ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

065『忘却についての一般論』ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ/木下眞穂訳

だからまだ ここで光が差すまで

家具を焼き、何千という本を焼き、絵画は全部焼いた。絶望があまりに深くなったある日、とうとうこのムクバル族を壁から下ろした。絵を掛けていた釘を引き抜こうとした。・・・そのときふと思った。この小さな釘が壁を支えているのかもしれない、と。建物全体を支えているかもしれないではないか、と。釘を一本引き抜いたせいで、この街すべてが崩れ落ちるかもしれないではないか。

釘は抜かずにおいた。(p.145)

<<感想>>

普段、あまりゲームをやる方ではないが、この作品を読んでいて思い出したゲームが二つある。

一つ目が、"This War of Mine"というゲーム。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を舞台にし、包囲戦の中で暮らす一般市民をプレイヤー・キャラクターとしたサバイバルゲームだ。隠れ家に暮らすキャラクター達は、乏しい物資をやりくりし、時には生き延びるために非情な決断を下さざるを得ないことがある。このゲームの目的はただ一つ、内戦終了まで生き延びることである。世界的に評価の高い、戦争ゲームの傑作中の傑作だ*1

翻って本作『忘却についての一般論』では、アフリカ大陸の国、アンゴラで起きた長い長い内戦を舞台としている。内戦勃発時、主人公のルドは裕福に暮らしていたが、頼りにしていた同居の姉夫妻は突如として帰ってこなくなる。そしてある日から、自宅マンション(11階)の入口をコンクリで固め、長い長いサバイバル生活に入るのだ。

もう一つが「街~運命の交差点~」というゲーム。これは、いわゆるノベルゲームであり、渋谷でのある5日間を舞台にする。主人公は、互いに顔も知らない偶然居合わせただけの8人。この8人それぞれの立場でプレイヤーは選択肢を選んで決断するのだが、あるキャラクターの立場で行った些細な決断が、別のキャラクターの視点では決定的な影響を与えるといったことが生じる。8人全員のハッピーエンドがゲームのゴールだ。バタフライエフェクトの蝶の動きを追うような、熱心なファンのいるゲームである*2

本作でも、「街」同様、準主人公格のキャラクターが次々と登場する。最初は端役にしか見えないキャラクター達が、別の意外な登場人物と結びつく。また、あるキャラクターのちょっとした決断が、別のキャラクターの運命を決定付けたりするのである。

 

恐らく、私が次々とゲームを思い出したのは偶然ではない。本書は、極めて敷居が低く、そしてエキサイティングなプロットの作品であり、まるでゲームのように力強く読者を引き込んでしまうからだ。

・白いことはいいことだ

まず本題に入る前に、本書をパラパラめくってみて気づくことがある。それは、文字の密度が薄いことだ。まさに、驚きの白さである。

その理由は、本書全体がかなり短く、そしてかなり多数の章で構成され、改章による改ページが多いことだ。また、各章の中には詩のような短く、改行の多い文章で構成されるものもあり、それが白さを際立たせている。そうではない章も、比較的会話文が多い。これが、まるで映画を倍速再生で見ているような、独特のテンポ感、疾走感を与えている。

内容的にも、次々と小さな伏線を張り、それを回収し続ける展開を取りつつ、最終盤で個々の物語が収斂する構成となっており、読者を飽きさせない。

パラディーソ【過去記事】のような、見開き読むのに何分もかかるような重厚長大な読書も悪くない。しかし、白いのもいいことで、何より「忙しい現代人」を始めとする多くの読者に受け入れられやすい。

・豊かな文学性

こうやって白さばかり強調していると、軽薄な作品として軽んじているかのように捉えられてしまうかもしれない。しかし、本書はそうした先入観とは裏腹に、極めて豊かな文学性を備えている。

