流星のような赤いTailの群れが呼び掛けるよ
・・・大規模な並列処理システムに関する、繰り返しの多い奇妙な本を編集していた私は、三つの長い段落の編集を終えた カリフォルニア大学サンタクルーズ校の教授を務めている著者は、レーモン・クノーを少し読みすぎたようだった(p.265)
<<感想>>
ああ、とうとうルリユール叢書に手をだしてしまった。だから危ないって言ったのに【過去記事】!
実験小説、ポストモダン風、ピンチョンの再来、ポスト・ギャディス、木原訳。この美味しい惹句の羅列に見事にカタに嵌められてしまった。
本作で一番キャッチーな工夫は、文章にピリオドがでてこないことだ。邦訳だと句点がでてこない。ただ、実際に読み進めてみると、この点はさほど驚くべき問題ではないことがわかる。原文ではコロンで、邦訳では1文字スペースで句点が代用されており、延々に長い一続きの文章で作品が構成されているというわけではないからだ。
従って、この工夫は、一種のタイポグラフィー、つまりは読者に対する視覚的な効果を与えているに過ぎない。
さてでは、なぜその視覚的効果が必要なのか?敢えてピリオド/句点を省略したことにより、何を表現したかったのか?その答えの方こそが本作のより大きな特徴となっている。
オリジナリティあふれる語りの構造
その特徴とは、この物語が、無名の、そして無数の一人称の語り手によって構成されていることである。語り手が特定の話題について話していたと思いきや、その物語は明確な終わりを告げることなく打ち切られ、語りの主は次の語り手へと移り変わる。
この連綿と続く語り手の交替こそが、本書の一番大きな特徴である。そして、ピリオド/句点が無いという特徴は、現在の語り手と次なる語り手との連続性を視覚的に支えているのである。
物語の中でも自己言及的に取り上げられるが、この独特の読み味は、ラジオを聞いているとき、あるいは単にラジオをつけっぱなしにしているときの感覚に近い。さっきまでアナウンサーが政治的な話題を話していたはずなのに、いま意識を向けるとお笑い芸人が下ネタを話しながら笑っている・・・。そうかと思うと、窓の外が薄闇になった頃、突如として演歌のリクエストが聞こえてくる・・・。
てんでばらばらの多人数の語り。これが、読むと脳内に直接聞こえてくるの*1である。
短篇の集合体として
この独特の語り方と次々に行われるジャンプ、つまりは語り手の交替に慣れてくると、作品全体が短篇の集合体のようなものとして読めてくる。
その意味では、グラスの『ブリキの太鼓』【過去記事】に似ているといって良いかもしれない。こちらは三人称のもと、狂言回したる主人公オスカルの目撃したエピソードが次々と繰り広げられていく小説だ。各短篇、もとい各章は大きく異なる実験的な文体で書かれている。
ただし、実際の読み味は本作と『ブリキの太鼓』とでは随分と異なる。それはやはり、一人称(特にいわゆる内的独白が多い)か三人称かという点と、語り手が一人か複数かという点に求められるのだろう。
三人称かつ主人公視点の物語は、読者を歴史の目撃者にするという点で、激動の時代(ナチス時代ポーランド)の表現には相応しいだろう。他方、無名の個人の無数の主観で織り成される本作は、コミュニケーションが断絶しつつある現代の小説の語りに相応しいといえそうだ。
お気に入りの「短篇」
後述のとおり、私は本作のこの連作短篇集的な側面のほうがお気に入りだ。
そこで、主に本作を既に読んだ人むけに、気に入った「短篇」についても少し言及しておきたい。
まず一番は、一人称の「俺」に「うんこ先生」扱いされるゴミ焼き男の物語(p.231-)だ。「俺」はラズベリー入りのマフィンなんかを焼くパン工場の労働者だ。ある日から、職場に「本物のキ印」がやってきて、業務用オーブンを(どうやら有償で)使うようになる。彼はあらゆるゴミを天板に並べ、その上にゴムシートを被せてこんがり焼き上げ、真っ黒いゴミの塊を日々制作しているのだ。後日、そのゴミ男氏が、実は売れない芸術家であるとわかり・・・
いやぁ、こういうキ印芸術家の話って、いいよね。
もう一つは、隣に引っ越してきたアンジェロの話(p.278-)。アンジェロは新品の噴射式除雪機がご自慢で、冬になったらお宅の除雪もやりましょうと申し出てくる。続いては、芝刈りなどの庭の手入れも「ついでだから」と代わりにやってくれる。アンジェロの親切は少しずつエスカレートし・・・
昔、「世にも奇妙な物語」という短篇ドラマ番組に「奇遇」という物語があった。自分と同姓同名、趣味まで同じ隣人が引っ越してきて・・・というお話*2。これが強く印象に残っていて、どうもその頃から奇妙な隣人モノのお話は好きらしい。
