西欧の接ぎ木
「フローベールの小説『サラムボー』を読んだことがあるかね、牧師」とコケは訊ねた。
(中略)コケは彼に、あの本はとても素晴らしい本だったと言った。フローベールは燃え立つような色彩で、ひとつの野蛮な民族の偉大な活力や生命力、創造力を描写した。その音楽的な響きが気に入っていた初めの部分を、コケは暗誦した。
「『カルタゴの町外れにある、メガラの、ハミルカルの庭園でのことだった』エキゾティズムは命ですよね、牧師」(p.479)
≪感想≫
2冊目。楽しみにしていた南米作品。
どっこい、またしても鬼門。
なぜなら、本作の二人の主人公ーポール・ゴーギャン(通称・コケ)とフローラ・トリスタンーのどちらもあまり好みではないからだ。平成21年、東京国立近代美術館の「ゴーギャン展」に出かけて行ったが――会期末間近で、猛烈に混んでいた――どうにもピンとこなかった。そして、"社会主義者"にもどうにもピンとこない。
勝手な話だが、マコンドやアウレリャノ【過去記事】を待望していた私には、主役のどちらもフランス人の物語というのもがっかり要素の一つだった。というか、実は勝手に1-02は『緑の家』だと勘違いしていた。
ところが、そんな先入観を払拭してくれるような秀作だった。
基本的には下記概要に記載した構成のため、ゴーギャンとフローラのそれぞれの人生の二重奏が本作の根幹であるが、その豊かな枝葉の部分において非常に技巧的な作品である。
まず、時系列である。基本的に、奇数章は奇数章、偶数章は偶数章でそれぞれの時間軸に沿って単線に進んでいく。しかし、その間には各人の回想がマドレーヌ的【過去記事】に差し込まれ、時間軸が多層化していく。つまり、新しい順にゴーギャンの現在、ゴーギャンの過去、フローラの現在、フローラの過去の4つの流れが存在する。これにより、各人の人生の最も劇的な場面――ゴッホの「耳切り事件」と、夫からの銃撃――を物語の終盤に据えることに成功している。
そして、この時間軸の跳躍、特に各章間の以降をスムーズにしている様々な仕掛けの存在が指摘できる。
鉄格子越しに、市街にも貧しい人たちのための学校を経営しているカリタス会の修道女たちの姿が見えた。(5章、p.102)
この直後の6章では、
目の前にはとても背が低く色黒で、カリタス会の修道服に似たチュニックに身を包み、一匹のサルを腕に抱いて、(中略)札を下げた子供――女がいた。(6章、p.105)
わざわざ「似た」という言葉を使ってまで、前章のイメージを引き継いでいる。
7章は出航の前に終わり、8章は乗船に始まる。
「何も説明する必要はありません。あなたを存じ上げません、お会いしたこともありません。火曜日の八時、出発の時刻に初めてお目にかかることにしましょう」(7章、p.145)
「一八九五年七月三日、ポールはマルセイユからオーストラリアン号に乗船した。」(8章、p.146)
頭韻バージョンもある。
黴臭さと猫のおしっこの臭いのする、ニームのオテル・デュ・ガールの暑苦しい部屋で、フローラは一八八四年八月五日から一二日までの六日六晩、ひどい夜を過ごしたが、今回の旅の中でもっともつらい日々だった。(15章冒頭、p.293)
・・・ポールは・・・ひどく幸せな気分になった。マルキーズ諸島行きの夢がとうとう現実となったことと、タヒチから六泊六日かかった汚くて窒息しそうなひどい船旅がここで終わりになったからだった。(16章冒頭、p.318)
この他、双方の章に登場するユゴーなど、こうした仕掛けは探せば無数にあると思われる。その意味で、本書は極めてフローベール的である。舞台は20世紀フランス、そしてこの文体・・・。引用されるのがなぜユゴーなのか。必ずどこかでフローベールが引用されるに違いない。物語も終盤、残すところあと数ページ。やっぱり!それもそのものずばり、まさしく本書に対する作者の想念を語らせるかのように登場した。それが冒頭の引用である。それにしても、筆者の求めた楽園、筆者のエキゾティズムの対象は19世紀のフランスだったのだろうか。
本書でのお気に入りは「狂ったフィンセント」ことゴッホだ。本書にはたびたび作者のモノローグが登場する。特徴的なのは、"全知全能の神たる"作者の視点ではなく、二人の主役に寄り添い、語りかける友人のような、あるいは"守護天使たる"作者の視点で描かれる点である。これにより、ゴッホの行動をある程度シリアスにとらえざるを得ないゴーギャンの視点ではなく、一歩引いた、それでいて客観視点ではない視点での、滑稽で戯画的なゴッホ像を描くことに成功している。
