ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

1-04②『愛人 ラマン』マルグリット・デュラス/清水徹訳

早すぎたケータイ小説

この川はカンボジアの森のなかのトンレサップ湖から始まり、出会うものすべてを拾い集めてここまで来た。それは訪れてくるものすべてを連れてゆく、藁小屋、森、消えた火災の残り、死んだ鳥、死んだ犬、溺れた虎、水牛、溺れた人間、罠、水生ヒヤシンスの集落、すべてが太平洋へと向かう、どれひとつとしてふつうの調子で流れてはいない、どれもこれも、内部の水流の深く、めるくめくような嵐に運ばれてゆく、どれもこれも、大河の力の表面に宙吊りになっている。 (p.359)

≪感想≫

wikipediaに書かれた「ケータイ小説」の特徴を幾つか抜き出してみる。

ケータイ小説 - Wikipedia

文体

1.改行が多い、2.一文一文が短い、3.主人公の主観視点、4.意識の流れ的記述

内容

1.少女を主人公とした恋愛ものが多く占める、2.悲劇的な出来事が題材にされやすい、3.性的描写が多い

その他

1.普段本を読まない層に爆発的に消費され、ベストセラーとなった、2.人気作は映画化された、3.JPOPの歌詞と親和的である。

 

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1-04①『太平洋の防波堤』マルグリット・デュラス/田中倫郎訳

オイディプス女王

≪感想≫

ソフト帽は映画からそのまま脱け出たみたいだ―女の件で気がむしゃくしゃするから、財産を半分賭けに、四十馬力の車に乗ってロンシャン競馬場へ行く前に無造作にかぶるような帽子である。(p.32)

清々しいほどつまらなかった。

あまり酷評すると、馬鹿なんじゃなかろうかと思われるきらいもあろうが、少なくとも私にはまったく向いていない。

デュラスという作家は、おそらく本全集に入っていないければ、一生読む機会はなかっただろうと思う。かろうじて、著名らしい映画「ラマン」*1の作者らしいという程度の前情報しかなかった。

なぜつまらないか、というのは悪魔の証明チックで難しい。一点の疑義も許されない自然科学的証明はできっこないが、名作に備わる要素の不在を一つ一つ確認したい。

 

*1:伊集院光がよく愛人のことを「ラマン」というのは、この映画の影響だろうし、私がこの映画を知っていたのは伊集院光の影響だ

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1-03『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ/西永良成訳

 重いクンデラ試練の道を

あいかわらず四つん這いになっていたトマーシュは、後ずさりし、体を縮めて、ウワーッと唸りだした。そのクロワッサンのために闘うふりをしてみせたのだ。犬は主人に自分の唸り声で応えた。とうとうやった!それこそ彼らが待っていたことだったのだ!カレーニンが遊びたがっている!カレーニンにはまだ生きる意欲があったのだ!

 その唸り声、それがカレーニンの微笑だった。 (p.336)*1

≪感想≫

再読、いや再々読だろうか。15年ほど前に集英社版で読み、気に入りの本の1つだった。著者の小説論である『カーテン』もわざわざハードカバーで買って読み、『冗談』も岩波版が出れば早速買って読んでいた。そして何を隠そう、本ブログのタイトルも、印象深かった本書第7部「カレーニンの微笑」から拝借している。最初は「ウラジミールの呪い」にしようと思っていた。本を読んでいるといつも、ナボコフならどう読むだろう・・・とふと考えているからだ。ただ、ネガティブワードもどうかというところで、クンデラからこのワードを拝借したのだ。本作には引用をしたくなるような部分が多く、引用箇所には悩んだが、「カレーニンの微笑」の箇所をセレクトした。願わくばナボコフ先生が幸福な唸り声をあげられる素敵な作品に出会えますように。

 

*1:トマーシュは主人公の一人、カレーニンはその飼い犬(雌)である。

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『小説の技法』ミラン・クンデラ/西永良成訳

セカイ-内-存在

小説は固有の仕方、固有の論理によって、人生の様々な諸相を一つひとつ発見してきた。すなわち、セルバンテスの同時代人たちとともに冒険とは何かを問い、サミュエル・リチャードソンとともに「内面に生起するもの」を検討し、秘められた感情生活を明るみに出しはじめ、バルザックとともに<歴史>に根ざす人間を発見し、フローベールとともにそれまで「未知の大陸」だった日常性を探求し、トルストイとともに人間の決断と行動に介入する非理性的なものに関心を寄せた。小説は時間を測定して、マルセル・プルーストとともに過去の捉えがたい瞬間を、ジェームズ・ジョイスとともに現在の捉えがたい瞬間を測定した。トーマス・マンとともに時代の奥底からやってきて、私たちの歩みを遠隔操作する神話の役割を問うた、等々。(p.14)

≪感想≫

せっかく皮肉っぽい良いタイトルを思いついたと思ったのに、ぐぐったら他にも一人同じことを考えた人が居たようで残念。 

さて、本書で著者は、「小説家とは小説の蔭に身を隠すもの」として、作者の個人史に引き付けて作品を解釈されることを拒絶し、あるいは作品と著者自身との思想が独立であることを主張したりする。だが、そのような解釈をされたくないのであれば、著者はテクストを燃やしてしまうべきだ。テクストは、それが読まれた時点で既に読み手に強奪されているのである。そう、これは私の主張なのではなく、クンデラ風にいうと、存在論的な命題なのである。

これを前提に、本作は傑作であった。しかしそれは、披瀝されている著者自身の小説観が面白かったというより、本書の構成要素と、著者のカフカ解釈が書かれた第5部が気に入ったためである。シャリとガリとが美味い寿司屋だ。

 

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