きっかけは錯覚でもいいから
「聖書を信じるくらいですもの。わたしの話だって信じるはずだわ」(p.346)
<<感想>>
今回は、だいぶ昔に読んだ作品の再読をしてブログのコンテンツを充実させるシリーズの第?段『百年の孤独』。そう、傑作である。
猫ならまだしも杓子までもが傑作というからには、ひねくれ者の私としては冷や水の2,3杯でもぶっかけてやりたくなる。しかし、その程度の量の冷や水ではびくともしない、非常に深い懐を備えた作品である。
そこで今回は、本作を伝統的な西洋近代の小説とは異質な、ラテンアメリカの風土に根ざし、その気質を反映した物語であり、カオティックな作品世界を特徴とするカーニバル的な物語だと捉える、オリエンタリズム丸出しの読み方に対して、返すコップで冷や水をぶっかけてやりたい。
1.あらすじ
ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランが創始した架空の町マコンドを舞台にした、ブエンディア家の子孫たちの栄枯盛衰の物語である。
ここで最初につまづくのが、はたしていつの、そしてどこを舞台とした物語かという疑問である。どうも概ね19世紀中ごろ~20世紀中ごろで、どうもコロンビアのリオアチャ西部にある中山間地が舞台のようではある。しかし本作は、ある種の神話のように、時間や空間から遊離した物語世界を構築しているのが一つの特徴である。
さて、子孫たちの栄枯盛衰、と書いたが、500頁に満たない小説に、六代目の人物までもが登場するため、その展開は異様に早い。そして、これが抜群に面白いのである。
面白いと評価するだけでは面白くないので、なぜ面白いのかを考えてみよう。
例えば、試みに第7章の展開を分析してみる。第7章は、p.149-172の24頁で、本作としては標準的な長さの章である。ブエンディア家二代目、政府に反旗を翻すアウレリャノ大佐が捕縛される場面から、次のような構成となっている。
- アウレリャノ大佐の死刑執行までの1週間程度の期間の描写、10頁
- 大佐が逃亡に成功し、数年かけてマコンドに凱旋するまで、2頁
- 四代目にあたるレメディオスの誕生譚、0.5頁
- 大佐の兄である主要キャラ、ホセ・アルカディオの死、3頁
- 凱旋後のアウレリャノ大佐と再出撃について、3頁
- 大佐の側近ヘリネルド・マルケス大佐と、大佐の妹の恋愛、3頁
- 主要キャラ、初代ホセ・アルカディオ・ブエンディアの死、3頁
いかがだろうか?
まず気がつくのが、このわずか一章の間に恋愛、反乱、死刑、逃亡、戦闘、誕生、死といった読者を興奮させる物語要素がこれでもかと詰まっていることがわかる。その上、7つもの場面がクレイジーキルトのように繋ぎ合わされ、かつ緩急をつけて描かれていることもわかる。特に、数年の描写を手短に済ませたと思いきや、数時間の描写に数ページかけるなど、構成上の緩急だけではなく、時間の流れの緩急をつけていることもわかる。
このダイナミズムが、20章にわたり繰り返されるのが、本作の最大の魅力と言ってもよいだろう。これ以外にも、ティーザー広告*1や後アオリ*2のようなその後の展開の仄めかしや、いわゆる伏線回収のような技法もふんだんに用いられる。
世界中のかくも多くの読者を惹きつけたのも、このプロット的魅力が大きく貢献していることは間違いないだろう。
2.文体
続いては、本作の文体的な特徴にも目を転じてみたい。
良く知られているとおり、著者ガブリエル・ガルシア=マルケスは、ウィリアム・フォークナーから多大な影響を受けている。確かに、本作の舞台マコンドには、フォークナー作品の舞台となるヨクナパトーファの臭いが香る。物語の端々にも、どことなく同作のイメージが漂うのも事実である。
しかし、こと文体に関しては全く異なると言ってよい。
『アブサロム!アブサロム!』【過去記事】の感想でも書いたとおり、フォークナーの文体的な特徴はその独特の濃さにある。他方、マルケスの文体の魅力は、語り物のダイナミズムである。
カフカのように、いかなる事象も淡々と、あるいは冷徹に記述をしていく。ところが、そこに語られる内容の方は、過剰ともいえるホラ話の連鎖である。こうした語り物の魅力を備えている点では、ラブレー【過去記事】や『千一夜物語』のような作品の方が、フォークナーよりは大分近かろう。
3.マジック・リアリズム
さてさて、いよいよこの話題に入ろう。
良く知られているように、『百年の孤独』はマジック・リアリズムの手法を用いた作品であると同時に、その手法を用いた作品の筆頭格であると言われている。しかし、これまで何度もこのブログで主張しているように、私はこうした安易なレッテル貼りには懐疑的だ。まるで、星の数ほどの映画作品を指の数ほどの「ジャンル」に分類しつくすレンタルビデオ店のように、反芸術的な態度だとさえ思う。「マジック・リアリズム」概念の功罪について指摘する論考も既に多数存在するので、この問題には深く立ち入るまい。
少なくとも本作については、リアリズム要素と幻想的、あるいはファンタジックな要素とが作品内で融合していることは間違いない。また、それが先に指摘したプロット的魅力と不可分に結びついていることも否定しえないだろう。
では、こうした表現手法を用いた狙いは何なのだろうか?