せっかくだから若干の批判も。
筆者はフローラの方に先に着想を得たようだが、ゴーギャン側の断章の方が良く描けている印象であった。同じ男性の芸術家の方が書きやすいのだろうか。また、フローラの章は過去と現在の移行が急で、そんなに頻繁にマドレーヌされても・・・という箇所もあった。
さらに細部の指摘になるが、ダッシュの使い方が好みではない。カッコのように、ダッシュの前の文を修飾する用法――この記事でも何度か使用している――は、私の感性では美しくない。これは翻訳によるものなのか、原文からなのかは不明である。また、引用したくなるような、美しく、長く、曲がりくねった一文がなかったのも残念である。
本書は良くも悪くも西欧の接ぎ木である。クンデラは、それが他言語でなされていても、小説は「ヨーロッパの所産」であるという。しかしそれだけでは、21世紀に別人の手によって書かれたベートーヴェンのピアノソナタ33番にしかなりえない。
最後に、本書自体は素晴らしかったが、このチョイスにはやや疑問が残った。せっかく非西欧から取材したのに、21世紀に書かれた19世紀フランスを題材にした作品だからだ。でも、こうして本作が日の目を見て、おかげさまで私も読むことができた。
著者はどうもボヴァリー夫人論を執筆しているようで、いずれその論考と、『緑の家』も読んでみたい。
お気に入り度:☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆
≪概要≫
本作の主人公は二人、女性社会運動家のフローラ・トリスタン―日本でいうと平塚らいてうみたいな人―と、その孫であり画家のポール・ゴーギャンである。物語は史実をベースに、その間隙を作家の創造力と想像力が補う形で両名の人生を辿っていく。
全体は22章構成。各章にタイトルが付される。奇数章がフローラの、偶数章がゴーギャンの物語に充てられる。
それぞれの物語は別個に進行していく。ゴーギャン(1848-1903)の出生年は、フローラ(1803-1844)の没年より後なので、時間軸としてそれぞれの物語が交錯することはないし、両名が出会うことももちろんない。
奇数章各章では、フローラの業績である、講演や集会を行った町の1ないし2が主題となる。
偶数章各章では、ゴーギャンの業績である、絵画作品のいくつかがテーマに掲げられる。
都市/絵画は、おおむね目次にある各章のタイトルを参照するとわかる。必ずしも対応関係が明瞭ではないゴーギャン編は次のとおり。なお絵画のタイトルは本書文中に拠った。リンク先などをみるとタイトルには表記ゆれもしくは別題があることと、その別題が章題に採用されていることなどがわかる。
2章:『マナオ・トゥパパウ』
4章:『パペ・モエ』
6章:『アイタ・タマリ・ヴァヒネ・ジュディット・テ・パラリ』
8章:『アリーヌ・ゴーギャンの肖像』
10章:『ネヴァーモア』
12章:「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか。」
14章:『説教のあとの幻影』
16章:『レ・ミゼラブル』※本作ではなく、ゴッホの『黄色い家』ともとれる
18章:『オランピア』※ゴーギャンのものではなく、マネの作品である
20章:『ヒヴァ・オアの呪術師』
22章:『慈善を施す修道女』※リョサの創作による架空の作品と解釈する
≪背景≫
2003年発表。舞台は19世紀フランスとその植民地。
著者と同じ南米、コロンビアのガルシア=マルケスは8つ年上。
著者がノーベル文学賞を受賞したのは、マルケスに遅れること18年であった。
マルケス同様、政治活動にも積極的であった。
≪本のつくり≫
訳文で読んでも話法の切り替わりが感じ取れた。それだけ複雑な文章ということだろうから、訳文の良し悪しを評価できる立場にはない。ただ、少なくとも読み手としては違和感なく読み進められた。
しかし!フランスの地図もなければ、ゴーギャンゆかりの島々の地図もなく、非常に不親切である。権利の問題は難しかろうが、絵画の引用もない(岩波文庫の『失われた時を求めて』を見よ)。さらに、訳注もない。こういった点は、圧倒的に『オン・ザ・ロード』に軍配が挙がる。
私はこれらの不足を補うべく、先に挙げた「ゴーギャン展」の図録(丁寧に地図もついている)を適宜参照した。