ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ブルーノの問題』アレクサンドル・ヘモン/柴田元幸・秋草俊一郎訳

悪い夢ならば早めにさめてと

気さくな英語話者の隣人がエレベーターに乗りこんできて、中西部のままならない天気について会話を切り出そうとするなか、父は11と18(そこが口数の多いアメリカ人の行き先だった))のボタンを押しつづけていた――あたかも、それがこのクソみたいな多言語世界を終焉させ、バベルの塔なんてものが愚かにも建てられたせいで歴史が間違った非人間的な方向へとほどけだす以前に私たちみんなを連れ戻してくれるボタンであるかのように。(p.118)

<<感想>>

当ブログでアレクサンドル・ヘモンの作品を取り上げるのは二回目。この作家の『愛と障害』【過去記事】の感想を書いたことがある。

『愛と障害』は連作短篇集であったが、こちらの作品は頭の二文字が消えた短篇集になっている。連作の文字が無くなったとはいえ、各短編はいずれもヘモンその人を思わせる人物が語り手となっている。

ここで作者ヘモンについて簡潔に述べておこう。ヘモンはボスニア・ヘルツェゴビナに生まれたユーゴスラビア人である。サラエボ包囲の始まったまさにその日にアメリカに滞在しており、母国に帰れなくなった結果、亡命を余儀なくされた人物だ。

このため、本作もいわゆる亡命文学とカテゴライズすることが可能だ。

各短編についての言及に入る前に、全体の感想を記しておこう。

まず、本作は若書きならではの魅力に溢れている。若書きというと、往々にして作品を軽侮する表現であるが、これは私の意図とは異なる。むしろ、若さゆえ、作家生活の初期の頃の作品であるがゆえに、欲張りで、テーマ性に富み、実験的な内容も我儘にやってやろうという野心にあふれた作品集だ、といいたいのである。

そして何より、「当たり」の作品の比率が高い。だいたい短篇集というと、玉石混交というか、緩急や温度調整のために入っているのだと疑いたくなるような作品が入ることが多い。ところが本作では、どれもヒットかホームランかといえる、水準の高い作品ばかりで占められている。

以下、各短編の紹介では、気に入ったものに+印、特に良かったものに★を付している。

1.★「島」

少年の日の思い出について描いた作品。ふつう、そういう作品とくれば、ノスタルジックな内容と相場が決まっている。ところが本作は、作品全体に陰鬱な雰囲気が漂っており、ヘッセの「少年の日の思い出」よりもさらに暗い内容の少年の日の思い出になっている。

主人公の少年は、家族に連れられ、サラエボの自宅から島に住む叔父の家に旅行にでかける。叔父の話の端々から、カットバックかフラッシュバックのように、旧東欧(含・ロシア)の持つ歴史の負の側面が少年の心に印象を刻んでいく。

この短篇の面白いところは二つある。

一つは、少年の視点を、少年の感性のまま、大人の観察眼で記していることである。その乾いた描写が、作品全体にほんのりと漂う言い知れぬ恐怖感を見事に表現している。

もう一つは、モチーフ使いの巧みさである。サンダルに入ったゴミ、動物たちの弱肉強食、生物たちの視線などなど。まるで、もてる文学的技量をどこまで駆使することができるか試しているかのようだ。
作品の結末部、管理者が不在となったために飢えと憎しみを知る猫が登場する。恐らくはこのカットは、その後のユーゴ史を暗示しているのではないだろうか。

本作品集所収の他の短篇と異なり、実験色には乏しいが、ひたすらに技量が高く、習作的な側面もありそうだ。

2.+「アルフォンス・カウダース氏の生涯と作品」

二作目にして実験色に振り切った前衛的作品。

アルフォンス・カウダース氏という架空の人物について書かれた短文の連なりと後注だけで構成されている。この架空の人物は、スターリン、チトー、エヴァ・ブラウンなどの歴史的人物と関わりがあるようで、虚構性×歴史性という作品集全体を貫くテーマが色濃く表れている。ネットの悪ノリのような政治ネタ&下ネタが多いが、そこはかとなくシュールな雰囲気が漂っており、仄かにハルムス味を感じる。

アルフォンス・カウダースはローザ・ルクセンブルク*1にこう言った。「ちょっとだけでいいから挿れさせてくれ。ちょっとだけでいいから。痛くしないから」(p.32)

