ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ナボコフ全短篇』③―その他の初期作品 ウラジーミル・ナボコフ/秋草俊一郎他訳

あの日生まれた恋心

ナボコフ全短篇』シリーズの3回目。今回は、アメリカで出版された4つの「一ダース」に収録されていない16作品、「その他」編である。

「一ダース」に収録されなかった理由は、VN本人がセレクトしなかった作品、発表されていたが逸失していた作品、発表さえされていなかった作品など様々である。そのため、作品の内訳としては、デビュー間もない所謂「若書き」のものが多い。

後年の作品からは考えられないような直球の作品もあるが、いかにもVNらしい凝った表現、凝った比喩はこの頃から健在である。作品の水準としては玉石混交で、「神々」のようなこの短篇集の中でも特に光り輝くものや、「ロシア語、話します」のような軽妙さが清々しい作品もある反面、読みどころがいまいちわからない作品もある。

これまで同様、手元で読める範囲の各種文献にもあたることにしたが、そもそもあまり評価の高くない作品や、死後発表で評価の定まっていない作品も多く、文献数自体が多くなかった。

そうした中でも、奈倉先生の「神々」を扱ったものは、流石のロシア語分析に唸らされた。

今回も、特に理由がない限り作者の名前をVNと略記することとし、気に入った作品には+を、特に好きな作品には◎を付している。

「森の精」(1921)

雪の日の夜、ドアをノックして訪ねてきたのは、なんと森の精だった。森の精は、命からがらロシアから逃げてきたという。

VNが亡命してから二年後、最初期に書かれた短篇。テーマはド直球にロシアからの亡命である。これ以降の作品にはほとんど見られない、民話調の作品である。

森の精の他に、水の精や家の精も登場する。家の精といえば、アレクサンドル・グリーンに「おしゃべりな家の精」という短篇がある【過去記事】。グリーンの活躍年代はおよそ同時期であるが、執筆の先後関係は不明。

チェーホフに同名の短篇があるが、軽く調べた限りロシア語原題は異なりそう。なお、チェーホフの「森の精」あるいは「森の主」は、「ワーニャ伯父さん」の下敷きになった作品。

「言葉」(1923)

天国にて、天使たちの集団を目撃する。語り手は、その天使に故国への思いを伝えたいと思う。

これもやはりド直球に亡命がテーマ。そしてこれも珍しい、宗教色の強い作品である。一方、既にして豊かな色彩表現が現れており、ロシア語時代のVNらしい文章となっている。

山や崖が描写されるなど、屋外での場面であったはずなのに、最後の一文でぽろっと「窓」が描かれ、夢オチであることを匂わせる。

天使に伝えきれなかった言葉と、天使が発した素晴らしい言葉の対比が美しい。亡命後、VNに残されたのはやはり「言葉」だったのだろうか。

音がよく響く涼しい別荘の部屋、菩提樹、初恋、マツムシソウのなかで眠っているマルハナバチのこと・・・。(p.23)

+「ロシア語、話します」(1923)

馴染みの煙草屋、マルチン・マルチヌィチとペーチャの親子には秘密がある。その秘密とは、なんとベルリンに居た革命政府のスパイを自宅に監禁していることだったのだ。

こちらもVNにしては数少ない真正面から政治的主題を扱った作品。作中人物がレーニンの肖像を叩き壊したりしてやりたい放題。割とストーリー重視の軽妙なお話で、VNらしくは無いがシンプルに面白い。

この作品で思い出したのはゴンブローヴィチの「ねずみ」(1937)【過去記事】。こちらは盗賊を家に監禁する老裁判官の話。

「響き」(1923)

一人称の恋愛譚。語り手は男性で、夫の出張中に既婚者の女性と不倫をしている。夫の帰宅の報を受けて、女性は離婚を口に出すが、語り手は関係の終了を告げて去る。

VN作品では政治や宗教よりも珍しい、音楽的なモチーフが登場するお話。バッハが登場して驚いた。作中にはトルストイの名前も登場する。不倫ものということで、『アンナ・カレーニナ』【過去記事】を意識しているようだ。

