許されないのは わかってるつもり世間のしくみにとても勝てないから
あたしに翼のあるウマがいたら、おじさんを月までつれていってあげるのに。月の上ならもっと居心地がいいはずよ(p.82)
シャーリイ・ジャクスンにはすっかり魅了されてしまった。
きっかけは「くじ」である。彼女の(短篇の)代表作と名高い作品だ。ナボコフ短篇の新訳目当てで買った『アメリカン・マスターピース 戦後篇』にたまたま収録されていたのである。
続いて手を伸ばした本作も、「くじ」に負けず劣らずの作品である。
ただ、ネットの書評などを見ると、ジャンル小説的な文脈での受容(ミステリ、ホラー、ゴシック・・・)に偏っているような印象を受ける。またあるいは、主人公の少女メリキャットの心理にばかり注目が集まっているようにも思える。
そこで、ゴリゴリ文学を標榜する当ブログとして、もう少し突っ込んで本作の魅力について語ってみたい。
なお、ここまでの文章は以下で作品の結末まで含めたすべてのネタバレがあることに関する壮大な言い訳である。この作品について、ネタバレが魅力を損なうことはないと私は考えるが、念のためご注意いただきたい。
あらすじ
物語は空想癖のある少女、メリキャットことメアリの一人称で進んでいく。
メアリは資産家の娘で、大好きな姉のコンスタンス、猫のジョナス、そして伯父のジュリアンとともに、ずっとお屋敷で暮らしている。
村への買い出しはメリキャットの役目。でもなぜかしら、村人からは老若男女問わず剝き出しの敵意を向けられている。
コンスタンスは言う。「気にしてるところを見せてはだめよ」それから「注意をはらったりしたら、あの人たち、もっとたちが悪くなるわ」―たぶんそれは当たっているのだろう。だけどあたしはやっぱり、みんな死んじゃえばいいのにと思う。(p.20)
買い出しを終えて帰宅した場面で、その理由が明かされる。メリキャットの両親は、彼女の兄ともども、かつてこの屋敷で毒殺されていたのだ。
そして、その料理を支度した姉のコンスタンスは、後に無罪を勝ち取るものの、しばらく逮捕勾留されていた。だからコンスタンスは殆ど家を出る事なく、砒素中毒の後遺症を患う、毒殺の生き残りである伯父の介護をして暮らしてる。
村人との交流を最低限に抑えつつ、静かな暮らしを続けるメリキャットたちであったが、ある日、望まぬ変化が訪れる。従兄弟のチャールズがやってきて、ふつうの暮らしをするよう勧めてきたのだ・・・
さて、冒頭でネタバレが本作の価値を毀損することはないと述べた理由は二つある。
一つは、プロット的な仕掛け以外の部分の方が素晴らしいからだ。
そしてもう一つは、プロット的な仕掛けとしては既に古びており、慧眼な現代の読者諸氏にかかれば、この冒頭のあらすじ紹介のレベルで、オチが読めてしまうからだ。
そう、既にお気づきのとおり、毒殺の下手人は一人称の語り手である少女メリキャット本人である。
心理小説として
少女視点・一人称・口語体というまるで少女小説のような建付けも相まって、最初に気になるのはこの少女メリキャットのサイコなキャラクター性、あるいは心理についてである。
迫害された乙女か、悲劇のヒロインか。卑近にいえば、被虐児の末路か、いじめられっ子の行く末か。さらに平たくいえば、こじらせた陰キャ女子である。このメリキャットという人物は、このヤバいキャラ造型にも関わらず、どこか読者の共感を誘ってくる。嫌いなひととは関わりたくない。外界は怖い。優しくしてくれるひととだけ一緒に居たい・・・。多かれ少なかれ誰しもが心にメリキャットを抱えているだろう。
そういう意味では、ドストエフスキーの『地下室の手記』と非常によく似た構造を有している。同作で描かれているのは、自意識が肥大化した、ヒキコモリ系のクズ男子である。しかしやはり、その情動には誰しもが共感をし、まるで読者自身の心の弱い部分を取り出して見せられているかのような感覚を覚える。
メリキャットを読んでいて私が思い出したのは、カプセルホテルの小さいなお城でずっと居場所を探していた、いただき女子りりちゃんこと渡辺真衣受刑者のことだ。彼女が公判廷で主張したのと同様、メリキャットも不幸な少女時代を過ごしただろうことが仄めかされている。
そうしてみると、ドストの「地下室人」はまるで「ギバーおぢ」のようであるし、他方でメリキャットは「いただき女子」のようでもある。
社会派小説として
ただ、ここで注意したいのが、ジャクスンがこうした人物像を消化した上で、一人称の小説に仕立て上げている点だ。逆にいえば、世間の恐怖や世知辛さを十分に感得しつつも、同時に個人と社会との対立構造自体を冷静に客体化していないければこうした作品に結実しなかったはずだ。
かような観点から作品を眺めてみると、視点人物のメリキャットは目を逸らしているものの、作品の中には社会の側からの視線がきちんと書き込まれている。
この主張を確かめるために、ここでさらにまた一つ別の観点からの読みを提示してみたい。それは、メリキャットの姉コンスタンスについての読み方である。
コンスタンスとメリキャットとは、同質性を持つと同時に相反性を持つように描かれている。例えば、メリキャットは買い物が仕事、他方でコンスタンスの役回りである料理と介護に触れることは許されず、お互いに職分/領域が明確に区別されている。
これは、メリキャット側から見ると、犯罪の嫌疑を受けた過去を持つコンスタンスを守ろうとしているのと同時に、コンスタンスを屋敷に幽閉しようとする行為である。