3.★「ゾルゲ諜報団」

こちらも前衛色の強い作品。
大量の注釈と、何の説明もなく挿入される写真が特徴。本筋はスパイに憧れる少年の物語である。ただ、そこに付された注釈が次第に注釈としての色彩を失い、もう一つ別の物語を展開していく。注釈で語られるのは、かつて実在したスパイ、リヒャルト・ゾルゲの物語である。ナボコフの『淡い焔』が詩と注釈を往還する物語なのに対し、本作は物語と注釈の二重奏のようである。

注釈側は一見して史実に沿って書かれているように見える。ところが、そこには前出のアルフォンス・カウダース氏の名前が登場し、読者は疑いを抱くことになる。物語の筋と史実とを丹念に照らしていくと、実は物語的な潤色を超え、明らかな虚構に満ちていることに気づく。
対照的に本文では、虚構だったはずの少年のスパイごっこが現実化し、むしろこちらこそが物語ではなく事実であったかのように読ませていく。

大文字の歴史と、自己の個人史とが直に接続しているかのような感覚が見事に表出されている。これは作家の来歴と無関係ではないだろうし、恐らく本作集全体のテーマそのものである。
なお、本文中、住所録の片隅にスイス在住のウラジーミル・ウラジーミロヴィチが顔を覗かせているが、これはVNへのオマージュなのだろうか。

住所録。・・・V:ヴラジーミロヴィチ、ヴラジーミル、ジュネーヴ私書箱六一六五。(p.84)

4.★「アコーディオン

僅か5頁の傑作。本作で最もお気に入りであるばかりか、短篇オールタイムでも上位に入りうる作品。

短いながらも二部構成。サラエボ事件を暗殺された大公の視点から描いたリアリティ溢れる物語――を巡る、壮大なホラ話。短い作品なのでこれ以上は踏み込まないで置こう。
ホラというのがまさにミソで、物語の虚構性を強く印象付ける作風に仕上がっている。さらに、虚構が生み出される現場=現実の因果を辿っていくと、歴史的事象に行き当たるという意味で、本作品のもう一つのミソである歴史性も見事に印象付けている。

5.+「心地よい言葉のやりとり」

実験色は後退し、上手さとテーマ性が出た作品。

作者自身をモデルにしたヘモン家のファミリー・ヒストリー。ヘモン家のルーツを示すいくつもの物語が同時並行的に語られる。『イリアス』【過去記事】に「ハイモン」姓が出てくることを知って喜ぶ父、親族の記憶を語る叔父、そしてその様子を語る語り手。

ところが、そうした作者自身の記憶も時を経て風化し、やがては『イリアス』のように物語へと転化していく。ビデオ撮影までされていたはずの親族の集いさえ、テープが編集され、不確かな物語に変容していく。ルーツというのは、結局は共有されている物語に過ぎないのだろうか?

ラテン語の"historia"が、歴史と物語の双方を意味することを思い出させてくれる、そんな物語である。
なお、冒頭に引用した部分はこの短篇から。引用部分だけではなく、このエレベーターの場面全体が秀逸である。

6.「コイン」

地点Aと地点Bがあり、地点Aから地点Bへ行くには腕利きの狙撃兵から丸見えの開かれた空間を通らねばならないとします。(p.138)

これは、この短篇の冒頭の一文だ。これはつまりそのまま、悪名高い「スナイパーストリート」*2のことであるから、この物語がサラエボ包囲の物語であることがわかる。本作は、サラエボ包囲を体験していない作者による、サラエボ包囲の物語なのだ。

そして本作は、その体験していないという距離感を見事に作品に落とし込んでいる。作品は、書簡体小説のように進み、現地サラエボと、アメリカであろう外国の場面が交互に描写される。しかし、宛名もないそれぞれの断章は、一方が他方の創作なのではないかとの疑いを読者に抱かせるのだ。

