たとえ世界が生き場所を見失っても
・・・そもそも自分の性には合わない優雅な職につきたいと日ごろから願っている人間に、自分の身の丈に合っていた職を捨てさせてみるがいい。その人間は必ずや、お恵み深い僥倖を崇めたてまつる宗教に凝るようになるだろう。このような宗教において排斥されるのは、蒔かれた種子は、その種類に応じた実を結ぶという因果応報の帰結なのである。(p.140)
今回、久しぶりに19世紀の小説を読んだが、やっぱり面白い。
現代アートの展覧会を見た後に、常設展で印象派の絵画を見たような、安心・安全・安定の心地よさ。
以前に『ミドルマーチ』を読んだときにも少し思ったが、どことなくトルストイに似ている。知的で、真面目で、面白い。どうにも説教臭さが滲み出てくるあたりも妙に似ている。
前に『アンナ・カレーニナ』【過去記事】の感想を書いたことがある。その際には、このブログで文学の魅力として挙げているプロット、思想性、文体のいずれの点も高度なのが同作の特徴であると論じた。
本作『サイラス・マーナー』の魅力についても、この3つの観点から考えてみたい。
1.物語
短いながらも複雑に絡み合った構成で、一口で説明するのが難しいが、まずはプロットについて確認する必要があるだろう。
まず、この物語には二つの主要な軸がある。一つは、タイトルにもなっている人物、機織り職人であるサイラス・マーナーの物語だ。そしてもう一つが、サイラスの住む村の郷士令息であるゴッドフリー・キャスの物語である。
ちょうど、『アンナ・カレーニナ』でアンナ/ヴロンスキーの物語と、キチイ/リョーヴィンの物語が対比的に進行するのと良く似ている*1。
サイラスはランタン・ヤードと呼ばれる都市部で真っすぐな青年に育つ。ところが、親友と信じた男に裏切られ、窃盗の濡れ衣を着せられた挙句、街から追放され、婚約者を奪われることになる。
逃げるようにしてたどり着いた村が、物語の舞台となるラヴィローだ。ラヴィローでサイラスは、人との関わりを断ち、ひたすら機織りの仕事に没頭する。唯一の楽しみは、そうして貯めた金貨を愛でることだ。
一方、ラヴィローの郷士キャス家の長男ゴッドフリーは苦境に立たされていた。村の名士であるラミター家の娘ナンシーに想いを寄せるが、実は以前に近隣の村の酒場女モリーと秘密結婚をし、子どもまで設けていたのだ。
ゴットフリーはその件で、悪弟ダンスタンに強請られている。ダンスタンはある日、サイラスが自分の小屋をちょっと留守にした隙に、サイラスの小屋へと忍び込み、金貨を奪い去ってしまう。
最後の楽しみであった金貨を奪われることにより、サイラスの自我は崩壊寸前となるが、これをきっかけに村人との交流が始まる。そして大晦日の夜、ゴッドフリーを告発しようと、その妻モリーが雪の中ラヴィローへとやってくる。モリーはサイラスの小屋の前で力尽きるが、その2歳の娘エピーがサイラスの小屋へと入り込む。
サイラスは、まるで金貨のような髪を持つ、天使のようなエピーを見つけ、以降この娘を育てていく決意をする・・・。
人間不信の男性が、血のつながらない子を育てることにより復活をしていく物語であり、この点は『レ・ミゼラブル』に似通ったストーリーだ。
これ以降、サイラスとゴッドフリーの因果応報の物語が絡み合って紡がれていくことになる。実験的でもなく、奇をてらったところもない、まさに王道的な物語であり、特にエピーと出会う中盤以降の展開は目が離せない。
2.織り込まれた思想性
もちろん、本作の魅力はそのストーリー性だけにあるのではない。全編を通じて、様々な対比がなされ、その中に豊かな思想性が織り込まれているのだ。
例えば、ランタンヤードの街は比較的宗教的に厳格である反面*2、道徳的には退廃している。あるいは、宗教の表層的な面に囚われ、本質を失っている様子が読み取れるだろう。対して、ラヴィローの人々は比較的宗教的には緩やかであるが*3、「隣人愛」といった本質的な要素を感得して生きている様子が描かれる。