やはりVNと音楽の食い合わせは悪いのか、やや全体的な統一感というか、まとまりに欠けた印象。ただ、引用部分のようなもって回った、そして美しい比喩も既にあらわれている。

君はバッハを弾いていたね。ピアノはニスを塗った翼を上げ、翼の下には竪琴が横たわり、小さなハンマーたちが弦の上のさざなみのように渡っていった。

◎「神々」(1923)

傑作。これはVNが水準に達していないとして英訳を見送った作品ではなく、失われたと思われていた作品。晩年のVNの眼鏡にもかなったのか、「筐底」にも入っている。

一人称の小説で、語り手が誰かに語り掛けを行っている。叙述トリック風に少しずつ物語の設定が明らかになっていく。読者に再読を強制するナボコフ形式の萌芽ともいえる。

内容としては、実は語り手は亡くなった息子のことを思い出している妻を元気づけようとしていた、というもの。元気づけるその方法が、語り=おとぎ話なのである。

短い作品であるが、回想される葬儀の日と、回想をする春の一日の対比や、行先が息子の墓であることが明らかになる部分の鮮やかさ、物語・おとぎ話・言葉へのポジティブな信頼、バケツからあふれる水やニワトリと金の卵のモチーフ使いの巧みさなど、すべてが見事である。

参考文献では、複数形の神々の意味が考察される他、ロシア語原文では単語一つの文章が多くリズミカルであること、複数の民話が参照されていること、お得意の頭韻がちりばめられていること、ところどころロシア詩の詩形が見られること、戯曲「事件」*1の原型となっていることなどが指摘されている。

いまから半世紀もすれば、ぼくたちの通りや部屋に立ちこめていた匂いのことなど、誰にもわからなくなるだろう。(p.52)

君とぼくには新しい、黄金の息子ができるだろう。それは君の涙とぼくのおとぎ話が生み出したものだ。(p.58)

・参考文献

奈倉有里「ロシア語原文で読む、ナボコフの「神々」」(Круг 6:2013 p.28-32)

「翼の一撃」(1924)

スイスのリゾート地、ツェルマットが舞台。自殺により妻を失った男カーンと、スキーヤーの女性イザベルの物語。イザベルはスキージャンプの最中に天使と出会い、部屋まで来訪を受ける。ところが、カーンはイザベルの部屋を訪れた折、その天使を撃退してしまう。大会が催された日、イザベルは滑走中の事故で亡くなるが、カーンはそれを天使の報復だと考える。

ちょっとした変わり種で、幻想・怪奇寄りの雰囲気。どこがって、天使の描写が妙にケモノケモノしいのである。いわゆる「チェーホフの拳銃」が登場し、物語に緊迫感を与える。物語中、拳銃、光線、視線など、刺すような線のイメージが頻出する。

三人称小説だが、心を病みかけているカーンの妄想と解釈する余地もあるだろうか。全体としてやや散漫な印象。

参考文献は、スポーツ表象が主題のため、この作品についてはあらすじが紹介される程度。ただ、ナボコフにおいてはスポーツが「高次の生に到達する道」であるとの指摘は面白い。

・参考文献

岩本和久「近代ロシア文学におけるスポーツ表象の変遷 : トルストイからトリーフォノフまで」(スラヴ研究 62:2015, p.237-255)

「復讐」(1924)

夢想癖のある妻と、生物学の教授の夫の夫婦。夫は妻の浮気を疑い、妻の殺害計画を立てる。

あらすじからわかる通り、ややミステリタッチの作品。冒頭、突然一人称の「私」(≠教授、妻)が登場し、語りの位相が謎である。夢想癖の妻と合わせて考えると、ボヴァリー夫人過去記事】が念頭にあるのだろうか?こちらの妻は実際には浮気はしていないのだろうが、夢想癖が産んだ手紙が夫の疑いと、ひいては死を招くことになる。

冒頭、教授が持っていたスーツケースの中身が、結末で明かされることになり、やはり再読を強制する作りになっている。

作中、ミシュランタイヤのミシュランマンが出てくるが、『ロリータ』だったか、長編にも登場したような。

「恩恵」(1924)

