セカイ-内-存在
小説は固有の仕方、固有の論理によって、人生の様々な諸相を一つひとつ発見してきた。すなわち、セルバンテスの同時代人たちとともに冒険とは何かを問い、サミュエル・リチャードソンとともに「内面に生起するもの」を検討し、秘められた感情生活を明るみに出しはじめ、バルザックとともに<歴史>に根ざす人間を発見し、フローベールとともにそれまで「未知の大陸」だった日常性を探求し、トルストイとともに人間の決断と行動に介入する非理性的なものに関心を寄せた。小説は時間を測定して、マルセル・プルーストとともに過去の捉えがたい瞬間を、ジェームズ・ジョイスとともに現在の捉えがたい瞬間を測定した。トーマス・マンとともに時代の奥底からやってきて、私たちの歩みを遠隔操作する神話の役割を問うた、等々。(p.14)
≪感想≫
せっかく皮肉っぽい良いタイトルを思いついたと思ったのに、ぐぐったら他にも一人同じことを考えた人が居たようで残念。
さて、本書で著者は、「小説家とは小説の蔭に身を隠すもの」として、作者の個人史に引き付けて作品を解釈されることを拒絶し、あるいは作品と著者自身との思想が独立であることを主張したりする。だが、そのような解釈をされたくないのであれば、著者はテクストを燃やしてしまうべきだ。テクストは、それが読まれた時点で既に読み手に強奪されているのである。そう、これは私の主張なのではなく、クンデラ風にいうと、存在論的な命題なのである。
これを前提に、本作は傑作であった。しかしそれは、披瀝されている著者自身の小説観が面白かったというより、本書の構成要素と、著者のカフカ解釈が書かれた第5部が気に入ったためである。シャリとガリとが美味い寿司屋だ。
本書は難読な書物だと思う。なぜかというと、広範な文学作品を読んでいて、かつ、哲学・思想分野にも若干の知識を要求されるからだ。最低限、フローベール(『ボヴァリー夫人』がベターか)、トルストイ(『アンナ・カレーニナ』)、カフカ(『城』若しくは『審判』。『判決』や、『流刑地にて』でもいいが、『変身』では物足りない)あたりと、クンデラ自身の作品をいくつかは読んでいる必要があるし、セルバンテス、バルザック、ジョイス、マン、プルースト、ドストエフスキーがどのような作品を書いているか知っている必要がある。『1984年』を知らないと、著者の批判の矛先は理解しがたい。哲学書を読んでいる必要まではなかろうが、デカルト、ニーチェ、ヘーゲル、サルトル、ハイデガーあたりの思想にふれていないと、退屈極まりないだろう。
しかし、逆に言えば、これらの作品や思想に触れたことのある”マニア”にとっては、これほど面白い作品はない。文学・思想マニアにとっての本作は、巨大ロボットSF学園ラブコメディであり、消費したい構成要素で埋め尽くされている。
クンデラはハイカルチャーとしての文学を衒うが、所詮小説などアニメ程度のものに過ぎない。文学を知らなければ、どうやって記号を消費するのだ?(アニメだ)。
本書の白眉はカフカ解釈(を通じて小説観)を語る第5部である。
様々なカフカ解釈に触れたことがあるが、どれもわかったような、しっくりこないような気でいたが、クンデラの見解にはおおいに納得させられた。文学部に在籍していた頃、ドイツ文学の授業で『流刑地にて』と『判決』を紹介していただいた。その頃からカフカといえば両作品がお気に入りであった。クンデラの手助けにより、当時の読後感がはじめて輪郭を伴って見えた思いである。クンデラを通してみるカフカは、裁判所に日参し、『判決』や『審判』の名宛人たちの実存に触れている私のナマの実感にもおおいに合致する。カフカ好きには、ぜひ本書第5部だけでも一読いただきたい。
さて批判も。
クンデラの小説観はなるほど興味深い。しかし、その"小説史観"は怪しい。クンデラによれば、小説というのは、デカルトを嚆矢する諸科学の飛躍的な発展と歩調を併せ、その裏面でセルバンテスにより創始され、進行していった文化であるという。「小説はヨーロッパの所産であり、様々な言語でなされていても、小説の諸発見はヨーロッパ全体のものだということである。(p.15)」なのだそうだ。
クンデラは、実験的諸自我によって実存が描かれた(実に1000年も前に!)『源氏物語』を知らないのだろうか。ルポルタージュ、詩、散文の諸形式を用い、かつ、ヨーロッパの散文の系譜とは全く独立に、未知だった実存に認識の光を当てた『苦海浄土』を知らないのだろうか。あるいは、著者がヨーロッパ的人間性の源流を求める古代ギリシア哲学が、中世においては他文化によって保存されていたことを知らないのだろうか。
小説という営為は、ヨーロッパに限らず、人類にとって、まさに可能的な人間の実存そのものではないのか?著者は『存在の耐えられない軽さ』で、「キッチュ」を猛然と批判する。キッチュな人間のキッチュへの欲求とは、「物事を美化する偽りの鏡にじぶんを映し見て、ああ、これこそじぶんだと思って感動し、満足感に浸りたいという欲求のこと(p.183)」だそうだ。然るに、私には、クンデラの安易な小説史観は、キッチュそのものに見えてくる。
お気に入り度:☆☆☆☆
人に勧める度:☆(マニア向け)
≪背景≫
1979年-1985年に発表されたテクストをまとめ、1986年発表された。
クンデラは既発表作品に手を入れる癖があるが、訳書の底本にされたテクストは2011年に刊行されたもののようである。
≪概要≫
著者の小説観を語る、文学評論本である。
全7部。クンデラの作品は7部構成のものが多いが、そのこと自体も第4部で話題に上る。また、2・4部がインタビュー形式、6部が定義集、7部が講演録と、様々な表現形式をとっているが、自身の作品に様々な表現形式を持ち込むことについても第4部で話題に上る。
第1部、第7部では小説観がストレートに示されている。
第2部、第6部は自作の技法・用語法の説明を通して、小説観が示される。
第3部、第5部はそれぞれブロッホ、カフカの読解を通して語られる小説観である。
第4部は、自作や多作を通じて、小説の構成技法について論じられる。
≪本の作り≫
訳文は新しく、素直に読み通すことができた。
訳者はクンデラ作品を多く訳し、原著者とも交流があるようで、安心感がある。
解説でも欲しい情報(出典など)が必要十分に語られる。
感想でも示したが、やたらと多くの"構成要素"が登場する本作にあって、人名索引がついているのは、非常に親切、便利で、配慮が行き届いている。