これを考えるためには、本作のプロットをもう少し精緻に考えていく必要があると思われる。本作は無数の脱線や、枝葉にあたる挿話の部分がありつつも、全体は大きく次の4部の構成になっているものと思われる。
ここにいう千日戦争と、バナナ虐殺とは、いずれもコロンビアに起こった歴史的事実である。
コロンビアの歴史をざっと確認してから本作を読むと、まるで『フォレスト・ガンプ』を観ているように、作中の登場人物が史実の中に入り込んでいるように読めることがわかる。
そうした視点で本作を眺めると、むしろ本作は、現実に非現実的な要素を入れ込んで描いているのではなく、現実に生起した歴史的事象の非現実性を暴露するために、非現実的要素を用いているように見えてくる。
つまり、非現実的要素は、現実を異化するための戦略的な要素なのだ。
4.メタフィクション
最後に、最も重要なテーマとして、この問題を取り上げたい。
『百年の孤独』は、メタフィクショナルな作品であり、そしてそれは喧伝されているマジック・リアリズムよりも重要な要素である。
ナボコフ作品の読みすぎだと思われるかもしれないが、少なくともメタフィクショナルな作品である、という主張は次の記述からも明らかだろう。
一方、メルキアデスはノストラダムスの解釈に没頭した。・・・ある晩、彼はマコンドの未来の予言らしきものを探りあてたと信じた。(p.71)
メルキアデスの羊皮紙には自分の運命が書きしるされていることを知ったのだ。・・・それはごく些細なことまでふくめて、百年前にメルキアデスによって編まれた一族の歴史だった。(p.471)
このような視点で物語を読み進めていくと、「マジック」的要素のように見える予知や運命といった要素が、実はメタフィクション要素とも接続することが理解されてくる。
さて、ではなぜそれが重要なのか?
例えばここで試みに、「岸家と安部家が日本にいかに素晴らしい貢献をしたか」という物語を考えてみよう。その物語の最後の2頁では、実はその物語が作中作であったことが明らかにされる。その作中作の執筆者はなんとCIAの職員だったのだ。
この架空の物語からもわかるとおり、メタフィクショナルな仕掛けは、ときによってはそれまでの物語の意味を丸ごと転倒させる効果を持つ。きっとこの物語を読んだ陰謀論者は最後に快哉を叫び、与党支持者は顔を赤くし、読解力のない自称愛国者たちは感動の涙に打ち震えることだろう。
それではこと本作において、このメタフィクション性は何を意味するのだろう。それを探るために、作中作の作者であるところのメルキアデスの立ち位置を確認してみよう。
- マコンドが神話的な生活を送っていた頃、外界から隔絶したにも関わらず、街へとやってきて文明をもたらす(第一のメルキアデス)
- 死んだはずのメルキアデスが蘇り、マコンドへと住み着く(第二のメルキアデス)
- マコンドの未来を規定する予言を羊皮紙に残した上、死して亡霊となる(第三のメルキアデス)
- 羊皮紙の予言は、遠い異国の言葉であるサンスクリットで記述されている
言うまでもなく、コロンビア(にその後なった地域)はスペインの侵略を受け、やがて土着化したヨーロッパ人との混血が進むことになる。そして、独立を果たした後も、陰に陽に外国からの干渉を受け続けることになる。
このように、歴史に照らして考えてみると、メルキアデスは我が国でいうところの「黒船」や「ガイアツ」のような、干渉する異国の象徴であるように読めてくる。
そうすると、ブエンディア一族の物語は、干渉する異国によって、異国の言葉によって書かれ、それにより運命を規定された人々の物語として立ち現われてくる。
このように考えると、別の一つの謎が解けることになる。その謎とは、なぜ既に『石蹴り遊び』や『TTT』、『パラディーソ』【過去記事】のようなヨーロッパの傑作にも互する先鋭的な作品が生み出されているのに、敢えて土着性・地域性を前面に押し出した小説を書いたのか、という疑問だ。
換言すれば、本作は余りにもラテンアメリカ性が強調され過ぎている。未開、辺境、低開発、野蛮、性的奔放、神話性、(軍事的)暴力。これではまるで、NinjaとGeishaがSushiとTempraを振舞う小説のようではないか?