こうした独特の宗教観は、高等批評を踏まえたエリオットの立場を反映している。つまり、エリオットはこの時代にしては極めて先進的であり、キリスト教の神や聖書を所与の前提とすることを退けつつも、モラリティの基礎たる本質的な価値を認めているのである。
こうしたエリオットの宗教的立場は、次のような箇所に端的にあらわれている。
むかしむかしは、それぞれの土地に、それぞれの神が炭、支配しておられると信じられていた。・・・その土地の神々は、ひとが誕生以来住んでいる土地の川や森から出ていくことはできないのだった。(p.31)
自分がエピーを発見したのは、あの炉ばたではなかったか?きっと炉の神さまはまだおられるのだろう。どんな新しい信仰も、こうした物神崇拝に寛大にならないと、それ自身の根を枯らしてしまうかもしれない。(p.268)
次に、ゴッドフリーとサイラスの対比にも触れないわけにもいかないだろう。この二人はプロット的にもキーであり、持てるものと持たざるものの対比がされていると言ってよい。
ただ、ここで注目したいのは、人物造形の妙である。サイラスについては、「イワンのばか」とまでは言わないものの、純心素朴な人物として描かれており、典型的なおとぎ話的人物であり、あまり魅力的とは思えない。
むしろ見事なのは、腐った金持ちであるところのゴッドフリーである。やはり小説は悪役の描写にこそ華がある。ゴッドフリーは、その弟ダンスタンと違って、根っからの悪人ではない。根は善人であるのだが、優柔不断で、目先の快楽に流されやすく、臆病である。これこそ人間の弱さであり、そのクズっぷりを見事に描いている。サイラスのように生きられる人間はそうはいないだろうが、ゴッドフリー的な弱さは誰しもが持ち合わせているものだろう。エリオットはこの手の弱さを描くのが抜群に上手い。
続いて、本作に登場する2人の女性に目を転じてみたい。この点、エリオットの視線は、先ほどの宗教についてのものと同様、極めて現実主義的である。同じイギリスの女性作家と比べると、結婚を幸福なゴールと捉えていない点で、オースティンより大分開明的・進歩的である。また同時に、S.ブロンテが感じていた怒り【過去記事】を、より理知的に表現したとでもいえそうだ。
まず、一人目の女性、ナンシーは村の名家に生まれ、村の郷士の長男で、優しい夫でもあるゴッドフリーと結婚する。しかし、このオースティン的な結婚は幸福へと結びつかない。ナンシーには、子どもができないという当時としては致命的な悩みがあるのだ。
二人目は、ナンシーの姉プリシラである。プリシラは妹と異なり容色に恵まれなかった。しかし、父の名代として所領の切盛りをすることにやりがいを見出しており、妹よりもむしろ幸福な生を謳歌している。今風にいえばバリキャリ女性である。
・・・よい父親とよい家庭があれば、そんなことにやきもきするのはばかばかしいって。そんなことは、女独りでどうにもやっていけない連中にまかせておけってね。(p.178)
このように、ヴィクトリア朝時代にしては、実に新しい感覚か描かれている。
最後に、金貨とエピーの関係にも触れておきたい。サイラスが失った金貨が、エピーに取って代わられるところからも明らかなとおり、本作では金貨とエピーとが対比関係にある。エピーが、ある種の家族間の情愛的な繋がりや生命の力を表象しているのに対して、金貨は緩慢な死の代替物として示されている。
本作の表のテーマがエピーを中心とする再生の物語だが、裏テーマとして、金銭を媒介とする死の物語として読むのも面白そうだ。
3.細部
そして、トルストイほどではないが、細部まで行き届いた文章も素晴らしい。
