな?

なお、同時通訳者が語り手であるだけに、英独仏伊などのヨーロッパの主要言語が縦横無尽に登場するし、話法もころころと変転する訳しづらそうな物語である。しかし、「浦島太郎のような」という訳文や、インテリ・フェミニスト女性の一人称を「わたしったら~かしら」といった強い役割語を使って訳出するのは好みではない。

本当に信じられないほどきつい仕事だけど、でもやっぱりこの仕事が好きなの。いやよ、結婚ですって、絶対しないわ。彼女は間違っても結婚なんかしないだろう。(p.214)

△『ジムルターン』所収、HSJM

+「ローズは泣いた」ウィリアム・トレヴァー/中野恵津子訳(アイルランド、英語)

国書刊行会の努力のおかげ(?)で最近人気が高まっている作家。ハマスホイファンとしては、表紙にハマスホイを使うのは控えていただきたいのだが、それは別のお話。

大学受験の指導を受けていた60代の先生を招いて、合格祝いの食事会。しかし、主人公ローズは気乗りがしない。それは、ローズへの指導の機会を狙って、先生の年下の奥さんが不倫をしていたことを知っていたからだ。

主題としては、酸いも甘いもの酸いを知って、大人の階段を一歩登るお話なのだが、やはり見せ方が上手い。先生との授業、食事会でのいたたまれない雰囲気、ローズが友達とのお茶会でしてしまった先生の噂話の3つが次々とカットバックしていく。

△『密会』所収、HSJM

★「略奪結婚、あるいはエンドゥール人の謎」ファジル・イスカンデル/安岡治子訳(アブハジア、ロシア語)

完全にはじめまして&どちらさま?で、日本語WIkipediaに記事が無いくらいマイナーな人だけど、これがまぁ面白かった!こんな面白い人をこれまで見逃していただなんて、露文党員として恥である。

よくある民話調の話かと思って読み始め、それはそれで面白いけど、まぁそこ止まりと思いきや、物語は現実に急旋回する。そしてそこに描かれているのは、多民族・多文化国家としてのロシアの民衆的・土着的な叡智である。なお、エンドゥール人をユダヤ人に擬えたくなりそうだが、これは恐らく、何人に帰せられることもない架空民族と読むのが正着のように思う。

2023年の今だからこそ読まれるべき傑作。国書さん、増刷しませんか!?

燕が一羽、囀りながら、ベランダの窓から飛び込んで来て、家の中を斜めに横切り・・・、別の窓から外へ飛び出した。一体、何のためにベランダの中に飛び込んで、また飛び出す必要があったのか?何の必要もありはしない。純然たる悪戯なのだ。しかし、これこそが、生の証、生の歓喜を宙に描いた絵であり、こういうことが、他のすべての埋め合わせになるのだ。(p.315)

△『チェゲムのサンドロおじさん』所収、HSJM

「希望の海、復讐の帆」J・G・バラード/浅倉久志訳(イギリス、英語)

はい、SFの人ですね。訳者の名前でSFの人だということがわかる典型的な例。あまりジャンルで括るのもどうかとは思うけれど、いわゆるSFの人というのは、アシモフ、クラーク、ハインラインを最低限履修した程度です。

こうした最古参の勢力と一味違うのは、SFという外装を纏いつつも、俺は文学をやっているんだという目くばせが随所に見られるところ。ただ、私としてはイマイチどちらを楽しんでいいんだかわからない。

砂の海に砂上船が走り、砂エイが空を飛ぶという世界観は確かにおお!と思うけど、中身は古式ゆかしい愛憎劇でいま一歩。古い酒を新しい皮袋に入れる的な?

昔、『ドラゴン〇ール』をクソミソにけなしていたところ、友人に、「物語はクソだけど、あの世界観の創造と、漫画絵で「空を飛んでいること」をひと目で伝えられる描写力は凄い」と返されたことがある。本作もそういうことでいいの?

"Cry Hope, Cry Fury!"を 「希望の海、復讐の帆」と訳すのは昭和風やね。

晒しあげたような金髪を見て、わたしはとっさに『老水夫行』の"死中の生の夢魔"を連想した。彼女の黒っぽい木蓮のような目がわたしを見つめた。(p.336)

〇同一訳で読める(単行本)

「そり返った断崖」A・Sバイアット/池田栄一訳(イギリス、英語)

ブッカー賞作家による、受賞作の習作らしいが、ここまでつまらない作品も久々だ。

イギリスの詩人ブラウニングの伝記的エピソードに脚色を加え、かつ、その外枠に「伝記的エピソード」を調査している学者を据えた入れ子的な物語。全編を通じてブラウニングその人やヘンリー・ジェイムズオデュッセイア、ミルトンなどからの引用や、ラスキン、モネなどについての芸術論が支配する。

そのおまけのように世俗的な恋愛話も登場するが、正直読了が困難なレベルだった。

ギミックとしての引用や芸術論なら楽しめるが、それが自己目的化してタコ壺化してしまっている例のように見える。

ムッシュー・モネはラスキンが持ち出した問題、すなわち使用できる範囲がごく限られている場合、いかに光を描くか、という問題にひとつの解決法を見いだした。すなわち光を絵の表面に閉じ込め、光そのものが主題になっているのである。モネの絵は光だ。そして目に見えるものではなく、見るという行為そのものを絵にしている。(p.394)

△『シュガー』所収、HSJM

+「芝居小屋」アントニオ・タブッキ/須賀敦子訳(イタリア、イタリア語)

後半に人気作家を集中させてくるスタイル?

