七回目のベルで受話器を
彼女の声はいつものように冷たかった。・・・話し下手な人によくある、無関心な口調で自分の人生を語るあの声、余計なところに感嘆符を置き、傷をほじくり返してでも話すべきところで黙り込んでしまうあの声だった。(p.184)
<<感想>>
毀誉褒貶の激しい作家という印象がある。
作家ボラーニョの代表作は『2666』であるとされている。そして、その異様な見た目からも耳目を引いた同作については、激賞する人もいれば、冗漫なだけの作品としてこき下ろす人もいる。ちなみに、私が初めて「鈍器」、「鈍器本」という表現を聞いたのは、この本が発売された頃のことだったように思う。
さて、『2666』を過剰評価だとする人の中には、ボラーニョの神髄は短篇にあり、この『通話』こそが傑作という意見もある。『2666』から読むのは荷が重い(物理的にも)ので、今回はこの『通話』に手を付けてみることにした。
1.はじめに
本作は短篇集である。連作形式ではないが、全体が3つのパートに分かれている(以下、便宜的に「部」と規定しよう。)。そして、各部では作品間に緩やかな共通点がある。例えば、第一部「通話」では、概ね売れない作家が語り手で、売れない作家同士の連帯やライバル関係などを描く、という部分が共通している。
そして、この3つの部を超えて、短篇集全体で、一つの共通する雰囲気を形作っているともいえる。単に同じ作家の短篇を乱脈に収録しただけの短篇集とは異なり、これが本作の大きな特徴といえそうだ。
そこで今回は、この形式に敬意を表し、いつもとはやり方を変えて、先に全体的な作品の感想について記した上で、各短編の評については手短に済ませてみたい。
2.感性・感情・感傷・共感
最初に取り掛かりたいのは、この短篇集全体に共通する雰囲気を言語化しようとする試みだ。これはともすれば作品に対する冒涜かもしれない。なぜなら、手短に言語化しようとすると滑り落ちていく何かの感情、感覚があるからこそ、詩や物語が作られるのだろうから。
それでも無理を承知で一言に集約させるならば、「周辺者の感傷」とでも言ってみようか。
第一部「通話」が概ね(売れない)詩人・作家たちを語り手に据えた物語であることは先に触れた。続く第二部「刑事たち」では、政治的動乱を背景にしたアウトローたち、第三部「アン・ムーアの人生」ではそれぞれに悲運にさらされた女性たちが語り手になっている。いずれもおおよそ主役、中心者、成功者、エスタブリッシュメントとは言えない人々であると言って間違いではないだろう。
問題は「感傷」の方である。そりゃ文学作品である以上、何某かの感傷が描かれていて当然といえば当然なのかもしれない。ところが、今回本作を読んでみて悩んでしまったのはまさにこの点なのだ。つまり、この「感傷」の周波数が合わない作品には、悉くノレないのである。
一応、感傷と共感だけで読書しているつもりはないのだけれど、こと本作においては、その部分が作品のコアになっているように読めてしまうのだ。
3.ラテンアメリカ性からの解放
ここで、もう一つの本作の特徴を指摘しておきたい。それは、従来のラテンアメリカ文学が持っている特徴があてはまらない、という点である。ラテンアメリカ文学といえば、コルタサル【過去記事】に代表されるような実験性、ボルヘスに代表されるような奇想性、あるいは、ガルシア・マルケス【過去記事】とバルガス・リョサ【過去記事】の両名ともに表現した暴力・性など、ある一定の傾向を持つものとして語られてきた。
しかし、「ブーム後」の新しい世代と言われるボラーニョにおいては、良きにつけ悪しきにつけそうした呪縛から解き放たれているのだ。
従って、極めてヨーロッパ流の伝統的な小説の形式に近しい、いわばごく普通の作品として読めてしまうのである。
そしてそれがゆえに、純粋に内容勝負とならざるを得ない。抑制が効きつつも、読み手の興味を持続させるストーリーテリングも魅力の一つかもしれない。しかし、最終的には文章の妙味と表現される感性・感情の質が作品のコアといわざるをえない。
4.まとめ
さて、最後に、少し作品からは離れるが、なぜここまで感傷と共感の読書を恐れるのかということを書きたい。
私は、どの作品にもできるだけフラットな気持ちで接するように心掛けているつもりである。また、全く異なる出自を持つ人間の感性を味わうことが出来るのは、文学の魅力の一つだろう。しかし、そうはいっても結局、自分と近しい社会階層・感性に基づいて描かれた作品に惹かれてるのではないかと、自分自身を疑っているからだ。
5.各短編評
※気に入ったものには+印を付している。★印は今回残念ながら無かった。
1部:通話
「センシニ」
センシニは作中の作家の名前。先輩作家と文通相手となり、やがて訪ねていく話。文通相手という「謎」を提示し、その人物に会いに行くという構成が、典型的であるがストーリーテリングとして上手い。
これは好きな人が多そう。
+「アンリ・シモン・ルプランス」
この表題も作中の作家の名前。本業(創作)ではイマイチなのに、なぜかその業界で特有のポジションを占める人っているよねー!ってお話。論文はク〇なのに、やたら行政職で力を発揮するセンセイとか。
やはり表題は作中作家の名前で、今度はライバル作家の話。そこに男女関係を絡めてきたり、相手がやや没落していくあたりが上手い。短い作品なのに、キチンとオチでカタルシスをキメてくる。
+「文学の冒険」
