ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『それぞれの少女時代』リュドミラ・ウリツカヤ/沼野恭子訳

その顔さえ白くぼやけて

ヴィクトリヤが、双子の片割れであるガヤーネを初めて憎らしいと思ったのがいったいいつだったのか―出生以前なのか、以後なのか―それは、だれにもけっしてわからない。(p.33)

<<感想>>

ウリツカヤはどうしてこんなにつまらないのに、こんなにも面白いのだろう。

安心して欲しい。これは私からウリツカヤへ送る最大級の賛辞だ。

ではいったいウリツカヤのどこがつまらないのだろうか。それは、ウリツカヤの手法が、物語の描き方が、全くもって古色蒼然、100年前から何の進歩もしていないように思えるからだ。

彼女に送られる賛辞に「現代のトルストイ」というものがあるが、これは全く当たっている。話は早速横道にそれるが、ロシアの場合、ここに代入される名前はプーシキンであっても、ドストエフスキーであってもならず、トルストイでなければいけない。プーシキンでは偉大過ぎるし*1ドストエフスキーは「未来の予言者」であり、「われらの同時代人」であるから、未来に再来することがあってはならないのだ。

別の本で、彼女が尊敬する作家に挙げる人物が、ナボコフ過去記事】とプラトーノフ【過去記事】であると知って、ぶったまげたものである。それは彼女が作品の中で、こうした作家たちの書く新しい文体を少しも真似ていないように思えたからだ。

さてでは、ウリツカヤのいったい何がそれほど面白いのか。それは、描かれている内容が圧倒的に新しいことによる。この意味において、「現代のトルストイ」という表現は全くふさわしくなく、むしろ酷い侮辱でさえある。彼女は、トルストイも書き得なかった、書こうともしなかったことこそを自身の文学の主題に据えたのだから。

いい加減作品の中身を説明しよう。

本作は、群像劇スタイルの連作短篇集だ。短篇といってもまずまず長め。200頁ちょっとの作品に、6つの短篇が入っている。タイトルの通り、だいたいどの短篇も少女(たち)が主役である。最初の二つが、表紙にも描かれているヴィクトリヤとガヤーネという双子が主役の短篇。残りの短篇は双子の同級生たちにスポットライトが当たる。ここで、敢えて言い換えをしてみよう。本作では、歴史を動かす力も、政治・思想を語る言葉も持たない少女(たち)が主役なのだ。

そして、その少女たちと、周囲に生きるこれまで名前も与えられてこなかったような人々の描写が実に素晴らしい。そこに描かれているのは、リアルや等身大という言葉の方が陳腐に思えるほどの、現実的な生の輪郭を持った人物たちだ。トルストイの頃に完成されたいたはずの「リアリズム」が、男性たちの・大文字の・歴史的な・理想化された、認識のフィルターを通して観測されたリアリズムであったかを、言外に強く示している。

さてここからは、各短篇の中身に踏み込んで、いかに彼女が旧来の文学作品が表現してこなかったものを描こうとしているかを示したい。なお、特によかったものに★印を付している。

1.「他人の子」

ヴィクトリヤとガヤーネの出生譚が語られる、序章的な位置づけの短篇。彼女らの母マルガリータが、ひょんな事情から夫に不義を疑われてしまうという物語。このシンプルな物語にも、しっかりとウリツカヤ流の新しさが忍び込まされている。

一つめは、性的な描写である。性描写の何が新しいのかと思われるかもしれないが、そこに描かれているのは、ともすれば男性から引かれがちな、月経や出産といった、女性視点での性描写である。

もう一つが、マルガリータの出自である。彼女は実はアルメニア系の生まれである。本書の舞台はソビエト時代であるから、当然アルメニアソ連邦の一員であった。非ロシア系の人々も、「ソ連」を生きていたという当たり前の事実にも光が当てられている。

母も娘と同じく、それぞれ自分の夫を熱烈に、だれがなんと言おうと献身的に愛する典型的な東洋の女だったのである。(p.18、強調は引用者)

2.「捨て子」

少女へと成長したヴィクトリヤとガヤーネの物語。

これもまた実にいい。画面を少し上へスクロールして、もう一度本作の表紙を見て欲しい。双子の女の子。空でも飛ばすか、森の中にでも迷い込ませるか。これがジ〇リなら、大人の男性の目線で神聖化された嘘っぱちの少女性に、紋切型の双子像を装備したキャラクターにしかなりえないだろう。

ところが、この「捨て子」という物語は、なんと一方が他方をいじめる物語なのである。あなたは実は捨て子で、本当は他所のうちの子なのよと信じ込まされる方法によって。

なお、偽りの母にされた女の、かすかに見切れる過去も見逃せない。

3.★「奇跡のような凄腕」

傑作。本作で目立つのは後述の「風疹」だが、私としてはこちらの短篇を推したい。

ヴィクトリヤとガヤーネの同級生のピオネールが主役となる物語である。ピオネールの訳語には「共産少年少女団員」が充てられており、即ち、当時の価値基準における選抜された優秀な子どもたちである。

ウリツカヤがここにぶつけるテーマは、「障害者」である。

ピオネールの少女たちは、ある日博物館で、両手の無い少女が作ったスターリンの肖像の刺繍を見ることになる。その作者の名が同級生と同姓だと気づき、その作者に会いに行くのだ。