起承転結という日本の初等教育でだけ重視されている*1物語スタイルそのもののようなストーリー。

モザンビークに駐留させられることになった語り手が、いろいろあって、驚きの人物と出会い、終わる。

短い作品だけど、それでも起承の部分が冗長に感じられる。その記述意味あったの?という。もちろん、起承の部分があるから転の驚き、意外性が強調されているというのはある。

例えばナボコフのように、起承の部分にも再読して初めて気づくような欠片を沢山仕込んでいる作家ってすごいんだな、と改めて。

当時のモザンビークには、コンラッドの小説を思わせるなにか、不安と失意をひそやかな憂鬱といったものがあった。(p.406)

△『逆さまゲーム』所収、HSJM

「無料のラジオ」サルマン・ルシュディ/寺門泰彦訳(インド、英語)

ルシュディって訳されているけど、ラシュディで定着している感がある。

老人の一人語り。前途有望なインドの若者が、子だくさんの未亡人(「後家さん」)と結婚する顛末を語る。後景にインディラ・ガンディーの人口抑止政策が顔を覗かせる。

恥ずかしながら初めて知ったが、この政策により当時、男女問わずかなりの国民が強制的に不妊手術を受けさせられたそうだ。

「後家さん」と結婚することを愚行だと考える語り手を、いわゆる「信頼できない語り手」と捉えるべきなのか、よくわからない。

後家さんはたしかに魅力的だった、それは否定すべくもない。冷酷で意地悪くはあったが、それはそれでたいしたものだ。腐っていたのは彼女の根性のほうだ。・・・ろくでなしの亭主に先立たれた後家さんに興味をもつような御仁は少ないからね。(p.422)

△『東と西』所収、HSJM

「日の暮れた村」カズオ・イスグロ/柴田元幸訳(イギリス、英語)

ラシュディをインドとしつつ、カズオ・イスグロをイギリスとするのは二枚舌な気もする。まぁでもカズオ・イスグロはそうとう小さい頃からイギリスで暮らしたわけで、便宜的に。

お話自体は、イシグロっぽい、何が書いてあるのかを敢えて書かない雰囲気。語り手フレッチャーはイングランドを旅し、かつて「自分が暮らし、大きな勢力をふる」った村に帰りつく。村人はフレッチャーに様々な反応を見せるが、フレッチャーの記憶は揺らぐ・・・。

かつてはフレッチャーに心酔したが、今は疑う老人たち、今もフレッチャーに期待をこめる若者たち、かつてフレッチャーにいじめられた元同級生。

落ちぶれた人気ロックバンドのように読めなくもないが、何かの寓意のように読むのが面白そうだ。例えば、イギリスそれ自体の寓意(老人たち=古いヨーロッパ、同級生=旧植民地等)にも読めそうだが、愛国心あるいは、リオタール的な「大きな物語」と読むのも良いか。

「いいかい、若い連中が何人か、コテージで私を待っていたんだ。もういまごろは、私のために暖炉も暖かく焚いて、熱いお茶を用意してくれているはずなんだ。それとホームメードのケーキに、ひょっとしたら美味しいシチューも。そして、・・・私が入っていったとたん、みんないっせいに喝采したはずなんだ。・・・そういうのがどこかで私を待ってるはずなんだよ。でも私はどこへ行ったらいいかわからないんだ」(p.451)

△『紙の空から』所収、HSJM

+「ランサローテミシェル・ウエルベック/野崎歓訳(フランス、フランス語)

こちらも人気作家のウエルベック

この短篇集全体の雰囲気と基調を同じくする、しめくくりに相応しい良作である。

詩的な要素よりも散文的な要素の方が強く、長めの短篇というよりも短めの中篇といったテイスト。

カナリア諸島ランサローテ島に旅行に行ったフランス人が、ベルギー人男性、ドイツ人女性カップルと出会う。自由への不信、性的放蕩への逃避、イスラム世界への恐怖など白人男性の本音を通してヨーロッパの没落を描き出す。

フランスのクソインテリが書いた皮肉の効いた文章という点ではアデン・アラビア【過去記事】に似ている。チベット人が書いた「遥かなるサクラジマ」【過去記事】と同じように、再生の可能性の象徴として火山が登場していて、圧倒的な自然に相対したときの感性はアジア人もヨーロッパ人も変わらないのが面白かった。

結局のところ、アラブの国も、あの厄介な宗教と関係のないところなら、なかなか結構なのである。

「苦手なのは、アラブの国じゃなくて、〈イスラム〉の国なんです」と私は言った。「アラブの国で、しかもイスラムでないところはありますか?」これはクイズ番組の難問に使えそうだった。(p.459)

〇同一訳で読める(単行本)

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆(コレクションⅠのが面白い!)

 

・コレクションⅠはこちら

・傑作短篇集はこちら

*1:もともとは漢詩の構成