反対に、コンスタンス側から見ると、二度とメリキャットに毒物を扱わせないようにする自衛措置であると同時に、メリキャットに疑いが向けられないように彼女を守る行為でもある。
特に、チャールズが登場してからの姉妹の動きは見事に対照的だ。コンスタンスはチャールズに心を開き、変化を受入れようとする。換言すれば、社会の側と折り合いを付けようとする動きを見せる。反対にメリキャットは、チャールズを敵対視し、あくまでお屋敷という殻の中へと閉じこもろうとする。
つまり、メリキャットとコンスタンスはある意味において一心同体であり、一人の人間の二つのアスペクトを象徴するように描かれているのだ*1。
結末部
かような観点から見ると、コンスタンスとメリキャットとの相克は、どうにか社会の側と折り合いを付けようとする個人の内面の葛藤と読み解くことができる。
これに対して、作者が与えた解決は美しくも残酷である。
結末部では、ジュリアン伯父は死に、チャールズは逃げ去り、屋敷は半壊することになる。しかし、それでもこの姉妹はその屋敷に留まることを選ぶのだ。次第に、村人からは零落した二人に対し食糧が届けられるようになる。これまでの迫害を反省するかのように・・・。そして二人はお城暮らしを続けていくことになるのだ。
「わたしとても幸せよ」コンスタンスはとうとう、息を切らしながら言った。「メリキャット、わたしとても幸せよ」
「月の上が気に入るって言ったでしょう」(p.243)
これは、社会の側から描出するならば、ある種の前近代的な処置であるといえる。すなわち、手の施しようのない狂人を、畏れと哀れみをいただきつつ座敷牢に軟禁していたのと軌を一にしている。
さて、では狂人の側の彼女らは、本当に「幸せ」だったのか?そんなはずはない。もし彼女らが幸せに見えたのであれば、それはあなたが少し生活に疲れているか、一人称小説の罠にはまっているかのどちらかだ。
ジョーカー、無敵の人、弱者男性、いただき女子。
彼ら彼女らは幸せなのだろうか?そして、社会の側は彼ら彼女らを作り出してしまって良いのだろうか?
私には、ジャクスンがこう問いかけているように感じられる。
最後に
ここまで、主として作品のプロットについて分析をしてきたが、実は私がこの作品で一番気に入っているのはそこではない。この作品の一番素晴らしいところは、殺人に使われた凶器のチョイスである。
おさとうに、砒素。
この作品において、ここまで適切な選択肢がありえただろうか?
What are little girls made of?
Sugar and spice
And all that's nice,
That's what little girls are made of.
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆
・虐げられた人の末路系の傑作短篇「神の恵みがありますように」を収録
・本当にずっとお城暮らしの人の物語
<<背景>>
1962年作。作家は1916年に生まれ、1948年に傑作短篇「くじ」で衝撃的なデビューを飾っている。彼女は1965年に49歳で早逝しているため、本作が最後の作品となったようだ。
長篇『鳥の巣』の解説によると、ジャクスン自身幼い頃から母娘間の葛藤を抱え、情緒が不安定だったようだ。また、成人してからも暴君的な夫、アルコール依存、過食、薬物依存など様々な問題を抱えていた。作家の抱えていた悩みが作品に昇華されているのは間違いないだろう。
なお、感想本文では触れなかったが、メンタル的な「お悩み」描写の圧倒的なリアリティも本作の魅力の一つだ。特に、作中でチラチラと情報が小出しにされるメリキャットの亡父が、現代でいうところのモラ夫の特徴を見事なまでに完璧に掴んでおり、なんというか、大変でしたね。
<<概要>>
一人称小説。全10章の構成で、章の下に区切りはなく、章題は付されない。
文庫本で200頁強、会話文も多いため、長編というより短めの中篇を読むくらいの手軽さだ。
物語は時系列に沿って単線的に進む、シンプルなものである。しかし、一人称小説の妙はきちっと押さえられており、登場人物同士の会話などからモザイク式に過去の事実が明らかになっていく。
<<本のつくり>>
ほとんど買ったことがない、創元推理文庫というレーベル。本文でも触れたとおり、作品のミソがプロットにあるとは考えないため、こうしたジャンル分けには懐疑的だ。
しかし、やはりこうしたレーベルや文庫本という体裁の方が手に取りやすいのか、あるいは作品の力か、2007-2024の間で既に16版を数えている。
翻訳は、様子のおかしな一人称の「少女」という視点を見事に捉えた訳文である。
様子がおかしいという点、少女という点、その少女が鍵かっこ付きである点。これらの微妙なバランスの上に、作品の面白さが成り立っていると思う。
解説は訳者ではなく、別の作家が担当するというパターン。正直好みではない。ミステリという看板のため、ネタバレに配慮しなければならず、突っ込んだコメントを書きにくいという制約もあるのかもしれない。しかし、作家の年譜や書誌情報などに乏しく、内容的にも物足りない。
*1:あるいは、コンスタンスをケアの担い手として捉える読みも現代的かもしれない。話題が散らかるので指摘だけ。