そのようにして、歴史≒物語=虚構と現実の境界が朧になったとき、ふと読者は思い出す。ああ、そもそもこの物語はヘモンの創作だったんだ、と。

7.「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」
戦時下の故郷サラエボを思いつつ、アメリカで暮らさざるを得なくなった男の物語。
「ブルーノの問題」は、この長めの短篇の章題であるから、作品集全体の中心的な作品だと思われる。
「死せる魂」は、ゴーゴリの同名作を意識しているのだろうか。死せるサラエボの民(農奴)と、魂の死んだアメリカ人たち(地主)が二重写しになり、特に後者が戯画化して描かれている。
ところで、どうも著者の米国描写(マクドナルド―ジャンクフード―フットボール)は私にはやや退屈だ。
他作品と比べても、実験的な色彩には乏しい。この短篇集登載のの中では最も『愛と障害』に似ているが、雰囲気はより重く、亡命の傷がまだ生々しいように感じられる。
ただ、人称代名詞「私たち」の使い方が独特の効果を生んでいて、そこが面白かった。

8.+「人生の模倣」

短篇集の最後に相応しく、テーマ性も色濃いが、反面抽象度の高い作品。

「私はずっと早寝の習慣だった」というプルースト過去記事】を思わせる書き出しで始まる作品。本作もどうやら幼少期の回想をしているようだ。物語では、短篇のタイトルと同名の映画の筋書きが紹介されたり、映画の撮影現場の場面が登場したりする。もちろん映画というモチーフは、虚構性を象徴している。

どうもヘモンの作品は2つの位相で虚実混淆しているのが特徴のようだ。まず、作品世界そのものが虚実混淆で表現されている点。そして、作者の現実認識の在り方が虚実混淆的である点。
事実は小説より奇なりというが、この著者は、まるで映画の中の世界のような事実を生きさせられてきた、その経験を表現したかったのかもしれない。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆(世界史好きにおススメ)

 

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<<背景>>

短篇集としては2000年発表。各短篇には初出がありそうだが、作品の解説で触れられておらず不明である。

作家は1964年生まれ。16歳の頃にチトーが死に、37歳の頃にソ連とユーゴの崩壊がそれぞれ開始した。翌92年、サラエヴォ包囲が始まった年から作家はアメリカで暮らすことになる。

いずれの作品も作者の自伝「風」であるから、作中年代はおおよそ作者の出生年~現代、作中舞台は旧ユーゴ~アメリカということでよさそうだ。

<<概要>>

感想本文中で、便宜的に番号を付したとおり、合わせて8篇の短篇が収録されている。長短の差が激しく、最も短い「アコーディオン」で5頁、最も長い「プロネク」では93頁もの分量がある。

感想本文でも少し触れたとおり、文体は各作品ごとに大きくことなる。例えば、「島」は細かく節を区切っていくスタイル。「コイン」は書簡体小説風で、「プロネク」では、まるで思い出に付箋を付けたかのように、節番号のかわりに節題のような見出しが付されている。

<<本のつくり>>

共訳。このために各短篇に番号を振ったようなものだが、1・4・6・7を柴田先生が、2・3・5・8番を秋草先生が訳されている。以前どこかで、共著(共訳)本「あ行」の人最強説を唱えたことがあるが、本作ではさすがに柴田→秋草の順で落ち着いたようだ*3

また、柴田先生の訳文があまりツボではないということを書いたこともあったが【過去記事】、本作に限っては全くそのようなことを感じなかった。むしろ、共訳書にありがちな(例えば、『黒檀』【過去記事】)、部分部分で文章の雰囲気が変わるような違和感を全く覚えなかった。

なお、某所のオンラインイベントで、柴田先生による「アコーディオン」の朗読を聞いたが、これもまた大変素晴らしかった。

この本は、これまでヘモンの本を2冊出版してきた白水社ではなく、昨今文学好きの注目を集めてやまないSSKKBこと書肆侃侃房から出ている。私としては、白水社から出ている『愛と障害』よりも、はっきり本作の方が好みであり、東京の老舗が出さない/出せない本作を掬い上げてくれた版元に感謝したい。

 

*1:ポーランド生まれ、ドイツの女性共産主義者。革命の象徴的存在とされる。『チェヴェングール』に登場するコピョンキンの憧れの人。

*2:「ならないとします。」との表現がニクいが、史実そのままである。サラエボ包囲を象徴する事象であり、現在当該通りはある種の戦争記念碑、もしくは観光名所になっている。

*3:直系かどうかとか細かい話は存じ上げないが、師弟関係かそれに準ずる関係にあるものと思われる。