門と婆と男の話。陶芸家とおぼしき語り手は、恋人とおぼしき女性と喧嘩をする。電話をして、ブランデンブルク門で待ち合わせをするが、女性はなかなか現れない。

という、男女の恋愛譚のようなスタート。ところが、門のシーンまでくると、物語は不思議な展開をみせ、門の前に居る物売りのおばあさんの話へと変化する。

門と老婆と男という組み合わせだと、どうしても『羅生門』を想起してしまうが、読み味は正反対で、むしろ善意が連鎖して世界が明るくなるようなお話だ。

これもかなり短めの短篇で、まるで作話の練習のような、絵画でいうところの習作のような作品に読める。

世界は決して争いではなく、獰猛な偶然の連続でもない。瞬ききらめく喜び、恵みにみちたおののき、ぼくらには価値がわかっていない贈り物なのだ。(p.98)

「港」(1924)

コンスタンティノープルからマルセイユについたロシア人ニキーチン。彼はロシア料理屋に居合わせた船乗りに、ボイラーマンに勧誘される。ちょうどそれと二重奏になるように、料理屋の娘リャーリャが、窓の外から男に口説かれる。ニキーチンはそこで懐かしいロシアを思い出す。その夕方、街娼を見かけたニキーチンは、その女がロシア人だと思って話しかけるが、実は違ったのだ。

これもまぁよくわからない短篇。亡命ロシア人あるあるなのか?VNはやっぱり変わっているな、と思うのが、短篇のほとんどの舞台が料理屋の中なのに、料理描写がボルシチしか出てこないところ。まるでロシア人じゃな人が想像で描いたロシア人みたいに。

その犬はロシア語で考えているように見えた。(p.104)

「ナターシャ」(1924)

ドミートリイが発掘してきて鳴り物入りで発表されてがっかりだったでお馴染みのナターシャ。

お馴染みの亡命ロシア人inベルリン。ナターシャは老父の介護をして暮らしている。向かいに住むヴォルフ男爵はナターシャに惚れている。ヴォルフはアフリカやインドでの冒険譚を披露し、ナターシャは聖母マリアと出会った神秘体験などを披露するが、双方ともに嘘だった。ある日ヴォルフはナターシャをピクニックに誘う。別れ際、ヴォルフは愛を告白し、ナターシャは帰宅するが、老父は亡くなっていた。

うーん、「港」ほどではないがやっぱりアレな部類だよね。見るべきところを挙げれば、ロシア語時代に良く見られる色彩のイメージか。ヴォルフに付着した青のイメージは、ピカソの青の時代を思わせる。それともう一つ、訳文でかなり特徴的なオノマトペが使われているところ。ロシア語が読めないので原文がどうなのかはわからないが、きっとこれは沼野先生の工夫なんだと思う。

ナターシャの歩く音は「さらさらと優しい音」、同じくレインコートは「さやさやとそよがせ」る。極めつけは一人寝の夜の表現。

絹の感触のせいで肌にぞくぞくっと蟻が走るような感じがして、思わず膝が縮こまり、眼が閉じてしまう。その蟻〔ぞくぞく〕を追い払いたくなかったのだ。(p.158、亀甲括弧内はルビ)

もうこれだけでご馳走さまでしたという感じ。美味しい比喩もあった。

・・・カフェがあったが、まったく人けがなく、・・・まるでどこかで火事があって、皆火事を見るために、自分のコップと皿を持って駆け出してしまった後のようだった。(p.164)

◎「ラ・ヴェネツィアーナ」(1924)*2

これは面白い。何故こんな面白い作品がVNの生前死蔵されていたんだろう?

短篇全体の中でもかなり長く、文体も散漫で、短めの中編といったテイストである。しかし、珍しいくらいストーリー性に富んだ作品で、非常に読みやすい。

リア充大学生フランクは、冴えない友シンプソンを伴って実家の屋敷に帰省した。父である大佐の屋敷には、絵画修復士のマゴアとその妻モーリーンが逗留していた。どうも、マゴアは大佐に対し、「ラ・ヴェネツィアーナ」という絵を高値で売ったらしい。

「ラ・ヴェネツィアーナ」に描かれている女性は、モーリーンそっくり。シンプソンはモーリーンに魅了されるが、やがてモーリーンよりも絵画のほうにより強く惹かれるようになる。マゴアが語った「絵の中に入り込む話」が頭から離れないシンプソンは、とうとう本当に絵の中に入り込んでしまい...