(1)価値転倒のイメージ

まず一つ目が、イメージの重ね塗りである。サバイバル生活を始めたルドは、家中にある贅沢品を、生き残るための物資へと変換していく。

自慢の図書室の本は燃料となり、切手コレクションを眺めるための拡大鏡は着火具となる。義兄が昔を懐かしむために植えた屋上庭園のバナナは貴重な食糧源となり、果ては、隠し財産であったダイヤモンドを、鳩を釣るための餌とする。

サバイバルモノでは定番的な表現ではあるが、内戦下の生活により価値が転倒したことや、文明生活と生理的な必要との対比を鮮やかに示している。

(2)鳩のイメージ

いま少し触れたとおり、ルドはダイヤを餌に鳩を釣って食糧としていた。ある日ルドは、釣った鳩に手紙が括り付けられていたことに気づく。結局、この鳩を放すことになるのだが、実はこの鳩が後々効いてくる。鳩を放った人物、後に鳩を捕らえた人物、鳩の本当の行き先、そして鳩の名前。

単純にプロット的なキーであると同時に、メッセンジャーすなわち言葉の担い手としての意味を持ち、その名前が象徴する意味が作品全体のイメージをも構成する、見事な仕掛けとなっている。

・忘却と記憶と

本書は、『忘却についての一般論』という一風変わったタイトルが示す通り、忘れることが重要なテーマとなっている。

実は、ルドには二度の不幸な記憶があり、その記憶に悩まされ続け、忘却を望んでいるのである。ルドというキャラクターの二面性が出ていて面白いのが、そうして忘却を望みながらも、蟄居生活の孤独を紛らわせるは「書くこと」なのである。書く対象は最初は紙へ、そして物資が尽きてからは壁へと移り変わっていく。

そうして、壁に炭で書いたのが、次の文章だ。

まだ空白があり、炭があり、書ける壁があれば、

忘却についての一般論を書けたのだが。(p.113)

ルドの書き溜めたものをベースに、三人称の語り手が付け加えを行ったこの物語こそ、『忘却についての一般論』という建付けのようだ。

 

では、その「一般論」の中身とは何なのだろうか?

その前に、ルドが忘却を望む二つの記憶について確認したい。実は、一つは被害の記憶であり、一つは加害の記憶だ。ルドが内戦開始と同時に壁を築き、終了後に壁が壊されたことも踏まえれば、ルドはアンゴラの一般市民の精神を代表しており、その隠喩であると読むべきであろう。つまり、本作は、内戦を通じて、被害者にも加害者にもなったアンゴラ人の内面を表現した作品であると思われる。

そして、本作の忘却、そして記憶に対する書かれ方は極めて二律背反的だ。ルドは忘却を志向しつつも、記憶への価値を教えられる。例えば次の引用箇所。

その、死んじゃった人。トリニタだっけ。母さんが言っていたけど、死んだ人は忘れっぽくなっちゃうから、それが悲しいんだって。でも、もっと悲しいのは生きている人たちに忘れられちゃうことなんだって。おばあちゃんはその人のことを毎日、毎日、思い出すんでしょう。だったらいいんだよ。笑ったり踊ったりしているその人のことを思い出してあげるといいんだって。・・・話してあげると、死んじゃった人は安心するんだよ。(p.183)

あるいは、本作の悪役であるところのモンテは、先ほどとは反対に忘却されることを希望する。

忘れられることを恐れてやまない人たちがいる。病理学的には被忘却恐怖症と呼ばれる。モンテの場合はそれと反対だった。だれからも忘れてもらえないという恐怖とともに生きていた。(p.213)

ここまで来ると、本書全体にわたって散りばめられていた各種の小主題が、まるでそのプロットと同じように、一つの結論に収束していくのがわかる。最初に挙げた贅沢品が生命維持のためのモノに変換されていくイメージ。ある登場人物が愛のために死へと至ってしまうイメージ(p.230)。アンゴラの空を怖がっていたルドが、盲目になって初めてその光を美しいと思うイメージ(p.235)。

全ては、針が逆へと触れていく動的なイメージを示している。つまり、忘却を強く願い志向しつつも、忘却のみで過去を乗り越えることは出来ず、記憶と言葉によってこそ未来が拓けてくる、という物語全体の主題への手がかりとなっている。

こうした、相反する思いを十分に汲み取った上で何かを表現するのに、文学ほど適した媒体はない。そして本作は、そうした文学という表現形式の特性を十二分に活かした表現がされていると言えるだろう。

焚書シーン!