これもライバル作家の話だが、今度は相手がやや格上。自作で相手をそれとなく風刺するが*1、その作品を褒められてしまう。「センシニ」と同じく、最終的にその相手と邂逅するまでのヒキが上手い。また、語り手と相手を、それぞれAとBという匿名にして、やや突き放した印象を与えているのも良い。語り手のひねくれた感じが共感できるので+。
「通話」
この部の表題作にして短篇集全体の表題作。「文学の冒険」と同じく人物名がAB方式だが、書き出しでもう一本取っている。
BはXに恋をしている。もちろん不幸な恋だ。(p.71)
固定電話の頃の電話の距離感、もどかしさが上手く描かれており、こちらも人気が出そう。だけど、ぼくちんが恋愛をするような年齢になった頃には、もうPHSを持ってたんだよね。
2部:刑事たち
「芋虫」
書店に日参する若かりし「僕」。書店の向かいにある公園に日参している「彼」と目が合ううちに、ちょっとした知り合いになる。その「彼」の過去とは・・・。
あいかわらずこのちょっとしたヒキを作るのが上手い。
+「雪」
バルセロナで知り合った同郷のチリ人。彼から聞かされる武勇伝。彼はかつてロシアでマフィアまがいの男の手下をしていたらしい。『巨匠とマルガリータ』【過去記事】などの文学作品が顔を出す中、うっすらと背景に社会主義政権【過去記事】やチリ・クーデター【過去記事】が香る。
「ロシア話をもう一つ」
伝聞の伝聞という体で語られる、冗談のような小噺みたいなごく短い物語。「アンリ・シモン・ルプランス」のような、しょうもない男が収容所をサバイブするお話。
急に物語の舞台がアメリカとなる、ちょっと異色な作品。これもやはり伝聞という体で始まりつつも、途中から一人称が語られているはずの当人である「俺」になる。物語の結末部分で、その彼が一人称を奪われるところが面白い。
「刑事たち」
全編会話劇だけで展開する物語。二人の刑事が、ちょっとドリフの雷様みたいなゆるいノリで話をしている。と思いきや、実はかなり政治色の強い作品。昨日の支配者が明日の被支配者になる恐怖を見事に表している。極左政権から極右政権に転換したチリ政治の振れ幅の大きさを示した作品。
3部:アン・ムーアの人生
「独房の同志」
同じころに刑務所に入れられた仲間である元カノの思い出。やはり1973年というキーワードがチラつくが、あくまでチラつくだけなのがボラーニョ流。
不器用な生き方をする女性を描いている点で、ラテアメ式マッチョイズムとは一線を画するのだろう。
「クララ」
これもやはり元カノの話。十八歳でミスコンに準優勝したクララが、癌を患う四十女になるまで。総じてこの部は女性の没落譚ばかり。そうとしか生きられない女性性を描いたというようなフェミニズム的な読み込みができるトーンでもない。
本作全体の語り口に自己言及しているかのような冒頭の引用部分は本作から。
「ジョアンナ・シルヴェストリ」
こちらはポルノ女優の一代記。冒頭のカットで、ジョアンナがさりげなく病室にいる。物語の一部に「ある病気」についての言及があることから、エイズ罹患者の物語だということがわかる。チリ・クーデターと同様、ほんの少し仄めかす程度の匙加減。
「アン・ムーアの人生」
アメリカ人女性であるアン・ムーアの生涯を描く。男も仕事も生活地も次々と変えていく、そんな生き様の女性を描く。結末部はややポジティブで、この部の他の作品よりは読み味が良い。三人称と思われた物語の中盤に差し掛かって、突然「僕」が登場するのも面白い。
ただ、読点だけで延々とモノローグを続ける独特の文章が、女性「特有」の内面の語りを表現しようとしたものなのだとすれば、少なくとも現代的な視点で見れば酷いステレオタイプだと思う。
お気に入り度:☆☆
人に勧める度:☆☆
・マッチョでハードボイルドな年上世代
・ラテンアメリカのケルアックという評価もあったらしい
<<背景>>
1997年刊行。作家1953年に生まれ、メキシコに移住するが、アジェンデ政権成立と同時に帰国。
作中にもたびたび仄めかされるチリクーデターは1973年。作家もこれに関連して投獄を経験したようだ。その後、メキシコに移住した後、さらにスペインへ移り住んだという。
いわゆる「ブーム」が起こったのは60年代であるから、ブーム後の作家ということで間違いないだろう。
なお、比較されることもあるビート・ジェネレーションは50~60年代であるから、ボラーニョ世代の感覚とは少し異なるようにも思われる。
<<概要>>
全三部14作。作中年代は、作品の背景(チリクーデター、エイズ流行)から70年代後半~80年代頃と推測される。
作品舞台は作家の生涯と同様ワールドワイドだ。作家が住んだチリ、メキシコ、スペインに加え、アメリカが舞台の作品もある。
語りは概ね三人称であるが、まるで箱物語のように、伝聞の伝聞形式だったり、語り手の話相手の語りが始まったりと、独特の位相に位置付けられている。
<<本のつくり>>
ボラーニョ、好評を博したようで、エクリブからは『野生の探偵たち』が発売され、後に大作『2666』も白水社から出ている。さらに、「ボラーニョ・コレクション」というシリーズまで刊行され、続々と作品が訳出されている。
上の書影リンクで張ったものがそうだが、実は本作は同じ訳者で改訳新装され、ボラーニョ・コレクションの一冊に収まっている。このため、今はエクリブ版は絶版になり、古書市場で買うしかない状態になっている。
ところで、私は本棚の並びの美しさを優先して、旧版という扱いになるエクリブ版で読んでいる。そのため、「改訳」前の版にあたるのだが、どこに改訳の必要性があったのかはわからない。
訳者解説は作家の生涯→作品の解説と手堅い内容になっている。私としてはもう少し作品解説が充実していると嬉しいところだ。