ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ジェイン・エア』シャーロット・ブロンテ/河島弘美訳

残酷なブロンテのテーゼ

ジョージアナ、あなたみたいに虚栄心が強くて愚かな生き物が、この地上に存在するなんて許されないわね。生まれてくるべきじゃなかったのよ。人生を無駄にしているんですもの。」(下巻、p.39)

 <<感想>>

ジェイン・エア』は、多くの文学マニア・文学好きの「読まず嫌いリスト」に入っている。

それは、この作品が、①恋愛をテーマにした、②かつての被虐者が後に幸福を獲得するという意味のでシンデレラストーリーであり、③ロマン主義的傾向のある、④広く一般ウケする作品で(もしくはそうした先入観が)あるからだ。

これでは到底、文学オタク諸兄のスノビズムをくすぐることはできない。

だって、ヒースクリフがどうこう、ロチェスター様がどうこう言っているより、ウルフでも読んで、モダニズムどうこう、ブルームズベリー・グループどうこう言うほうが、なんかカッコイイでしょう?

 

冒頭から断言調で入ったが、とりわけスノッブな哲学科の同級生で、彼女らの作品を読んでいた友人はいなかったように思う。はたまた、知的な書評で知られるあのサイトやこのブログだって、『ジェイン・エア』をスルーしているところは多いでしょう? 

 

かくいう私も、これまで本書を手に取ろうとしたことはなく、ジーン・リースを読んでやろうというきっかけでもない限り、おそらく一生読む機会はなかっただろう。

 

ジェイン・エア(上) (岩波文庫)
 
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『失われた時を求めて』第3篇「ゲルマントのほう」マルセル・プルースト/吉川一義訳

君は、刻の涙を見る

われわれは自分の人生を十全に活用することがなく、夏のたそがれや冬の早く訪れる夜のなかにいくばくかの安らぎや楽しみを含むかに見えたそんな時間を、未完のまま放置している。だがそんな時間は、完全に失われたわけではない。あらたな楽しい瞬間がそれなりの調べを奏でるとき、その瞬間も同じくか細い筋をひいて消えてゆくのだが、以前の時間はこのあらたな瞬間のもとに駆けつけ、オーケストラの奏でる豊饒な音楽の基礎、堅固な支えとなってくれるのだ。かくして失われた時は、たまにしか見出されなくとも存在しつづけている典型的な幸福のなかに伸び広がっている。 (第7巻、p.126)

<<感想>> 

本作『失われた時を求めて』については、どうすればこの大作を攻略することができるのか、という視点でこれまで記事を書いてきた。

今回の第3篇でも、書きたいことが多すぎて到底書ききれない感想は極力控えめにして、読みのポイントを紹介してみたい。

 

立教大学の坂本教授はセミナー【過去記事】の中で、第3篇「ゲルマントのほう」を「ゲルマントの壁」と称していた。

他方、コレージュ・ド・フランスのアントワーヌ・コンパニョン教授は、『プルーストと過ごす夏』の中で、次のようなエピソードを披露している。即ち、第1篇「スワン家のほうへ」では、買った人の半分が挫折をする。 第2篇「花咲く乙女たちのかげに」進んだ人も、その半分が挫折するが、第3篇「ゲルマントのほう」に辿り着いた人は、もう挫折しない、と(同書p.17)。

この相反する二つの評価には、それぞれ一面の真実があるように思う。

確かに、「ゲルマントのほう」では、いよいよプルーストの本領が発揮され、本作のメインテーマともいいうる「時」の主題が押し出される。従って、ここまでプルーストに付いて来た忠実な読者にとっては、いよいよ見どころがやってきたという気持ちがわいてくる。

しかし、「ゲルマントのほう」は、当否はさておいても冗長であることは間違いない。1篇に充てられた分量としては、全7篇のうちもっとも多い。その反面、先に挙げた『プルーストと過ごす夏』においても、「ゲルマントのほう」からの引用は、全7篇のうちでもっとも少ないように思える。

さながら、休憩所の少ない登山道のようなものだ。そこで以下では、長い道のりを過たず踏破できるよう、全体の地図をきっちり俯瞰した後、「ゲルマント山」に見られる絶景ポイントの幾つかをご紹介したい。

 

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『ディフェンス』ウラジーミル・ナボコフ/若島正訳

ヘッセじゃないほうのクヌルプ

「唯一の出口だよ」と彼は言った。「ぼくはゲームを放棄する」(p.260)