さて、最後におまけ的に、みんな大好き(?)焚書シーンを引用しておきたい。焚書といっても、政府や権力によって強制的に本を燃やされるのではなく、ルド自身が燃料とするために本を燃やすシーンだ。

ジョルジェ・アマードを燃やしたときには、これでイリェウスにもサン・サルヴァドールにも行けなくなってしまったと思った。ジョイスの『ユリシーズ』を燃やしたときにはダブリンをうしなった。『トラのトリオのトラウマトロジー』を破きながらハバナが燃えるのを目にした。もう手元には百冊も残っていない。(p.155)

アンゴラポルトガル語圏であり、本作もポルトガル語で書かれた小説である。興味深いのが、西欧や英語圏のカノンから見ると、チョイスが微妙に違うところだ。アマードとカブレラ=インファンテには訳注が付されているのに対し、ジョイスにだけは注が付されていないというのも面白い。

 

お気に入り度:☆☆☆(☆3.9999....)

人に勧める度:☆☆☆☆(鈍器疲れした人へ)

 

焚書する小説

・原稿は燃えない小説

<<背景>>

2012年刊行。

この作品がその背景とするアンゴラ内戦は1974-2002年である。従って、作中年代もほぼ同じと特定できるだろう。作中年代からして当然、物語終盤ではインターネットが登場するのであるが、古典ばっかり読んできた人間には何か不思議なもののように映った。

なお、本作は2016年(国際)ブッカー賞の最終候補に残ったという。

<<概要>>

本文にも書いたとおり、270頁ほどの小説でありながら章の数がとても多い。章番号は付されず、章題が付される形式。「まえがき」との章題を入れて、数え間違いがなければ37章構成となる。

ところで、この「まえがき」を章に入れるかどうかは、読解の上でも一つのポイントになりそうだ。本作は基本的に三人称のいわゆる神視点で叙述がされている。ところが、前書きを読むと、その神視点の書き手は、作中人物からルドの手記などを手渡された人物である、との設定が書かれているのだ。私としては、この三人称の書き手の存在も、前書きも含めての小説世界だと捉えたい。

この短い断章を次々と繰り出す手法が疾走感を生んでいることは本文でも触れた。これに加え、ちょうど本書の真ん中あたりで、世界を支える釘のイメージ(この記事の冒頭の引用箇所)が登場する構成となっている。この釘の文章も、作品全体の中でとても印象的なものであり、まさに作中世界をこの釘が中心となって支えていると言って良い。このあたりも非常に上手い。

<<本のつくり>>

まず、いったん、この作品の訳文に何が求められるのかを考えてみる。とてもテンポが良く、ぐいぐいと読み進めるのが心地よい作品に、だ。

そう考えると、訳文の工夫が見えてくる。引用箇所をタイプしていて気づいたが、漢字とひらがなとの選択に迷いそうな「とき」「だれ」「あまりに」などは、基本的にひらがなが選択されている。もちろん、訳文全体のリーダビリティもとても高い。

アンゴラという日本ではあまり馴染みの薄い国ではあるが、訳注も必要にして十分な範囲に留められている。脚注方式で確認がしやすいのもとても良い。

こう考えると、今回こうしてするすると読み進めることが出来たのも、訳文の良さによるところも大きいように思える。

訳者あとがきでは、作家のバイオグラフィーに触れられる他、最近同じ訳者により新刊が出た「ヤモリ本」こと『過去を売る男』など、作家の別の本の紹介もされている。実は、原著刊行は『過去を売る男』の方が先らしい。

本書のこの面白さを考えれば、すぐに同じ著者の作品が訳出されたのも納得である。

*1:既プレイ

*2:未プレイ