平たくいってしまえば叙述トリックなのだが、VNの筆さばきにかかれば、叙述により誤信させられた内容と、作品世界での真実との対応、ひいては虚構と現実との対応関係が実に見事に描かれる。芸術作品に惚れこみ、やがて現実化するという点で、ピグマリオン神話が踏まえられているであろうことも見逃せない。

そしてこの短篇が面白く、再読をそそるポイントは、三人称の語り手自身が「ただひとつの謎」と規定するレモンの存在だ。絵画に入り込んだかのように描写されるシンプソンは、もちろん実際には絵の中に入っていない。しかし、なぜか絵の中にあったはずの「レモン」を持っているのだ。

果実の比喩を伴って描写されていたこと、黄色い陽光が降り注いでいること、モーリーンが探しに行った描写が挟まることなどから、恐らくコイツの正体はテニスボールなんだろう。

現実と虚構の対比といい、レモンのようなそそる細部といい、いかにもVN的な作品だ。

なお、本作に登場する「ラ・ヴェネツィアーナ」のモデルは、セバスティアーノ・デル・ピオンボの「聖ドロテア」であると言われている。

参考文献では、ピグマリオン神話における彫像には、モデルが不存在であることを指摘する。その上で、本作の作中世界の「ラ・ヴェネツィアーナ」と現実の「聖ドロテア」とが異なり、作中世界の「ラ・ヴェネツィアーナ」にもモデルが不存在であることを指摘する。そして、本作品は、その意味においてもピグマリオン神話を継承するものであると位置づける。

・参考文献

加藤有子「顔のない肖像画 ナボコフ 「ラ・ヴェネツィアーナ」」(れにくさ(現代文芸論研究室論集)5:2014 p.133-147)

「ドラゴン」(1924)

主人公がドラゴンという変化球。ドラゴンは、母ドラゴンを殺されたトラウマから騎士が怖い。そのため、軽く10世紀ほど洞穴の中で引きこもって居たが、意を決して外へおでかけしてみた。すると街には鉄道が走り、自動車が走り・・・。

コメディタッチの作品。こういう軽い作品は首をひねることもないので、珍しく軽やかに読むことが出来る。訳注によるとドラゴンの元ネタとしてベーオウルフを引いているけど、イギリス文学を読む人はベーオウルフまで読んでいるのか・・・?

+「復活祭の雨」(1925)

かつてロシアで家庭教師をして過ごしたスイス人の老女ジョセフィーナ・リヴォヴナ。彼女はスイスに戻り、ロシアを懐かしく思い暮らす。近所に住むロシア人夫妻に気に入られようと努力するが、実らない。肺炎で死にかけるジョセフィーナに優しくしてくれたのは、やはり同じ元家庭教師仲間のフィナールであった。

完全に「マドモワゼルO」のヴァリエーション。同作の象徴的なボートの縁をまたごうと暴れる白鳥のイメージは、本作にもあらわれている。作品の出来だけで見れば、「マドモワゼルO」に軍配が上がると思う。ただ「マドモワゼルO」と引き比べてみるのも面白く、本作の独自性も見逃せない。

まず、本作ではスイス帰郷後のみを描いている。このため、マドモワゼルの憂愁が引き立つ内容となっている。その憂愁とは、ロシアでもスイスでも帰属意識を持てない、根なし、あるいは故郷喪失者としての憂愁だ。「O」には採用されていない、ロシア人夫妻とのエピソードがそれを際立たせている。

ロシア人夫妻とのエピソードとは、一緒に感傷に浸って泣きたいマドモワゼルと、静かに家族の間のことについて思いを巡らせたいロシア人夫妻とのすれ違いを描いた部分だ。

そこに、おしゃべりで感傷的な、暗灰色の陰気な目をした老婆がやってきて、しきりにため息をつきながら自分たちがでかけるまで居坐るつもりらしい。(p.238)