<<感想>>

かまいたちの夜」というテレビゲームをご存知だろうか。

もとは確かスーパーファミコンのソフトとして発売されたのだと思う。

ゲームなど知らんという方のために説明すると、「かまいたちの夜」は、ミステリー小説をゲーム化したもの、いや、スーパーファミコンという機械で読むミステリー小説だったのだ。

次々と文章が画面に表示されていくのだが、テレビゲームだけあって、BGMや背景画像がある。そして、普通の小説との決定的な差異は選択肢が表示されることである。これもご存知の方は限られるかもしれないが、いわゆるゲームブックに似ている。プレイヤー(読者)が選択肢の中から主人公の行動や推理を選び取ることにより、物語は幾筋ものストーリーへと分岐をしていくのである。

ミステリー小説というくらいなのだから、当然殺人事件が起こり、犯人がいる。しかし、大抵のプレイヤーは、初回プレイ時(初読時)には、選択を誤り、犯人の凶行は止まず、ただただ呆然としているうちに、哀れ主人公は恋人もろとも無残にも犯人に殺されてゲームオーバーとなる。

かまいたちの夜」が面白いのはここからである。当然このゲームは再読されることを前提にしている。プレイヤー(読者)は再プレイ時(再読時)に、誤った選択肢を適切な選択肢に選び替え、少しずつ物語の真相に迫っていくのである。

 

前置きが長くなったが、ナボコフの読書は、この「かまいたちの夜」に似ている。もちろんナボコフの小説は王道ミステリではないし、作中に選択肢は登場しない。しかし、初読時に完全に置いて行かれること、再読時に初読時の記憶が活きること、これにより少しずつ真相に迫っていくという作業の快楽が、「かまいたちの夜」にそっくりなのである*1

 

本作『ディフェンス』も、初読時には全く歯が立たなかった。

この歯が立たなさの原因はおそらく二つある。

一つ目は、ミクロ的な部分。ナボコフの小説の多くに共通するところだが、初読時には意味が取りづらくなるように意図されて書かれている文章が多い。これは、特に各章の冒頭に散見される。

二つ目は、マクロ的な部分。何が書きたかったのか、何を目的として書かれたのか、どのように受け止めれば良いのか、これが全くわからない。『モンテ・クリスト伯』であれば、大掴みとしては「復讐譚」と要約すれば間違ではないだろう。『アンナ・カレーニナ』であれば、「不倫を軸としてさまざまな人間模様を描く」、と要約すれば及第点には達しそうだ。ところが、『ディフェンス』では、チェス小説?ツルゲーネフへのオマージュ?恋愛小説?などと、次々と疑わしい犯人に矛先を向けているうちに、物語はあらぬ方向へと彷徨し、あたかも読者が作者に殺されるが如く、読解に苦しむ幕切れで終わる。

以下では、この二つのわからなさについて、もう一歩踏み込んで考察してみたい。

 

ディフェンス

ディフェンス

 

 

*1:わかりやすいかと思って「かまいたちの夜」で例えたが、ようは死に覚えのゲームならなんにでも似ている。わかる人は、Nethackでも、La-mulanaでも、お好きな死に覚えゲームを思い浮かべて下さい。

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原作『失われた時を求めて』愛読者が観た映画「スワンの恋」

インターミッション

 

公開セミナー「新訳でプルーストを読破する」【過去記事】の公式twitter参考リンク】にて、映画「スワンの恋」がテレビ放送されると知ったので、せっかくだから鑑賞してみた。

ところで、私は普段ほとんど映画は見ない。このため、俳優の名前も知らなければ、映画の「書誌情報」として何を掲げるのが適切かもわからない。

ともあれ、本記事は『失われた時を求めて』の原作は読んだことがある人向けの「スワンの恋」評という、(逆ならまだしも)どこに需要があるのか検討もつかない記事になるからら、勝手気ままに文学のコードで評してみたい。

 

さて、原作ファンによる、映像化作品評などというのは、往々にして愛してやまない原作を好き勝手にされたことに対する不平不満うらみつらみで埋め尽くされるのが通常である。

ところがどっこい、意外な見どころが多くて、素直に楽しむことができた。

 

概要を先に述べると、本作は大筋でプルースト失われた時を求めて』の第一篇第二部、岩波文庫版でいうところの2巻(全14巻)の一部を約2時間にまとめた物語ということができる。

文学と映画という異なる表現形式間で、原作の異同を論じようとすると、人間と象の「違い」を探す話になって不毛だ。それよりも、映画ならではの美点と欠点とを探し求めるのが面白そうだ。

スワンの恋 [DVD]

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