長編小説として
さて、いい加減長編全体のテーマについて書いていこう。短篇だ短篇だと強調しているが、本作は勿論長編小説なわけで、当然それぞれの短篇には共通するテーマやモチーフなどが登場することになる。
その一つとして挙げられるのが、いかにもポストモダンらしい自己言及的な言辞だ。
みんな、しゃべってるときにただ独り言を言っているみたいだったんだ――つまり、誰か特定の聞き手に向かってしゃべっているのじゃなく、自分の言葉を暗いリビングに向かってつぶやいているだけ 声は宙吊りのまま、孤独にそこに存在しているだけ、けれどもなぜか逆説的に、その孤独性がすごく人を引きつける(p.63)
どの映画もさらに小さなばらばらの映画が連続するものにすぎませんし、そのばらばらの映画は本質的に同じ物語を語っているんです(p.330)
引用のほかにも、一人芝居の役者が、次々と別の人物を演じ分ける舞台をテーマにした「短篇」もある(p.198-)。
もう一つ、作品全体のテーマに密接に関係するのが、ますます断片化する個人とその個人たちの連帯、あるいは共感のテーマだ。
そのときまた、その向こう側で反対向きに歩いている少年が見えた――
――俺と反対側の歩道にいる見物人の前を横切るように歩いていた みんなのことには全然お構いなしに 彼を見ていると、自分の一部が彼になってパレードに逆行しているみたいな気がした。
・・・彼が歩きながら激しく泣いているのが見えた――
いや、泣き叫んでいた、というか、肩を揺らして泣いていた 見ているだけでこっちまでもらい泣きしそうなくらい 俺は彼に共感してた――(p.360)
……そして、あなた方が結びついているという真実を見せるのだ……(p.190)
最後に、その個人たちの対概念として、強大化していく企業やマスマーケティングのテーマがあることも見逃せない。
……広告に発がん性があるという発表が行われました……
……(略)被ばくの結果、良心にがんが生じる確率も高まり……
……およそ七八パーセントの症例で……
……品格に、非定型な転移を引き起こします……(p.99、なお原文には空行が含まれる。)
まったく、目なんて感覚泥棒だ 情報を発するより、人を欺くことの方が多い(p.58)
この他にも、質問が省略され、回答だけが列挙されるたばこ会社の会見のシーン――曰く、たばこの有害性は証明されていないと――は印象的だ。
前後編の小説として
ここまで触れていなかったが、実は物語は後半から一気に一つのテーマに収束していく(p.358)*3。さながら、水を貯めた洗面器の栓をふいに抜いたように、それまでバラバラだった各「短篇」の物語が中心へのベクトルを持つようになる。語り手の変更の頻度が明らかに増す。もはやそれぞれの語りは「短篇」と呼ぶだけの内実を失い、中心について語る多数の、そして無名の声の集積となっていく。あるいは、作者の好きな音楽の比喩を使うのなら、ベートーヴェンの交響曲第九番のように、それまでの楽章の主題が反復されつつも否定され、合唱という大きなテーマで上書きされるようだ。
その中心的なテーマというのは、ある化学工業メーカーが、有害物質を漏洩させていたという環境公害の物語である。
実は私は、この物語が後半部分を持ってしまったことを、少し残念に思っている。
その一つ目の理由は軽微なもの。それはつまり、形式的にも内実的にも、前半部分の物語が好きだったからだ。連作短篇調で、次々と奇妙な話が繰り広げられ、そしてすべての話が宙吊りになる。この適度にポストモダンな調子が実に好みだった。そこで表現されている個々人が断絶している雰囲気は、21世紀的な感覚であるといっても良いかもしれない。これが不意に中心を持ってしまうと、善悪の彼岸からいきなり此岸に引き戻されたかのような感覚を覚えてしまう。無意識的な共感のネットワークや「沈黙の多数派」という、作者が期待をかけているテーマ*4がもはや信じられなくなっていると言ってもよいかもしれない。
二つ目の理由は決定的なもの。それは、私が既に『苦海浄土』【過去記事】を読んでいたことである。
考えてみると、『失われたスクラップブック』は『苦海浄土』と驚くほど良く似ている。『苦海浄土』の極めて重要な特徴は、語りが多層的なところだ。語り部(≒作者)の語り、行政文書の語り、そして語り部が見聞きした無数の当事者の声を代弁する語り。そしてその作品のテーマは、化学工業メーカーによる最悪の毒物漏洩、すなわち、言わずと知れた水俣病である。
エヴァン・ダーラが悪いわけでもないし、何も当事者性だけが文学ではないと強く信じているが、こればかりは仕方がない。事実は小説よりも奇なりというが、たまたま日本には、作中の「オザーク社」を上回る最悪の公害企業が存在し、そしてその現場には天才詩人が居合わせた。