まず特筆すべきは、ハニエリシダのモチーフだ。19世紀の作品の常として、基本的には因果応報で、善人善果・悪人悪果が本作のスタイルである。ところが一人、救われない人物が登場している。それは、エピーの生母であり、ゴッドフリーに捨てられた女、モリーである。モリーは、雪の大晦日にサイラス宅の前で行き倒れ死亡する。
ところが、エリオットはきちんとこのモリーに対しても救済を図っている。それは物語の結末部分、サイラスとエピー、そしてその夫の3人で、サイラス宅に庭を作るシーンだ。エピーはその庭に、家のそばに生えているハニエリシダの植え替えを行うのである。
このハニエリシダは、モリーが息絶えたその場所に生えていたものであり、モリーを象徴して救済を与える意図があることは明らかであろう。
もう一つが、天候のモチーフだ。
ダンスタンがサイラス宅に近づくとき、天気は霧である。そしていよいよ窃盗が行われようとする際には、雨へと変わる。また、エピーがサイラス宅に訪れるのは、雪の大晦日だ。これだけであれば、よくある登場人物の心理と外界の天候との対応関係に留まる。
心憎いのは、村の中心となる酒場の屋号である。窃盗が行われた後も、エピーを拾った後も、サイラスはこの酒場へと向かい、これがのちの人的交流の回復へとつながっていく。その酒場の屋号こそ、「虹亭」なのである。
ここまで見てきたとおり、本作は19世紀文学の王道中の王道であり、文学作品の典型的な要素を高い水準で兼ね備えた作品である。
私としては、英国の作品であれば、オースティンやブロンテ姉妹よりも、G.エリオットの作品を強く推したい。
お気に入り度:☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆
・エリオットの代表作にして大長編
・ディケンズも居るよ?
<<背景>>
1861年作。
作中、エピーを拾う頃の時間軸がナポレオン戦争終盤の頃であるので、おおよそ1815年頃か。そうするとエピーが大人になった頃が1831年頃という計算になる。
G.エリオットの生まれは1819年。ミドルマーチでもそうだったが、どうもこの作者、自分と同時代よりも、自分の幼年期を舞台とするのが好きなようだ。
なお、オースティンの没年は1817年であり、ちょうど入れ替わるようにS.ブロンテ(1816年生)とエリオットが生まれた計算になる。
なお、S.ブロンテの『ジェイン・エア』は1847年の作だ。
なお、まったくの余談であるが、園芸の世界では、本作にちなんで名づけられた「サイラス・マーナー」という品種のバラがあるそうだ。「薔薇の名前」になったわけである。
<<概要>>
全21章+結びの構成。章の上に部があるが、章番号は通し番号で振られている。15章までが1部であり、ページ数的にも1部の方が長い。
物語としては、サイラスがエピーを拾うまでが第1部、その後の因果応報が第2部で展開されることになる。
語りの位置関係については、基本的には三人称でいわゆる神視点ということになる。これもエリオット作品の特徴であるが、ときどき作者が作中にでしゃばるのが面白い。
「なにか食べたいとおもうものはありませんか」と年老いた労働者に(作者は)かつて訊いたことがある。(p.12)
作品の背後に、常にやや峻厳な作者の視点があるところが、物語に若干の苦みを与えている。
<<本のつくり>>
古典新訳文庫らしく、日本語はとてもこなれており、読みやすい。伝え聞くところによると、エリオットの英語はとても難しいようだ。息の長い文章が多いと言われているが、本作ではピリオドを増やすことによりこれに対応しているようだ。
また、作中には方言も頻出するが、これも方言らしく訳出されている。
唯一にして最大の不満は、訳注が全くないところである。特に、「教会」と「礼拝所」の違いなど、宗教的背景の相違が仄めかされる部分などは、訳注で補って欲しかった。
なお、光文社版を読んだあとに購入した彩流社全集版には適度に訳注が付されており、値段を考えなければ全集版の方がよさそうだ。