「O」で採用されていないのは、伝記的物語に寄せるためでもあり、表現したいところが直球的過ぎて凡庸だからでもあるのだろう。

ただ、このエピソードに顕れるマドモワゼルには『ロリータ』のHHや『淡い焔』のキンボートの萌芽を感じる。恐らく後期のVNであれば、上記の引用箇所のような記述は行わず、ただ空回りする主人公だけを描き、その周辺者の反応は行間に留めただろう。

逆に言えば、実はHHやキンボートに対しても、読者がこのマドモワゼルに抱くような優しさ/哀れみ/共感を持って読むことが出来ることをも示唆する。

+「けんか」(1925)

語り手は朝、電車にのりベルリンの町を出て、水浴をするのを習慣にしていた。同じような男が毎朝九時に隣に現れるようになる。やがて偶然入った居酒屋で、男がその店の店主であることを知る。語り手はその店に通うようになり、その娘と客の電気工とが恋仲であることを知る。電気工が無銭飲食をしようとして、店主と殴り合いの大喧嘩に発展する。

この短篇、一番良いのは三段落目の冒頭の一つの単語だ。

私たちは砂に寝そべって何時間も過ごした。(p.243、強調は引用者)

どうも毎日同じ男が居るな、の次の段落で「私たち」っていうこの感覚が妙に面白い。

昔、椎名誠のエッセイに、丸ノ内線で毎日居合わせる乗客のルーティンをつぶさに観察したものがあったが、なんだかそれを思い出した。

物語自体は、恐らく娘の恋人に対する父の嫉妬心が背景にあるものと思われる。けんかが始まった場面、次の引用の「なぜか」はいわゆるマーカーで、中身は下世話な隠喩だろうか。

それを見ているとなぜか、・・・派手な取っ組み合いをやったときのことが思い出された。取っ組み合いの最中、どういうわけか私の拳が相手の口のなかにはいってしまい、私は猛烈な勢いで相手の頬の内側の濡れた皮膚を押しつぶし、引き裂こうとしたものだった。(p.247)

+剃刀(1926)

ジョークとか風刺とかで定番(?)的な床屋×剃刀モノ。

志賀直哉の「剃刀」では実際に切っちゃうんだっけか。剃刀をノドに充てた床屋は、お前の生死を掌中にしているんだよ、っていうお話。

VNの場合は、例によって亡命ロシア人が主役。過去に暴力的な尋問を受けたのが床屋で、暴力的な尋問をした兵士が客という関係。そして、床屋が兵士をさんざん脅した挙句、何もしないで解放する。

話の筋書き自体は異なるが、生殺与奪権を誇示したあとに解放するという心理のアヤは、『ベールキン物語』の「その一発」を踏まえているのだろうか?

ところで、この床屋、福本伸行の漫画の主人公ですか?

鼻は製図用の三角定規のようにとがり、顎は肘のように頑丈で、長く柔らかな睫毛は、とても頑固で冷酷な人たちに特有なものだった。(p.266)

クリスマス物語(1928)

「クリスマス」と「クリスマス物語」と両方あってややこしい。若島先生が取り上げて有名になったのも、群像社のアンソロジーに入っているのも「クリスマス」のほう。

作家のノヴォドヴォルツェフのもとに、自作を携えた素人作家のアントン・ゴールイがやってくる。ゴールイは、どうもノヴォドヴォルツェフの作品のテーマを焼き直したようだ。その場に批評家のネヴェロフもいるが、若干ノヴォドヴォルツェフを軽んじているようで、クリスマスにちなんだ物語を作れ等と言ってくる。帰宅し、それに取り掛かるが・・・

作家の名前が沢山出て来る短篇。どうも実在の作家も多数含まれているようで、いわゆる「社会主義リアリズム」の為の当てこすりなんだとは思われる。ただ、少なくとも現在ではVN先生があてこする必要もないほど社会主義リアリズムなど忘れ去られ、むしろVNの名前のほうが偉大な存在とみなされている。

唯一面白さがわかったのは、「アントン・ゴールイ」の名前だ。これたぶん、アントン(チェーホフ)と、ゴーゴリとベールイの合成だろう。いずれもVNが高く評価するロシアの作家である。

 

・全短篇の初回記事はこちら

・VNの各長編の記事へのリンクはこちら

*1:ナボコフ・コレクション第3集所収

*2:執筆年