原液をガロン単位で摂取した後に飲むカルピスウォーターはちと薄すぎる。
とはいえ、作意としてはやはりこの後半部分の主題を支えるために前半の「短篇」があったのは明らかだろう。また、似たテーマの、違う語りの質を持つ物語として捉えれば、やはりどちらも名作であることは疑いえない。
本作単体としてみても、後半部分でテーマが明確になってからの方がリーダブルかつ展開も興味をそそる。
実験色が強すぎ、いたずらに難解だった過去のポストモダンとは違い、多くの読者に開かれた現代的なポストモダン小説として十分に成功しているといえるだろう。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆
・読むのに覚悟が必要な公害文学の金字塔
・ダーラの盟友(?)の作品
<<背景>>
本作は1995年発表。水俣病の「公式確認」が1956年、『苦海浄土』の原型が発表されたのは1960年だ。
この1995年という年は、私にとっても特に印象深い年だ。阪神淡路大震災が起き、地下鉄サリン事件が起き、そしてWindows95が発売された。アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が放送開始した年でもある。世紀末的な世相であったのと同時に、インターネット普及元年であり、恐らくは史上もっともマスメディアが力を持っていた時代だ。
これを踏まえると、ダーラのこの作品は、やはり当時の社会状況を映し出しているように思える。
なお、作者エヴァン・ダーラは匿名・匿年齢・匿性別の謎の覆面作家だそうだ。中の人がリチャード・パワーズではないかと噂されることもあるそうだが、確かに良く似ている。クラシック音楽への深い造詣、環境問題への関心、あるいはその博覧強記さなどはとてもパワーズらしい。強いていえば、パワーズの方が若干ペダントリーな印象がある。
読み味がピンチョン風だという意見にも納得だ。なんかこう、耳元でずーっとお喋りが聞こえてくるような、「もううるさい!ちょっと静かにしろ!」というような流し込まれ感が似ている。
<<概要>>
いつも概要欄に書いている内容は、今回すべて感想本文で取り上げた気がする。
一つだけ、英語圏のダーラファンと思しき方の次のサイトが便利だ。「短篇」ごとの見出しとページ数が書かれている。ページ数などはすべて原著に基づくが、邦訳版を読み進める(のと、この記事を書くのに引用箇所を探す)のに、とても役に立った。
<<本のつくり>>
ルリユール叢書を取り上げるのは初めてなので、この点についても触れよう。
まず目を引くのは、二色カラーのカヴァーだろう。本体より少し小さいカヴァーからは本体色が少し顔をのぞかせる。そこにカヴァーの半分ほどの大きさがある帯が巻かれており、計3色の彩り豊かな装丁となっている。
見た目の派手さとは裏腹に、本の作りとしては質実剛健そのものだ。詳細な作家年譜に、他の叢書では類を見ない長さの訳者解題が付される。もうこの二つがたまらなく好きである。
また、個人的には訳者の陣容がいまもっとも堅実なのはこの叢書なのではないかと思っている。これは出版社主導なのか?訳者主導なのか?そのあたりはわからないが、いずれの作品についても、当該作品について専門性の高い訳者を起用している印象がある。このため、作品一覧を見ると、あまり他の出版社では見ない訳者(=研究者)の方が名を連ねている。
本作についていうと、安定の木原訳、文句なしである。一つ特徴を挙げると、漢字+ルビの使い方に苦心の跡が見られる。例えば、「滑走奏」にグリッサンドというカタカナルビが振られている箇所(p.255)。訳語のチョイスとして言えば、明らかに「グリッサンド」というカタカナ表記が定訳である。しかし、音楽用語に明るくない一般的な読者が読んだときに、一読了解できるかというとそれはまた疑問である。そこで、漢字とルビとの役割を転倒させ、漢語の方で意味を補い、ルビの側に定訳をあてるという解決を図っている。同じページに出てくる「辺境」と「フロンティア」のセットとは、ルビの使用目的が違うのもまた面白い。
実は木原先生の著書『実験する小説たち』(2017)*5で本作を知って以来、読んでみたいと思っていた作品の一つであった。恐らくは訳者としても、7年も前から訳したいと思われていた入魂の作品なのではなかろうか。
なお、この『実験する小説たち』は、我らがナボコフ先生の『淡い焔』【未来記事】や『ユリシーズ』はじめ、一癖どころか二癖も三癖もある「実験小説」が多数紹介されており、イチオシである。