そう、恐らくはマルケスの描くラテンアメリカは、戦略的な「ラテンアメリカ」なのだ。作中の過剰なラテンアメリカ的要素は、囮なのである。ラテンアメリカを「そういうもの」と規定する人々に、この作品を読ませるための。
そして物語の最後、自らの「ラテンアメリカ像」を追認され、感動の涙に打ち震える読者に対して、冷や水をぶっかけるのである。これは自分たちの物語ではない、お前たちが作った物語なのだ、と。
即ち、本作のメタフィクション性も、作品それ自体を異化する効果を持っているのだ。
思うに、本作は『百年の孤独』が実は仕組まれた孤独であることを暴露するものであり、その孤独を仕組んだ側にそれを投げ返すことにより、物語の主権を回復する小説なのである。
このように、私の読むところの『百年の孤独』は、幻想性やメタフィクション性といった高度な文学的技巧を用いて、歴史的・政治的な告発を行う、極めて理知的でモダンな作品なのである。
お気に入り度:☆☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆☆
なお、本作のメタフィクション性に注目して記事を書こうと調べているうちに、見田悠子先生の「黄金郷の孤独」*4という論文に触れた。大変に勉強になったと同時に、メチャクチャ面白い論文なので、一読をお勧めしたい。
・どこか似ているロシアの大傑作
・実はどちらかというとリョサ派です
<<背景>>
1967年出版。フランシス・ドレイクがリオアチャの町を襲撃したのは1596年のこと。
感想で触れた千日戦争は1899-1902年、バナナ虐殺は1928年の出来事だ。
また、本作に先行するラテンアメリカ地域の傑作について触れると、『石蹴り遊び』が1963年、『パラディーソ』が1966年、『TTT』の原型が1964年の完成となっている。
マルケスに影響を与えたフォークナーは、1936年に『アブサロム!アブサロム!』を発表、1949年にノーベル賞を受賞し、1962年に没している。
<<概要>>
作中に章や部の指示は一切ない。しかし、改ページが登場するため、これを章として数えるのが便宜である。そうすると、全20章の構成ということになる。感想でも示したとおり、これをさらに全4部として捉えることも可能なように思われる。
語りの視点は三人称であり、いわゆる神視点である。語り自体は非常に淡々としており、それがスピード感のある物語展開と良くマッチしている。
視点の問題との関係で注目すべきなのは、本作がほぼ常にマコンドの、ブエンディア家(建物としての「家」)を中心に記述されているところである。
なお、読者の便宜と自分の備忘のために、冒頭の家系図に出てこない登場人物のうち、再登場時にわかりにくくなる人物について、若干のメモを付す。
- プルデンシオ・アギラル(初出p.34)・・・ホセ・アルカディオ・ブエンディアと同郷で、トラブルになった挙句殺してしまった人物。
- ビシタシオン(同p.53)・・・グアヒロ族の女、家事手伝いとして、アルカディオやアマランタの面倒を見る。
- フランシスコ・エル・オンブレ(同p.68)・・・二百歳近い流れ者の老人、マコンドで自作の歌などを披露し、近隣の噂などを広める。
- ドン・アポリナル・モスコテ(同p.73)・・・政府から派遣された町長。レメディオスの父。
- ピエトロ・クレスピ(同p.78)・・・自動ピアノとともに派遣されたイタリア人技師。レベーカとアマランタが奪い合う。
- ヘリネルド・マルケス(大佐)(同p.83)・・・近在の町の建設者の息子、アウレリャノ大佐の友人で、後に腹心となる。
- ロケ・カルニセロ大尉(大佐)(同p.156)・・・アウレリャノ大佐の処刑係、保守党を裏切り、大佐の部下になる。
- ホセ・ラケル・モンカダ将軍(同p.178)・・・保守党が派遣したマコンド市長。アウレリャノ大佐のライバル的存在。善政を敷く。
- ジャック・ブラウン氏(同p.268)・・・バナナ会社の責任者。
- パトリシア・ブラウン(同p.318)・・・メメと友達になるアメリカ人少女。
<<本のつくり>>
鼓先生の訳文には何もいうことはない。作品解説は小説家の方が書いておられるが、私は研究者の書いたものが好みである。あるいは、訳者あとがきと、作品解説とを両方載せてくれるとありがたい。
似たような名前の登場人物が非常に多い本作、読者の便宜のため、冒頭に家系図が置かれている。これ、殆どの読者が何度も参照する、とても便利なものなのだが、若干の欠点もある。それは、家系図に登場しない人物についての記憶が落ちやすい点である。
ところで、私が持っているのは新潮社の数あるハードカバー版のうち、「全小説」版である。この版、カバーを剥くと瀟洒な洋書風の作りになっており、とても美しい。だが、どうにも吸湿しやすい紙なのか、再読を繰り返すうちにやたらとベタベタしてくる。中身の紙も、どうも吸湿しやすいのか、他の単行本に比べて汚れやすいように感じている。
そんなことはどうでもよい。
『百年の孤独』と『薔薇の名前』が文庫化されると世界が滅びるという都市伝説もあるが、マコンドのように滅びても良い。
新潮社よ!文庫化を!