ここから先はぜひ実際にお読みいただきたいが、障害者の人物造形や、同人と対峙したときに起こる価値観の相克が実に見事だ。障害者といえば、昨今は当事者性の強い作品が耳目を集めがちだが、優れた文学に必要なのは必ずしも当事者性ではないことを教えてくれる。

4.★「その年の三月二日……」

続いてのテーマは、ユダヤ人である。

ソ連ユダヤ人。ユダヤ人を絶滅させようとしたナチスドイツに打ち勝ったのがソビエトである、という(政治的な)見方が用いられることもあるが、よく知られているように、ソ連でもユダヤ人に対する根強い差別感情があった。特にWWII後には、スターリンが厳しい弾圧を加えている。

主役となる少女の祖父がユダヤ人の医師であること、この短篇がスターリンが死んだ1953年を舞台としていることなどからすると、ついついそうした歴史的な読み込みをしたくもなる。

しかし、本作ではそうした歴史的な経緯は後景に退き、あくまで物語のフォーカスは少女たちにあたる。この短篇ではとくに、同級生の家柄の格差、そしていじめを巡って物語が展開するが、次の引用箇所などはどうだろうか。

「なんでお前らユダヤ人は、俺らのキリストを磔にしたんだよ」ボドリクが棘のある声で聞いた。まるで、ユダヤ人がキリストを十字架にかけた以上、錆びついた鉄の校門でリーリャの背中を叩く正当な権利、神聖な権利が俺にあるのは当然だとでも言いたげな聞き方だ。(p.123)

ここに示されているのは、極めて幼稚な感情であるが、それであるがゆえに、物事の本質的な側面を突いている。

詳細な言及は控えるが、本作の幕切れは、歴史的な出来事が、そこに生きる人々の具体的な生/性にとっていかに些末事かを良く示している。

5.「風疹」

この短篇集の中で、恐らく最も耳目を引くであろう作品。ネットで本作の評を調べてみても、言及の中心はこの作品である。

タブー視されてきた、女性の性欲、それも、少女たちの性の目覚めを描いたものである。「少女たちの性の目覚め」などと書くと、まるでエロ漫画のタイトルのようであるが、もちろん煽情的な内容ではない。女性作家らしく、繊細さと、同時にグロテスクとも言いうるほどの露骨さを兼ね備えて書かれている。

テーマ性が強すぎるがゆえに、短篇の味わいとしてはやや他の短篇に劣るように思う。

6.「かわいそうで幸せなターニカ」

短篇集の締めに相応しい作品。「風疹」と同様、目立つテーマであるが、こちらの方が抑制が効いていてクオリティが高い。

本作のテーマは、少女による売春である。主役となる少女は、憧れの先生にプレゼントを買うために、自ら売春を行うのだ。つまり、『たけくらべ』の背後に漂う悲壮感の強い売春とは趣が異なり、どちらかというといつぞやの時代の「援助交際」のような売春、といえば良いのだろうか。

もちろん、読みようによっては、お小遣いを得る手段が春を鬻ぐことの他にないという構造的な悲壮さや、それが商品になってしまうという悲哀を読み込むこともできよう。しかし、本作が描き出しているのはむしろ、この時代が置かれていた歴史的な状況や、恐らく現代までも続いているそうした構造を所与としつつ、なお力強く生を全うしようとする登場人物の輝きである。

草の根の人々のこうした輝きは、本短編集の一貫したテーマであると思われる。

 

――どんなにいじめられ、苦境に立たされようとも、生はやっぱり生なのであった。ソビエトの中にあってさえも。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆(女性向けなのではなく、男性にちょっと勧めづらい)

 

・同作者の出世作

・本家の作品

<<背景>>

2000年発表。作者57歳の作品という計算になる。

後述のとおり、作中の舞台は1953年前後であるから、自身の幼年期を作中年代に設定したことになる。懐古映画の代名詞となっている「ALWAYS 三丁目の夕日」が2005年に公開された1958年の映画だから、ちょうどこの映画と同じく、47年前を描いていることになる。

また、ソビエト崩壊後10年が経過しようとした頃に執筆された作品ともいいうる。スターリン圧制時代という歴史的に稀有な時空間を背景にしつつ、その時代を批判的にでも、懐古的にでもなく、現代的な問題意識にも接続し、かつ文学的に昇華した点で、作家の高い筆力と感性を示しているように思われる。

<<概要>>

全六篇の連作短篇集。語りはすべて三人称で統一されている。

スターリンの死が背景にあるため、作中の舞台は1953年前後の数年間と思われる。作中の少女たちはおおよそ10歳前後であるため、ウリツカヤ自身と同年代の子たちの子ども時代を扱ったことになる。

感想本文で扱ったとおり、あくまで少女たちの日常にフォーカスした物語である。しかし、ところどころに「収容所」や「強制労働」のような単語が恐らく故意に用いられており、それが独特の効果を生んでいる。

<<本のつくり>>

ロシア文学専門の出版社である群像社の作品。お馴染み(?)群像社ライブラリーのシリーズである。同シリーズには、同じウリツカヤの『クコツキイの症例』や、バーベリ、ペレーヴィンプラトーノフなど、露文党ならおさえておきたい作家の作品が多数ラインナップされている。

訳者は安定のヌマキョンことヌマ2先生こと沼野恭子氏。カバーの折り返しの近影が訳者が撮影したものであるなど、訳者との距離の近さも伺える。

もとより好きな訳者の一人であるが、この作家の作風と訳者氏の訳文とは見事に調和しているように思われる。

*1:彼女の父称がエヴゲーニエヴナであったとしても。